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相良700年の隠れ里💛人吉球磨歴史さんぽ③【筆頭家老屋敷跡の謎の地下室】その2

こんにちは。今回は熊本県人吉市麓町の人吉城散策レポート前編その2になります。とはいえ今回はその1に引き続き、人吉城城域にある家老屋敷跡の不思議な地下室遺構の謎に迫ってみよう!という回なので、いつものような写真を織り交ぜた散策記事とは異なりますことをご了承下さい🙇‍♀️それも私史上最長の10000字超えとなってしまったのでお時間のある際にお読み頂けましたら幸いです🙇‍♀️

人吉城の場所はここ!

人吉市が「井戸のある地下室」と表現する遺構は2つあり、1997〜1998年の発掘調査で偶然見つかりました。全国では同様の遺構は見つかっておらず、用途も判明していません。郷土史家の間では「隠れキリシタンの遺構」との説が出ているロマン溢れる遺構です💫まずは前回の復習も兼ねて、人吉市の「日本百名城 人吉城」パンフレットと現地案内板を引用させて頂き、地下室遺構についておさらいしたいと思います💡人吉城内の2つの「井戸のある地下室」のある場所はこちら↓

人吉市『日本百名城 人吉城』パンフレットより

そして①地下室遺構②大井戸遺構(ネーミングわかりづらい💦)の画像がこちら↓

人吉市『日本百名城 人吉城』パンフレットより
同じく人吉市『日本百名城 人吉城』パンフレットより

次に、②大井戸遺構横の現地案内板を引用し、2つの「井戸のある地下室」の概要説明とします↓

人吉城跡では、井戸のある地下室が二つ発見されています。一つは「人吉城歴史館」の中庭にある地下室遺構で、二つめはこの大井戸遺構です。寛永17年の「お下の乱」を描いた人吉城絵図によれば、地下室遺構は、家老を務めた相良清兵衛の屋敷内にあった二階建の「持仏堂」に、大井戸遺構は、その息子の内蔵助の屋敷内にある「蔵」と書かれた建物の位置に相当するようです。

 2つの地下室は、階段の降り口、踊り場、方形の大型の井戸、黒色の小石敷き、その下のスギ板敷きなど、構造がよく似ています。江戸時代の初期に建造され、寛永17年(1640)7月の「お下の乱」の直後に破壊されて埋められていました。特殊な目的のために造られた井戸と推定されますが、全国では同様な遺構の発見例がなく、謎の多い遺構です。

「持仏堂」と「蔵」の下に隠すように造られた地下室。。ミステリーの香りがして、興味をそそられますよね〜🔮郷土史家の間では、地下室遺構が中世ヨーロッパのキリスト教洗礼池に構造が似ていることから、隠れキリシタンの秘密礼拝所との説が出ています。今回は主に郷土史家の原田正史氏著『驚愕の九州相良隠れキリシタン』を参考に、人吉藩主・相良家及びに家臣団の隠れキリシタン説について楽しく妄想したいと思いますが、その事前情報として欠かせない人吉城の成り立ち&地下室の持ち主である人吉藩筆頭家老・相良(犬童)清兵衛ならびに彼に関連して起こった「御下の乱」について解説した前回の記事をまだお読みでない方は是非ご一読下さい↓
(間があいて、前回の内容忘れちゃったよ、という方も再読頂ければ幸いです。)

それではまずは、『驚愕の九州相良隠れキリシタン』を参照させて頂き、①相良清兵衛屋敷跡の地下室遺構の出土状況と地下室遺構の構造を見ていきたいと思います!(②内蔵助屋敷跡の大井戸遺構については、記事が長くなるので省きます。)

発掘時の地下室出土状況

前述の案内板記載の通り、地下室は寛永17年(1640)7月の「お下の乱」の直後に破壊されて埋められていることが分かっていますが、発掘時の状況は以下の通りです。
地下室の内部には、地下室外周を構成する石垣の上部と石段の一部が崩し落とされており、続いて急いで投入されたと思われる小石を多く含んだ黄褐色砂質土によって一挙に埋没させられている。貯水池(人吉市の呼び名は井戸。以下貯水池と表現します。)の内部からは上記の他に灰混じりの土砂、石塔の一部、陶磁器、瓦、焼け焦げた建材片などが出土している。石塔の中には宝篋印塔笠部に十字が刻まれているものもあった。発掘関係者の話として、地下室内部を充填埋没させるために投入されていた石材や土砂をはじめとして、その他雑多な物品の極めて乱雑な堆積状況から判断すれば、埋没作業は時間的なゆとりのない中で慌てふためきながら手当たり次第に物品をかき集めて投げ込んでいる人達の姿がはっきりと浮かび上がってくるとのことです。

地下室遺構の構造とキリシタン指標(?)

