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相良700年の隠れ里💛人吉球磨歴史さんぽ③ 【筆頭家老屋敷跡の謎の地下室】その1

こんにちは。今回は熊本県人吉市麓町の人吉城散策レポート前編その1になります。今回は人吉城城域の西外曲輪と呼ばれる旧武家屋敷エリアにある、家老屋敷跡の不思議な地下室遺構をご紹介したいと思います。人吉市が「井戸のある地下室」と表現する遺構は2つあり、1997〜1998年の発掘調査で人吉藩の家老職、相良(犬童)清兵衛の屋敷跡とその子息•内蔵助の屋敷跡から偶然見つかりました。全国では同様の遺構は見つかっておらず、用途も判明していません。郷土史家の間では「隠れキリシタンの遺構」との説が出ているロマン溢れる遺構です💫今回は主に郷土史家の原田正史氏著『驚愕の九州相良隠れキリシタン』を参考にさせて頂き、相良家及び家臣団の隠れキリシタン説について妄想したいと思います😆💓(人吉市はキリシタンの遺構説には慎重な態度を採っているもよう。)

今回の散策地はここ!

人吉城の歴史と散策スポット紹介

まず、人吉藩主•相良家と人吉城の歴史について下記に簡単に説明します。(謎の地下室の成り立ちを妄想する上で重要なポイントを太字にしています。)

今から800年前、初代•相良長頼が源頼朝の命を受け、建久9年(1198)に遠江国(現静岡県)から人吉庄に地頭職として下向したのが人吉相良家のはじまりです。室町時代、多良木町を本拠とする同族の上相良氏を滅ぼし球磨郡内を統一し、さらに肥後国守護菊池氏により八代と葦北の占有・保持を許され、球磨・八代・葦北三郡を有する戦国大名として成長します。しかし、天正9年(1581)「水俣合戦」で島津義久に敗れ、芦北•八代を失います。当時の18代当主•義陽(よしひ)は島津氏の傘下に降り、島津氏の先鋒として阿蘇氏と響が原で戦い討死。相良氏は球磨郡のみの支配を島津氏より認められます。そして天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州(島津)征伐が開始されると、第20代相良長毎(ながつね)は島津氏から寝返り秀吉に降伏し、球磨郡の本領安堵を受けました。長毎さんはこの頃から中世の人吉城を近世の城としてリフォームを開始し、豊後から石工を招き人吉城を石垣造りの城として改修を開始。長毎は朝鮮の役に出陣しましたが、1600年の関ヶ原の戦いでは重臣•相良清兵衛の機転により、豊臣方から一転し徳川方につき、家の存続に成功。江戸幕府下で人吉藩2万2千石の藩主となります。人吉城は慶長6年(1601)には本丸•二の丸•堀•櫓•御門まで完成し、慶長12年(1607)から球磨川沿いの石垣を築き始め外曲輪が造られました。寛永16年(1639)に石垣工事は中止されますが、この時人吉城がほとんど完成しました。その後も相良家は明治の廃藩置県まで球磨郡の領主として存続しました。

次に、散策スポットについて、まずは現在の人吉城全体の見取り図を下記に載せます↓(画像は人吉市のパンフレットから拝借)

人吉城は球磨川と胸川を天然の堀としてつくられた要害

次に、人吉城の昔の様子が描かれた図です。 上級武家屋敷が建ち並んでいた西外曲輪は赤い点線で囲まれたエリアになります。↓

城域を南北に貫く道「馬責馬場」を隔てて東に城主のお館、西に重臣達の武家屋敷が建っていた。

武家屋敷街だった西外曲輪は、現在は広大な芝生広場となっていて、「井戸のある地下室」遺構がある場所は、下記イエローマーカーで線を引いた箇所になります。↓

上図の①井戸のある地下室(地下室遺構)は人吉城歴史館内に現状保存されていて見学できるようになっていたのですが、訪れた際は令和2年7月の豪雨被害のため休館中で見れませんでした😭
(現在も休館中のもよう)なので、①についてはパンフレットの写真を拝借してご紹介したいと思います。それでは、水の手橋のたもとの🅿️に車を停めて、散策スタートです🏃‍♀️

