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九州南北朝の史跡巡りシリーズ🌹宇土編 後編 (宇土市歴史さんぽ⑤) 【征西将軍宮】

こんにちは。今回は熊本県宇土市散策の5回目です。今回は宇土市走潟町にある征西将軍宮ゆかりの神社並びに、南北朝時代の史跡ではありませんが、ミニ鳥居くぐりで有名な粟嶋神社をご紹介します。

今日の散策地はここ!

〈南北朝時代の宇土について〉
最初の宇土領主である宇土氏は、宇土庄の庄官として宇土を治めていた一族で、早くに菊池氏から分かれた一族と伝えられています。それゆえか、南北朝時代の当主・宇土高俊(うとたかとし。のち改名して道光)は、鎌倉幕府倒壊後はほぼ南朝方の立場を全うしました。宇土高俊は1348年1月2日、薩摩から肥後入りした征西将軍宮・懐良親王一行を宇土津に迎えています。そして宇土は、1381年に今川了俊によって菊池征西府が陥落した後、後征西将軍宮(二代目)・良成親王と当時の菊池家当主•菊池武朝が宇土氏を頼って一時征西府を移した地です。前後征西将軍宮・懐良親王と良成親王及び菊池武光、武朝については、菊池散策記事【予告編】の人物紹介にて詳述しておりますのでまだの方は是非ご一読下さい↓

散策地と散策ルート紹介

今回の散策ルートを地図上に赤線で示しています↓
征西将軍宮(将軍神社)は住宅地と田んぼの境にある小さな神社で駐車スペースが無いので、粟嶋神社の🅿️に車を置かせて頂き歩いて向かいます。

画面下が前回ご紹介した中世宇土城

因みに、征西将軍宮のある馬蹄型の中洲の内側が走潟町になるのですが、この地形、気になりませんか?宇土での良成親王の御在所があった正確な場所は分かっていないのですが、参考文献に挙げている藤田明著『征西将軍宮』には、「走潟村に字将軍といへる地あり、伝えて将軍の御遺跡なりと称す。されど俄に信じ難し。」(p.494)と記載があったので、この征西将軍宮(将軍神社)をネットで見つけた時は、もしかしたらここが良成親王の御在所跡と伝承される場所じゃないかとドキドキしました。この馬蹄型の中洲も不自然な形で、良成親王の御在所を守るために川で囲まれた地形を利用したんじゃないかな?と勘繰ったのですが、後に調べたら川の直線部分は、後世の江戸時代に蛇行した川がよく氾濫したために氾濫対策として造られたようです。それで今のような中洲地形になったんですね😅征西将軍宮については、ネットで調べた限りでは、神社は寂れていて由緒も分からないとのこと。さて、このミステリアスな征西将軍宮(将軍神社)果たしてどんなお宮さんなのでしょうか?まず最初に、粟嶋神社にお参りしてから将軍神社に向かいます。それでは散策スタートです🏃‍♀️

粟嶋神社

「粟嶋神社」は寛永10(1633)年建立。御祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと:粟嶋大明神)。医療・医薬の神様として多くの人々が参拝に訪れる神社です。文化11年(1814)参拝者が病気平癒のお礼に感謝をこめて奉納した「日本一小さな鳥居」があることで有名です。こちらが神社の入り口です↓

吹き流しが風にたなびいて、神社入り口を彩っています。鳥居の横は広ーい駐車場!それでは奥まったところにある境内に向かいます👟

明るい境内に建つ拝殿
拝殿の向かいには三基のミニ鳥居が!

この小さな鳥居をくぐると病気平癒,子授け・安産等にご利益があるとされているそうですよ。よく見ると一基ごとに幅が異なってますね💡一番左の馬門石のミニ鳥居には挑戦中の方がいました。周りの親族の方々がみんな笑顔で応援してて、明るく楽しい雰囲気がいいですね😊

宇土のゆるキャラ「行長しゃん」もトライ中。行長しゃん、ポッチャリ体型だから無理なんじゃないかな。。

ところで境内には先にご紹介したミニ鳥居の他に、文化11年(1814)に病気平癒した方が奉納した古いミニ鳥居があるようなのですが、今回先を急いでいたこともあり、見つけて写真を撮るまでには至りませんでした💦それではここから歩いて征西将軍宮(将軍神社)に向かいます🏃‍♀️