言葉で説明するより絵で書いた方が分かりやすいと思ったので、以下に地下室の構造と、同書がキリシタン指標だとする遺物を記載した図を以下に示します↓

図は『驚愕の九州相良隠れキリシタン』掲載図を多分に参考にさせて頂きました。

図を見て頂いたところで、同書で説明されている図上のキリシタン指標について要約したいと思います。
・貯水池の水中階段
西欧の中世キリスト教洗礼池には受洗者が池に浸かるための水中階段が設置されているが、地下室遺構の貯水池にも井戸には不必要な水中階段が設けられてらいることから、貯水池はキリスト教関連の洗礼池と考えられるとのこと。因みに最下段の石段は水深(2.32m)の半ば近くに位置していて池底には到達しておらず、人が最下段に足を置きその上段に腰を下ろすと、水面は丁度首下あたりにくるそう。
・マリア像が浮かび上がる板状石
西側壁面の貯水池の上部には、周りの石垣とは厚さの異なる板状の石が嵌め込まれており、板状石の表面には一見すると何も見えないが、斜光を受けることによって聖母マリアの陰影像が出現するとのこと。ちょうど南西側石段の踊り場に蝋燭を置いた場合、マリア像が鮮明に浮かび上がるはずであり、また、南西側石段は出入り口ではなく採光口との見解からすると、そこから照射された光でマリア像を浮かび上がらせる目的だったのではないかとのこと。洗礼池に身を沈めた信者の真正面やや上方にマリア陰影像が出現する演出だったと考えられるとのこと。
・円弧状石に彫り抜かれたハート形?内部の十字
南西側石段下方部には石垣積に適さない円弧状の石が埋め込まれており、円弧状石の表面を人為的に剥ぎ取ることによって大型のハート図形が掘り出されている。そのハート図形内部には、縦横約25㎝の十字図形が刻まれている。(※ハートは聖母マリア並びにキリスト教の象徴図形とのこと。)

以上のキリシタン指標並びに貯水池から出土した十字が刻まれた宝篋印塔などから、同書では、地下室遺構は隠れキリシタンの秘密礼拝所であると結論付けています。個人的には、聖母マリアの陰影像は実物を見てみないとマリア様に見えるかなんとも言えないし、円弧状石のハート図形もハートに見えるかどうかは見解がわかれると思いますが、ハート内部の刻み十字と宝篋印塔の刻み十字はそれぞれ写真などで確認できますし、貯水池の水中階段からも、キリスト教礼拝池説は有力な説ではないかと感じました。皆さまはどう感じられましたか?
因みに下記リンクにて熊本県教育庁文化課が作成した相良清兵衛屋敷地下室遺構の3D画像を見ることが出来ます。拡大するとハート型石内部に刻まれた十字も確認することが出来ますので、是非ご覧になってみてください❣️

さて、これまで地下室遺構の物理的特徴を見てきましたが、これから先は歴史的背景から相良清兵衛隠れキリシタン説、地下室隠れキリシタン遺構説を深掘りしていきたいと思います。そのためにまず、地下室の持ち主であった筆頭家老・相良清兵衛と、彼の主君である初代人吉藩主・相良長毎が生きた時代を、キリシタンを取り巻く状況を中心に見ていきたいと思います。やはり言葉で説明するより分かりやすいと思うので、まずは年表形式で記載します↓

歴史的背景からキリシタン遺構説を探る

天正7年(1580) 
イエズス会ビジタドール・アレッサンドロ・ヴァリニアーノが相良領への伝導許可を得ようと相良家18代当主・相良義陽(よしひ 長毎の父)に書簡を送る。義陽がどう対応したかは不明。

天正8年(1581)
清兵衛(14歳)島津家との戦いで父・犬童頼安が守る水俣城に入り初陣。相良義陽 響ヶ原で戦死。相良家、島津家の軍門に下る。

天正13年(1585)
兄である19代相良忠房の死により、相良長毎(ながつね 当時12歳)が20代相良家当主となる。

天正15年(1587)
豊臣秀吉、島津征伐の為大軍を率いて九州下向。島津敗退。相良氏は秀吉に降伏し本領安堵。
秀吉、バテレン追放令発布。(この時はまだ一般の武士や庶民のキリスト教信仰は禁止されていなかったので、多くのキリシタン大名は棄教していない。)