井戸のある地下室

「馬責馬場」から相良(犬童)親子の屋敷のあった西外曲輪北側を眺めた図↓ 現在は「ふるさと歴史の広場」という芝生広場となっています。

画面に見える敷地は全て筆頭家老•相良(犬童)清兵衛とその子内蔵助の屋敷跡。藩主の館の敷地より広かった。

画面中央奥に見えるのが休館中の人吉城歴史館で、①井戸のある地下室(地下室遺構)がある場所です。画面左手前に見える小さめの建物が②井戸のある地下室(大井戸遺構)を覆った建屋で、地下室の中が見学できるようになっています。早速行ってみましょう👟

まずは例によって案内板を引用します↓ (本記事の展開上重要な箇所を太字にしています。)

大井戸遺構(相良内蔵助屋敷の地下室)
1. 発掘調査年度 平成13年度
2. 調査主体者 人吉市教育委員会
3. 遺構の名称 「大井戸遺構」(相良内蔵助屋敷
        の地下室)
4. 構築の年代 江戸時代初期(慶長年間〜寛永年
       間)
5. 大きさ 東西5.4m南北2.7m、深さ4mの石組
     井戸の水深 約1.25m
6. 遺構の特徴 
 人吉城跡では、井戸のある地下室が二つ発見されています。一つは「人吉城歴史館」の中庭にある地下室遺構で、二つめはこの大井戸遺構です。寛永17年の「お下の乱」を描いた人吉城絵図によれば、地下室遺構は、家老を務めた相良清兵衛の屋敷内にあった二階建の「持仏堂」に、大井戸遺構は、その息子の内蔵助の屋敷内にある「蔵」と書かれた建物の位置に相当するようです。
 2つの地下室は、階段の降り口、踊り場、方形の大型の井戸、黒色の小石敷き、その下のスギ板敷きなど、構造がよく似ています。江戸時代の初期に建造され、寛永17年(1640)7月の「お下の乱」の直後に破壊されて埋められていました。特殊な目的のために造られた井戸と推定されますが、全国では同様な遺構の発見例がなく、謎の多い遺構です。
 今回、現物展示のため石積の復元修理を行い、上部に推定される建物と同じ規模(6m×7m)の覆屋を建設し、休憩施設としました。

さて、通常はここで歴史解説を挟むのですが、今回は皆様に興味を持っていただく為にも、地下室の画像から掲載したいと思います💓(その後、長い歴史解説と妄想に入ります😅)まずは早速、この案内板の「大井戸遺構」(家老•相良清兵衛の子息である内蔵助屋敷内にあった地下室)から↓

って、ガラスに反射して全然見えね〜💦これでも頑張ったんですが。。(建屋内部には入れない)なので、案内板写真の拡大図を以下に載せます↓

最初これを見たとき、「えっ?これって本当に井戸なのかな?板張りだし、階段までついてるし。」と違和感を覚えました。それもわざわざ「蔵」の下に隠すように造られた地下室。。これは匂うぞ、ミステリーの匂いがプンプンする〜🔮という訳で帰ってから調べたら、もう一つの方の、相良清兵衛の地下室遺構の写真を見てビックリ😳更に洗練された構造になっていて、ミステリアス度が強力なのです❗️前述のとおり、清兵衛さんの地下室遺構は歴史館内にあって休館中で見れなかったので、パンフレット画像を以下に引用させて頂きます↓

人吉市『日本百名城 人吉城』パンフレットより
人吉城歴史館パンフレットより

いやいやいや、これはもう井戸じゃなくて浴場でしょ〜😳と思いますよね⁉️(深さは2.32mとかなり深いけど)ということで、この不思議な地下室のミステリーを楽しむために、まずは地下室の持ち主である相良家筆頭家老•相良(犬童)清兵衛ならびに、彼に関連して起こった「御下の乱」について解説したいと思います❣️

※家老の清兵衛さんは、藩主から相良姓を賜り相良清兵衛と名のりましたが、元の姓は犬童で、特にお父さんの犬童休矣(頼安)の代から2代にかけて活躍した重臣の家系です。

相良清兵衛という人

時は相良家18代当主•相良義陽の時代から話を始めたいと思います。義陽さんは天正9年(1581)九州制覇を目論み北上する島津氏に降伏し、同1581年12月に響ヶ原の戦いで島津氏の先陣として阿蘇氏と戦って戦死してしまうのですが、その義陽さんを支えた重臣の一人が犬童休矣(犬童頼安)です。犬童休矣は相良義陽さんの供養碑を響ヶ原に建立しましたが、供養碑が納められている相良堂について書いた下記の記事、未読の方は是非ご一読下さい。↓