粟嶋神社から出たところ。
あの「次郎兵衛橋」を渡って走潟町に入ります。
橋から浜戸川を望む

浜戸川の川幅、河口に近いこともあり、想像してたよりずっと広い!もし走潟に良成親王の御在所があったとすれば、御在所を守る天然の堀として機能したことでしょうね!因みに、画面中央奥に見える山は熊本市西区にある金峰山。金峰山山麓には、1381年に菊池西征府が今川了俊によって陥落した後、良成親王と菊池武朝が一時西征府を移した「たけの御所」があったと伝えられています。そして、金峰山と宇土の間に、当時南朝方だった川尻氏の本拠地•河尻が位置しています。菊池陥落後、良成親王と菊池武朝は「たけ」→「川尻」→「宇土」→「八代」と、南朝方の拠点を南下して転戦し、八代で今川北朝軍と最終決戦となりました。(詳細は八代編の記事参照)

走潟町に入り田んぼ道を通って、あ、見えてきました!
木々がこんもりとしているところが将軍神社です!
近づいてきました〜、ドキドキ。

征西将軍宮(将軍神社)

小さいけれど明るく綺麗なお宮さんではありませんか!ネットで事前にサーチした情報では由緒書もなく、社殿も寂れているとあったので心配だったのですが、境内は綺麗に掃き清められていて、地域の方々が大事に管理されているのが分かります。そして、鳥居の前に立つと、風が吹いてきて木々が優しくサワサワとなり始めましたよ🍃歓迎されているようで嬉しい💕今ふと気づいたのですが、征西将軍宮(懐良親王と良成親王)が祀られている神社に参る時は、鳥居をくぐる手前付近から風が吹くんですよね。それも、菊池の雲上宮と八代の八代宮(ともに祭神は懐良親王と良成親王)に参った時は結構な強風でしたけど。(偶然かもしれませんが)そしてなんと、神社の角には真新しい案内板が設置されているではありませんか😳↓  早速以下に引用させて頂きます。

神社の北東角にある案内板と「皇紀二千六百年記念」石碑

    将軍神社(征西将軍宮)由緒
御神祭 懐良親王
    仁徳天皇
合併神祭 沖津(興津)彦神
     沖津(興津)姫神
由緒
『肥後国神社明細帳』によれば、将軍神社は、菊池武房という人物により創建され、一時は廃れたものの、江戸時代の寛文12(1672)年に再建され、大正6年に『走潟村字将軍741番地』(現在の東走区)から現在地に移された。将軍神社の鳥居には、この点を裏付ける『大正8年4月建設』の文字がある。
 御祭神である懐良親王は、後醍醐天皇の第16皇子であって、南北朝時代の動乱の中、南朝方の勢力拡大のために九州に派遣されたことから、征西将軍将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼称されている。
 懐良親王が走潟に祀られることになった経緯について『古社取調書』には、『田代信正が走潟の斉藤隆國の養子として菊池から移り住んだ頃、征西将軍宮(懐良親王)が当地(走潟)によく足を留め、その後に八代に居住したが、当地(走潟)での縁により、菊池武房が将軍神宮を建立した』旨の記載がある。
 ここに登場する田代信正とは、西走下区の田代家に残る家系図に登場する人物であり、文和4(1355)年に菊池氏領内に居住していた旨の記録がある。この時代は南北朝の動乱の最中であり、菊池氏は征西将軍宮としての懐良親王に助力した有力氏族として有名である。田代氏が菊池氏と共に南朝方に協力し戦ったと想定すれば、田代信正が走潟に移住した頃、菊池氏が懐良親王との『縁』により将軍神社を建立したものと考えられる。
 なお、『古社取調書』の『征西将軍宮が・・・その後八代に居住した』旨の記述から、田代家との『縁』は、懐良親王が北朝方に押されて南に転戦する過程の1380年頃のものと推察される。
(例祭行事省略)
         令和3年12月吉日 有志一同