天正16年(1588)
人吉相良領以外の肥後南部はキリシタン大名小西行長の所領となる。小西行長の本城は宇土城。

天正17年(1589)
相良長毎、豊後から石工を招き、人吉城を山城から石垣造りの城としてリフォームに着手。

文禄元年(1592)
秀吉朝鮮侵攻。小西行長ら西国大名とともに相良長毎(19歳)も清兵衛(25歳)以下800人を率いて渡航従軍。
この時留守居役だった清兵衛の父・犬童頼安(休矣)が築城奉行として本格的に人吉城築城開始。

慶長3年(1598)
秀吉死去により秀吉軍朝鮮より全員帰国。

慶長4年(1599)
小西行長、久しぶりに肥後下国。7月から年末まで宇土城に滞在し、肥後領内でキリスト教布教を本格化させる。

慶長5年(1600)
関ヶ原合戦。当初西軍についていた相良長毎は清兵衛の機転により東軍に寝返りを敢行し、9月長毎(27歳)、清兵衛(33歳)、上洛して家康に謁見。長毎は江戸幕府下で初代人吉藩主となる。
西軍の主力だった小西行長は敗れて京都で刑死。

慶長17年(1612)〜18年(1613)
江戸幕府キリスト教禁止令発布。

寛永12年(1635)
清兵衛(68歳)岡本村に隠居所を構え普請開始。

寛永13年(1636)20代相良長毎、権力を掌握し専横が目立ってきた清兵衛を幕府に訴えるよう息子の頼寛(よりひろ)に遺言し死去(享年63歳)。21代相良頼寛(よりひろ)家督継承。

寛永14年(1637)
島原の乱(天草、島原地方キリシタン蜂起)勃発

寛永15年(1638)
幕府軍の勝利で島原の乱終結。

寛永16年(1639)
江戸幕府鎖国令発令。
キリシタンの取締りが強化される。
人吉城の石垣工事、完成間近でなぜか中止。
豊後石工衆全員帰国。

寛永17年(1640)
相良頼寛、父長毎の遺命を果たすべく江戸参勤中に清兵衛を幕府に提訴。藩主の呼び出しを受けて清兵衛江戸に向かう。清兵衛不在の人吉にて『お下の乱』が起こり、清兵衛一族滅亡。清兵衛(73歳)は幕府の評定所対決にて敗訴し津軽へ流罪となる。

明暦元年(1655)
清兵衛配流地津軽にて死去。享年88歳

さて、年表に目を通して頂いたところで、今度は時代背景から地下室隠れキリシタン遺構説について同書の記述を見ていきましょう。

地下室遺構の築造時期
地下室遺構に使用されている石材は、人吉城城壁に使用されているのと同じ地元の流紋岩である。江戸時代初期とされる地下室遺構の築造時期は、人吉城の築城工事が着々と遂行されていた時期に重なる。更に、地下室遺構が持仏堂や蔵の下に隠される様に造られていることから、築造時期は幕府が禁教令を出した慶長17年(1612)から、人吉城石垣工事が中止された寛永16年(1639)までのおよそ20年間に絞られるとのこと。そして、人吉城と秘密の地下室を築造したであろう豊後石工衆の国元・豊後は高名なキリシタン大名・大友宗麟が支配していた国なので、石工の中にもかなりのキリシタンがいたはずだとのこと。寛永16年(1639)人吉城石垣工事中止に伴い、清兵衛は豊後石工衆全員を無事に帰国させていて(1人も口封じされていない)、帰国後の石工衆は誰一人として地下室築造について漏らす者がいなかったのは、清兵衛と石工衆の間にキリスト教に基づいた信頼関係があったからではないかとのこと。

地下室の設計図の入手時期
元相良藩士が著した『熊風土記』には、「清兵衛殿(せいびゃあどん)の宇土の夜咄」という逸話が紹介されていて、その内容は、小西行長と清兵衛は大変親密な間柄で、清兵衛は乗っている輿が風を起こすほどの勢いで夜駆けして疾走し、宇土へ何度も行っていた、というものだそうです。さらに宇土において相良家家老相良清兵衛が足繁く宇土城を訪れたという記録が発見されていることから、清兵衛は小西行長から地下室遺構の設計図を入手したと思われ、時期は小西行長が宇土城に滞在していた慶長4年(1599)7月から年末までの半年間と考えられるとのこと。