で、本記事の主人公•相良清兵衛(諱:犬童頼兄)さんはこの犬童休矣さんの嫡男で、初めは延命院(お寺)の稚児となっていました。そして前述の響ヶ原の戦いから遡ること数ヶ月、相良氏が島津氏に降ることになった「水俣合戦」が起こります。その時島津氏の北上を阻止すべく父•犬童休矣さんが水俣城を守っていたのですが、清兵衛さんは預けられていた寺を無断で抜け出し、初陣を果たして幼名から軍七と戒名します。この時清兵衛さん14歳、近隣にも聞こえた絶世の美童ぶりだったそうで、水俣城を包囲していた薩摩方の勇将•新納忠元も思いを寄せたと伝えられているそうです💕(←どうでもいい情報)結局、水俣合戦は相良氏が降伏し、水俣城も無血開城となったのですが、無血開城が実現した背景には清兵衛さんの美貌もあったのかも?なんて思ったり笑(←どうでもいい妄想)その後、前述の通り18代義陽さんが戦死し、時は20代長毎さんの時代となります。清兵衛さんは朝鮮の役に長毎さんと共に従軍し、主君である長毎さんをよく助け重鎮としての信頼を得、続く関ヶ原の戦いでは的確な情勢判断と謀略をもって西軍から東軍へ寝返りを敢行、断絶の危機にあった相良家を救いました。(この時長毎さん27歳、清兵衛さん33歳)この最大の功績をもって清兵衛さんの地位は不動のものとなるのですが、清兵衛さんは我儘で功を誇るところがあったとの事。まあ、天は清兵衛さんに美貌と頭脳と胆勇という、二物も三物も与えちゃったので増長してしまうのも無理もない気もしますが😅一つエピソードを挙げると、関ヶ原合戦の後、清兵衛さんは君主である長毎さんに先駆けて家康の重臣•井伊直政に面会し、この度の功を自らの功にしようとしたそうです。しかし井伊直政に主君と供に来るように言われてしまい面目を失ったそう😅後に直政によって家康には謁見することが出来たそうですけど。このような性格から、江戸時代に入ると清兵衛さんの独断的振舞と専横が目立つようになり、次第に藩主•長毎さんとの確執が深まっていくのでした。

お下の乱

江戸時代に入ってからの清兵衛さんの後半生は、藩主を越えた存在として藩の実権を掌握し、横暴が目立つようになりました。そのため藩主である長毎さんは後顧の憂いを感じ、清兵衛さんを仕置きしたいと考えるようになります。しかし病状が悪化し、息子の21代当主•相良頼寛(よりひろ)に「私が死んだら、折を見て清兵衛を幕府に訴えるように」という遺言を残して寛永13年(1635)63歳で死去します。私が頼寛さんの立場なら、「えー、父上、こういう事は自分の代で片付けてから旅立って下さいよ〜😭父上でも出来なかったのに、若輩の私が処理できるわけないじゃないですか〜」と愚痴りたくなりますが、ともかくも頼寛さんは父の遺命に従い、寛永16年(1639)12月、清兵衛さんを幕府に提訴したのでした。この訴えに基づき翌寛永17年(1640)5月、幕府より清兵衛を江戸へ呼び寄せるようにとの命が下ります。この時参勤交代で江戸にいた頼寛さんは、別件を装って清兵衛に江戸に出向くようにとの親書したため、宮原裕介と犬童半之丞を使者として人吉に下向させます。ところが犬童半之丞は途中大阪で発病して大阪に居残り(ストレスによるものか、もしくは仮病だったりして😅)、宮原さんだけが6/16に人吉に到着し新書を清兵衛さんに手渡します。賢い清兵衛さんの事なので親書の内容を怪しまなかったことはないと思いますが、藩主の意向に素直に応じ、6/21に60人程の家来を従え江戸に向けて人吉を出立します。

