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菊池市の菊まつりに行ってきました🌼

こんにちは。昨日は菊池市の菊まつりに行ってきたので、今回はそのレポートになります。菊池市の菊まつりは、菊池一族の武者姿をかたどった菊人形で有名です。私も初めて見ましたが、等身大の武者人形はとてもリアルで臨場感がありましたよ!もちろん菊人形の他にも色とりどりの様々な品種の菊がたくさん展示してあって綺麗でした✨また菊池観光協会では、戦国武将甲冑展があっていて写真撮影自由だったので、あわせて写真でレポートしたいと思います❣️(写真多め3500字)

菊まつりの会場はここ

私のnoteでは何度も菊池市と菊池一族を取り上げておりますが、今回初めてご覧になる方もいらっしゃるかもしれないので、改めて簡単にご説明します。熊本県菊池市は鎌倉時代後期から室町時代にかけて栄えた菊池一族の本拠地です。南北朝時代には後醍醐天皇の皇子である征西将軍宮・懐良親王を迎え、九州南朝の征西府が置かれました。懐良親王を奉じて菊池一族の最盛期を築いた15代菊池武光は菊池市の一大英雄で、菊池市のシンボルとして騎馬像も建てられています。菊池市菊まつりの会場は、菊池武光公騎馬像のあるふるさと創生市民広場です。それでは早速、行ってみましょう🏃‍♀️


菊まつり

広場に特設された菊まつり会場入り口を入ると早速、菊文字とクマモンの菊人形がお出迎え。気分が上がります💓↓

花がちょうど見頃なこともあり、人出も多く賑やか
菊に彩られたクマモンと五重塔
武光公騎馬像の下には菊で模られた菊池の名山「鞍岳」

菊人形

武光さんの騎馬像の前には、南北朝時代の菊池一族の名場面が華麗な菊人形で再現されています。そのうちの「袖ヶ浦の別れ」の再現場面。↓


「袖ヶ浦の別れ」は、太平記11巻「筑紫合戦の事」に因んだエピソードです。まずは現地案内板を引用し、説明とします。↓

       袖ヶ浦訣別の場
 元弘3年(1333)2月、隠岐の島に流されていた後醍醐天皇が脱出に成功し、船上山に行宮を置いて諸国に向けて討幕ののろしをあげた。この命を受けた菊池氏12代武時は少弐・大友氏と共に、鎮西探題北条英時を討とうと、挙兵の密約を結んでいた。
 しかし、これを察知した英時は九州御家人を博多に招集した。武時公も招集に応じ、3月12日に探題館に出頭したが、遅参したことを理由に門を閉ざして入れない。さては挙兵の計画が漏れたかと思い、今夜襲撃を決行しようと大友・少弐氏に挙兵を促す使者を出したが、その時はすでに心変わりして、北条側に寝返っていた。武時公はやむなく一族だけで戦おうと、13日夜博多の町に火を放ち北条館に突入したのである。
 武時公は討ち入りを前にして長男次郎武重を近くの袖ヶ浦に呼び「自分は勅命により北条英時を成敗するため打ち入るが、もとより死は覚悟の上である。あさましき奸賊大友・少弐が敵に寝返ったいま、衆寡敵し難いとはいえ、このまま菊池一族を絶やしてはならない。次郎!お前は急いで菊池に帰り、再起して我が生前の恨みを晴らせ」と、鎧ひたたれの袖を引き裂いて、妻に宛てた次の一首を武重に託した。

ふるさとに今宵ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらむ

 武重は武士の身でありながら、この危機に一人生き延びて帰ることはできないと、父らと共に打ち入ることを願ったが、父の「天下のためであるぞ」の一言でやむなく菊池に帰った。
 この菊人形はその別れの場を菊花で表現したもので、文化会館の緞帳と同じ「袖ヶ浦の訣別の場」である。

せっかくなので、西源院本『太平記』からも該当箇所を引用します。↓

 菊池入道、これを見て、嫡子肥後守武重を呼んで申しけるは、「われ今、少弐、大友に出し抜かれて、戦場の死に赴くと云えども、義の当たる所を思うゆえに、命を堕とさん事を悔いず。しかれば、寂阿(武時)に於いては、英時の城を枕にして討死すべし。汝は急ぎわが館へ帰って、城を堅くし、兵を起こして、わが生前の恨みを死後に報ぜよ」と申し含めて、若党五十騎を引き分けて、武重に相添えて、肥後国にぞ帰しける。古里に留めし妻子どもの、出でしを終の別れとも知らで、帰るを今やとさこそ待つらめと、あわれに思ひければ、一首の歌を袖の笠符に書いて、古郷へぞ送りける。
 古里に今夜ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらん
 武重は、四十有余の独りの祖、ただ今討死せんとて大敵に向かう闘いなれば、「一所にしてこそ、ともにともかくもなり候わん」とて、再三申しけれども、「汝をば天下のために留むるぞ」と、父が庭訓堅かりければ、武重力なく、これを最後の別れと見捨てて、泣く泣く肥後へぞ帰りける、心の中こそあはれなれ。