★ここでちょっとブレイクRoseの妄想劇場:
10代の頃から美童として有名だった清兵衛さん(慶長4年当時は32歳)と、明の使者から「風神凜々」と評された行長さん(慶長4年当時は42歳)イケメン同士の夜の密談なんて、雰囲気怪しすぎます〜😆💕とはいっても、もし本当にキリシタンの地下室礼拝所の設計談義をしていたとすれば、2人とも少年の様に目を輝かせて楽しい時を過ごしたことでしょうね✨

お下の乱後の相良藩の地下室隠蔽工作?
『お下の乱』終結直後に清兵衛屋敷の焼け跡を見回り、東西2ヶ所に露出している水を湛えた地下室を発見した相良藩中枢の面々は、それが禁教令下で露見すれば藩滅亡が確実なキリシタン構造物だと見抜いたからこそ、急いで破壊、埋没作業に当たったのではないか。発掘時に確認された投入物の乱雑な堆積状況がそれを実証している。(そして隠蔽工作の甲斐あって、乱後に現場検分に訪れた細川藩、薩摩藩、幕府の役人は地下室の存在に気づいていない。)また、『お下の乱』に関連して作成された古文書や古地図には「二階建持仏堂」や「蔵」についての記述や位置を示す図面は存在するものの、その地下に構築されていた地下室については記述が無く、伝承さえも残されていない。このように相良藩が徹底して地下室の存在を隠そうとしたのは、地下室が隠れキリシタン構造物だった所以である。

以上が歴史背景からの同書のキリシタン遺構説の記述内容(の一部)になります。

因みに郷土史家の間では、以下の理由から相良藩主自体も隠れキリシタンだったとの説があります

•イエズス会ビジタドール・アレッサンドロ・ヴァリニアーノが18代相良義陽に宛てた書簡が代々大切に保存され現存している。 

•相良藩では「踏み絵」を一度も行っていない。

•所謂キリシタン灯籠と呼ばれる織部灯籠が領内にたくさんある。(九州最多)
※キリシタン灯籠については個人的に興味を覚えたので、いつか別の記事で取り上げたい。

同書も相良家自体も隠れキリシタンだったとの説を採っていて、だからこそ地下室遺構をキリシタン構造物だと直ぐに見抜けたとのこと。それも相良藩のキリスト教信仰は唯一神を教義とする一般的なキリシタンのものと違い、仏教に融合され庇護された特異なものだったと主張されています。確かに相良領には古い神社やお寺も大切にされて現存しているので、相良家がキリスト教を信仰していたとしたら、神社仏閣を破壊したとされる一般的なキリシタン大名達とは違い、仏教神道その他の思想も全てまるっと敬う懐の広い宗教観だったのかも知れませんね。

さて、ここからは清兵衛さんやお下の乱を調べた中で、私が個人的にやっぱり相良藩は殿様も清兵衛さんも隠れキリシタンだったんじゃないか?と思ったポイントを挙げて独自の妄想推理を展開してきいたいと思います❣️(多分前回の記事を読んでいないと何言ってるか分からないと思いますし、長いので、読むのウザっ。と思った方は読み飛ばして「あとがき」へ飛んで下さい🙇‍♀️)

Roseの〝相良藩やっぱり隠れキリシタンだったんじゃないか‘’ポイントからの勝手な妄想劇場

1. 島原の乱の翌年(1639)、人吉城の石垣工事が完成目前にして突如中止されて、豊後石工衆が帰国したのは、島原の乱が何らかの影響を与えたからではないか?

2. 藩主相良頼寛が父長毎の「清兵衛を幕府に訴えるように」との遺命を受けて、実際に訴えるまで4年のブランクがあるが、これまた島原の乱終結直後の寛永17年(1640)のタイミングで訴えに踏み切ったのは何故か?

3.お下の乱の筋書きの違和感。追加の使者として清兵衛呼び出しのため人吉に下った神瀨外記と深水惣左衛門は、清兵衛が既に江戸に出立した後だったため役目はなくなったはずなのに何のために次席家老の米良宅を訪問したのか?また、乱の発端とされる田代半兵衛の行動はあまりに短絡的過ぎないか?

4.清兵衛屋敷を預かっていた田代半兵衛のお下の乱での行動の不可解さ。妻子眷属を手にかけ、屋敷に火を放つのは異様ではないか?それも自分自身と数人は「二階建持仏堂」に潜んで火事を逃れ、焼け跡から出てきたところを打ち果たされている。(実際は持仏堂下の地下室で火事を避けていたのは明白)普通の武士ならその前に自害するのではないか?

5.隣国の細川藩は清兵衛が江戸に出立する際に隠密に跡をつけさせたり、お下の乱後の2、3日後には薩摩藩や幕府上使に先駆けて現場検分に人吉を訪れて、江戸幕府に結果を注進している。この細川藩の清兵衛一件とお下の乱への異様なまでの関心の高さは何なのか?