ここでちょっと私がこれまで記事で書いてきた事と違う内容が書かれていて❓と思う方がいらっしゃるかと思いますので補足コメントいたします。

まず、案内板の「将軍神社は、菊池武房という人物により創建され」たという点について。この菊池武房が菊池家10代当主•菊池武房(1245-1285)を表しているとすれば、武房さんは元寇の時に活躍した方なので懐良親王の神社を建てるには時代的に合わないかなぁと思いました。懐良親王の神社を建てられるのは、懐良親王が亡くなったとされる1383年以降の菊池一族の誰かということになるかと思われます。

そして、案内板最後の箇所「なお、『古社取調書』の『征西将軍宮が・・・その後八代に居住した』旨の記述から、田代家との『縁』は、懐良親王が北朝方に押されて南に転戦する過程の1380年頃のものと推察される。」について、以下、僭越ながら2つの可能性を勝手に妄想したいと思います。【その①】北朝方に押されて南に転戦する1380年代の征西将軍宮は二代目•良成親王であり、菊池武朝に擁されて1387年には宇土に西征府を置いていることが分かっているので、走潟にあったと伝承される良成親王の御在所跡が将軍神社となったが、後世のどこかで御祭神が懐良親王に転じた説。(戦前の懐良親王顕彰の機運が高かった頃とか。鳥居の碑文の大正8年や、皇紀2600年記念(1940年)の石碑が建てられた頃がそうかな)
【その②】現在の通説では、懐良親王は1374年頃に征西将軍職を甥の良成親王に譲った後、五條氏の本拠地•筑後矢部(現福岡県八女市)に隠棲して同地で亡くなったとされていますが、文献の中には、八代に移り住んだという説が書かれているものもあります。私個人的には、八代には懐良親王に関する沢山の史跡や伝承が残っていることから、征西将軍職を辞してから亡くなるまでのずっとじゃないとしても一時期、八代に滞在していた期間があってもおかしくないのではないかと感じています。もしそうだとすれば、八代に居住する前に宇土の田代氏と縁があったという案内板の記載もあり得るのではと感じました。

何はともあれ、この案内板が建てられたのは令和3年12月。地域の有志一同の方々が古文書を調べて建てられたんでしょうね。最近各地の史跡で真新しい案内板をよく見かけるので、地元の史跡や歴史を再評価しようという機運が盛り上がっているのかなと嬉しくなります。さて、妄想が長くなりましたが、それではこれから境内をじっくり見学したいと思います💕

鳥居と拝殿の間には、ペンキも新しい遊具が設置してある
ここの遊具で育つ子供達、宮さまファンとしては羨ましい
掃き清められ明るい拝殿周辺。しめ縄も新しい。
馬門石の階段がアクセントになって素敵。社殿全体は古そうだけど本殿の扉は真新しい板に取り替えられている。

宮さま方(一応、両宮にご挨拶)、今日はお会いてきて嬉しかったです。素敵な時間をありがとうございました🙏

あとがき

今回は、征西将軍宮についてあまりご存じない方にとっては、途中長文の妄想をはさんて訳がわからない思いをさせてしまったら申し訳ございません🙇‍♀️ただ、宇土にもちゃんと宮さま方の痕跡があったよ〜ということが伝われば嬉しいです。実際、宇土と征西将軍宮や菊池一族との関わりが明確に書かれた当時の史料は少なく、文献にもほとんど登場しないので、こういった民間伝承地の史跡を見つけて散策するのは個人的にとてもワクワクします。当時の史料(特に南朝の)は残っているものが少ないですし、その僅かな点を繋ぎ合わせて全ての史実を解明するのは到底不可能だと思うので、伝承や通説ではない説もそうだったかもしれない余地は多分にあると個人的には思っていて、色んな妄想をしながら縁の地を散策するのは楽しいものだと感じます。

浜戸川を走るボード

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献】
・森茂暁『懐良親王』ミネルヴァ書房2019年
・藤田明『征西将軍宮』熊本県教育会1915年
・川添昭二『今川了俊』吉川弘文館1964年
•『新宇土市史』通史編第二巻 中世•近世 2007年
• 宇土市ホームページ
• 菊池市ホームページ
• 粟嶋神社ホームページ
• Wikipedia

アクセス情報はこちらから↓

※征西将軍宮(将軍神社)は観光地ではないため、県の観光サイトには載っていません。


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