兵藤裕巳校注『太平記(ニ)』p.184-185

また前置きが長くなってしまいました🙇‍♀️それでは、袖ヶ浦の別れの場面を再現した勇壮華麗な菊人形がこちらです。↓

写真の撮り方(光の当たり方)にもよりますが、めっちゃリアル。中央の12代菊池武時さんを挟んで、息子である武重さん(後の13代当主)と武光さん(後の15代当主)が両脇に並びます。
※太平記では書かれてませんが、菊池市のストーリーでは、武光さんも袖ヶ浦の別れの場にいたことになっています。

武時さんと武光さんアップ。武時さんの人形は渡哲也似で渋かっこいい。(享年42歳)武光さんは当時はまだ子供でした。(当時14歳くらい)

このアングルからの武重さんのイケメンっぷりがヤバい。(当時26歳)因みにこの後、鎮西館に打ち入った武時さんと菊池一族は北条方に敗れて討死します。武時さんの跡を継いだ武重さんは、討幕が成った後の論功行賞で、亡き父の功績により後醍醐天皇から肥後守に任命されたのでした。13代菊池武重は南北朝時代の前期に楠木正成や新田義貞と共に活躍した武将で、太平記にも登場します。去年5月の菊池散策では武重さん関連史跡はあまりご紹介できていなかったので、今後早い時期に記事にしたいと考えています。

因みに人形を横から見るとこうなってます。ワイヤーに菊を這わせて胴体に見せるには高度な技術が必要なのだろうと推測します。

色とりどりの菊花

以下、菊まつりの多品種、色とりどりの菊花ギャラリーです✨↓

モフモフの菊と花弁が細い菊と。
小さい菊花も可愛い💕
沢山のオレンジ色の蝶が花から花へ飛び回っていました。
盆栽の菊も。
古典的な形の菊。白と紫の微妙なグラデーションが好き
細い花弁の菊もとても綺麗で好き
黄色は金糸のようでゴージャス
ピンクも可愛い
こちらは日本画のようなタッチの菊
ダリアのような菊。この淡いピンクパープル色が好き。

華麗な菊人形と色とりどりの菊花を見れて目の保養になりました〜😆それでは次に、すぐ近くの菊池観光交流館に移動して甲冑展のレポートです!

戦国武将 甲冑展

甲冑工房丸武プレゼンツ

入り口一番に展示してあったのは何故か足利尊氏の鎧。

足利尊氏本小札大鎧写

派手ですね笑 胴当てに描かれている可愛らしいタッチの不動明王と脇侍が印象的。ネットで調べていたら、本物はメトロポリタン美術館にあるそうですね😳METのサイトには尊氏さんが神社に寄贈したものと書かれていたので、実戦で使用したものではないのかな?

加藤清正の甲冑

むしゃ(武者)んよか〜✨(熊本弁:かっこいい)さすが肥後の英雄、展示の仕方にも気合いが入ってますね。でも特徴的な兜をずっと見ていると、バルタン星人にしか見えなくなってくる。。(←こら!)

左から細川忠興、島津義弘、立花宗茂の甲冑

細川忠興さんの甲冑はヨーロッパのナイトみたいだなと感じました。キリシタン大名とも交流が深く、奥様はガラシャさんだったから、甲冑のデザインもヨーロッパの影響を受けてたりして。(勝手な想像です。)

大谷さんの兜のモデルも展示してありました。

あとがき

秋晴れの中、勇壮華麗な菊池一族の菊人形を見て、九州南北朝の史跡巡りを先に進めなければと気持ちを新たにしました。最近、固定記事の「九州南北朝の史跡を巡って旅行記としてまとめたい (西征府の変遷を中心に)」によく好きを頂き、プレッシャー、いや、大変励みになっております!(最近九州南北朝シリーズUP出来ていなくてすみません🙇‍♀️)
因みに菊池市の「菊池一族関連遺跡」 が国の史跡に正式に指定される見込みとなったそうです㊗️足利尊氏も直木賞小説になりましたし、コメントで交流させて頂いているnoterさんとも静かな南北朝時代ブーム来てるよね!という話で盛り上がったところでした。南北朝時代の人物が大河ドラマで取り上げらるようになる前に、私も九州南北朝シリーズの記事を先に進めなければ笑

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献・HP】
・菊池市役所 政策企画部 菊池一族プロモーション室「菊池一族ことはじめ」パンフレット冊子
・菊池市役所 政策企画部 菊池一族プロモーション室「菊池一族歴史さんぽ」パンフレット冊子
・菊池市公式ウェブサイト
・兵藤裕巳校注『太平記(ニ)』岩波書店 2014年

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