一方、犬童半之丞の大阪残留を伝え知った頼寛さんは、清兵衛の呼び出し計画が破綻することを恐れて、追加の使者として神瀨外記と深水惣左衛門を人吉へ下向させました。2人には清兵衛への通達の他に、清兵衛が主命に従わなかった場合の対応策も密かに言い含めてあったそう。(結果的には心配性の頼寛さんが余計な追使を出したせいで大事になってしまうのですが。。)そして2人は7/5、清兵衛が出立した後の人吉に到着。当時、江戸表からの使者はまず最初に筆頭家老の清兵衛さん宅へ挨拶に出向くのが慣例でしたが、2人はこの慣例に従わず、最初に次席家老の米良さんの屋敷に行って藩主の密命を伝え、その後、相良清兵衛屋敷に向かったのです。屋敷では清兵衛の養子で当時留守を預かっていた田代半兵衛が対応したのですが、後になって2人が最初に米良家を訪れていたことを聞き知った田代半兵衛は不信感を募らせ、翌日7/6、2人を屋敷に呼び、何かあるだろうと厳しく詰問します。深水惣左衛門は球磨川に飛び込み難を逃れましたが、神瀨外記は拷問を受けて亡くなってしまいます。(2人とももうちょっと上手く立ち回れなかったのかなぁ、、私だったら人吉に入る前に、清兵衛さんが既に江戸に出立したかどうか確認して、出立済だったらそのまま江戸にトンボ返りするけどな。)

この出来事によって田代半兵衛の逆心明かなりとされ、翌日7/7朝、清兵衛屋敷は藩兵達に包囲され総攻撃を受けます。田代半兵衛は観念して妻子眷属を手にかけ、屋敷に火を放って自滅しました。半兵衛側死者121人、屋敷は全焼。相良清兵衛屋敷が藩主館より一段低い場所にあって「お下」と呼ばれていた事から、この動乱は「お下の乱」と呼ばれています。この乱の数日後には、隣の細川藩使者による見分が実施され(熊本は秀吉の時代、加藤清正と小西行長の共同統治でしたが、小西行長は関ヶ原合戦で敗死、江戸時代に入って加藤家も改易され、細川家の統治となりました。)続いて7/11には薩摩藩使者の見分が行われ、8/5には幕府上使が人吉に到着し、現場見分が行われ、江戸へ注進されたとのことです。

さて、6月に人吉を発った清兵衛さん一行はというと、7/21に江戸に着き囚人として稲葉美濃預かりとなり、8/27、28の幕府評定所における藩主との対決の結果、9/5に筆頭老中である酒井讃岐守の屋敷で判決が下されました。非は一方的に清兵衛にあるとされましたが、清兵衛が権現様(家康)に御目見えした人物であったことから命を助け津軽土佐守お預けという判決内容でした。

評定所対決(裁判)では、清兵衛さんは73歳の高齢だったため介添が付き、裁判中には既に「お下の乱」の現場見分から戻っていた幕府上使によって清兵衛さんにも乱の詳細が伝えられたそうです。別件で江戸に呼び出され、十分に準備もできぬまま裁判に臨み、さらに国元での一族滅亡を聞かされた清兵衛さん。さすがに藩主と対決する気力も尽き果てたでしょうね。ちょっと可哀想な気がします😢因みに清兵衛の子息内蔵助は「お下の乱」勃発の直前の4/28に江戸で病死しているそうです。当時は死因は病死ではなく他殺だったとの噂もあったとか。

かくして翌月10/9、相良清兵衛と従者6名は配流地弘前に到着。以降津軽家からの厚遇を受け、1655年、当地で88歳の波瀾万丈の生涯を閉じました。清兵衛さんは学問、手跡にも優れ、当地で詩歌の指南役等をしたといい、相良町の名前が当地に残っているそうです。

〈清兵衛さん辞世の句〉

余命有限五更雲 八十八年風前燈
終にはと思ふ心のすえとけて月の都に今たち帰る
月とともに影くらからぬ山路かな

(※人吉城は別名 三日月城、繊月城といいます。)

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すみません、前置きの相良清兵衛とお下の乱の説明だけで6000字を超えてしまいました( ;´Д`)
(今回のテーマは記事作成にだいぶ苦戦しております苦笑)

さて、相良清兵衛さんとお下の乱が不思議な地下室遺構とどう繋がっていくのでしょうか。(私も現時点ではよく分かりません苦笑)次回、清兵衛屋敷の地下室遺構の謎に迫っていきたいと思います。次回も宜しくお願い致します❣️

胸川の対岸から人吉城長塀を望む。
ちょうど塀の裏が清兵衛さんの屋敷があった場所ですね。

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献】
・人吉市史第1巻 人吉市史編纂協議会 1981年
・原田真史『驚愕の九州相良隠れキリシタン』 
 2012年 人吉中央出版社
・吉永昭 肥後国人吉藩『相良清兵衛騒動』覚書
 福山大学人間文化学部紀要 第1巻(2001)
   1-21頁
・人吉市『日本百名城 人吉城』パンフレット
・人吉城歴史館パンフレット

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