ここからは私の妄想推理を具体的に展開していきますね💡(本当に勝手な妄想なので、小説の筋書きと思ってお読みいただければ💦)

まず、お下の乱についての疑問ポイントを見ていきます。お下の乱で田代半兵衛がとった妻子眷属を手にかけるという行動はそこまでするかなと違和感を感じたのですが、昨日『島原の乱』を読んで、田代半兵衛がとった行動は島原の乱でキリシタン一揆がとった行動とかなり似ていると感じました。島原の乱では妻子を手にかけてから籠城した一揆衆もいて(もちろん全員ではない)、後世を重んじるキリシタン独特の死生感が窺えると書かれていました。そして、お下の乱で屋敷に立て籠り亡くなった死者の半数近くは女性だったのですが、原城籠城の際も多数の女性が含まれていたことも似ているなと感じました。そして半兵衛自身は地下室に潜んで火災を避けて生き残っていたのですが、それは地下礼拝堂で最後の祈りを捧げげていたからじゃないか、その後、勝ち目がないにもかかわらず自害せずに地下室から出て討たれたのは、自殺を禁じられたキリシタンだったからじゃないかと思いました。つまり、屋敷に立て籠った清兵衛一門は全てキリシタンで、島原の乱の一揆の様に、後世に希望を抱きながら亡くなっていったのではないかと。
更に清兵衛と藩主の江戸での評定所対決では、お下の乱についても質疑があっていて、藩主側の証人は次のように述べています。田代半兵衛が屋敷に立て籠った際、自重を求めたが、半兵衛は清兵衛との約束を守るといって籠城したと。老中からどういった約束だったのか?と聞かれた清兵衛さんは、留守中高齢の母の面倒をみてほしいとの約束だった、ととぼけているようですが、実際はキリスト教信仰に基づく約束だったんじゃないかと勘ぐりたくなりますね🤔
さて、お下の乱が終わった後の状況をみて、私はふと思いました。清兵衛一族は全滅、そして屋敷は全焼して清兵衛側の証拠類は全て焼却された。この状況で一番得するのは誰か、清兵衛一門を失脚させたい藩主ではないのか?つまり、「お下の乱」は田代半兵衛が起こしたのではなく、藩主側が仕掛けた可能性もあるのではないかと感じました。更には、藩主自身も隠れキリシタンだったという説を採れば、前藩主長毎も現藩主頼寛も、清兵衛屋敷の地下礼拝所の存在を知っていて、屋敷内にあるはずのキリスト教関連の文書類も含めて全て亡き者にしたかった、つまり、島原の乱後の厳しいキリスト教摘発を恐れた藩主側が、証拠隠滅のために屋敷に火をかけた可能性もあるのではと感じました。
実際、上記ポイント3.で挙げたように、お下の乱の筋書きには解せない点も多いんですよね。現在残っているお下の乱の記録類は、勝利した藩主側のものであり敗北した清兵衛側の史料は皆無です。つまり、藩主側の都合のいいように書かれている可能性大です。騒動の真相は永遠の謎ということですかね。

次に、藩主と家老清兵衛の評定所対決(江戸幕府での裁判)に関連して清兵衛さんやっぱりキリシタンだったんじゃないかポイントについてみていきたいと思います。清兵衛を訴えた際の目安(訴状)の中には、以下のような意味深なものがあります。

•清兵衛らは島原の乱でキリシタンが捨て置いた米を家臣らに貸し付けて高い利息を取り、藩士達は再度の出陣に備えて騎馬を改めても清兵衛の措置が悪く出陣の用意が十分にできない。
(よくわからないけど、清兵衛さん一揆鎮圧の為の出陣を妨害してる?)

•清兵衛は寛永12年(1635)から岡本村の中世城跡を隠居所として改築し、城下に町人らを呼び寄せたため人吉の町が衰退した。(因みにこの岡本城は古来籠城することが可能な要塞である、と評定所対決では藩主側が主張している)

•清兵衛は改易になった者を勝手に登用している。
(対決では清兵衛さんはこれを否定してますが、藩主側は登用者の具体的な名を挙げて反論している。個人的に清兵衛さんがどんな人達を私的登用してたのかかなり気になりますが、そこまでは調べきれませんでした。)

極め付けは、評定所対決の4ヶ月前の5月、頼寛がかねてより清兵衛一件について相談していた旗本2人に内々に提出した9箇条の目安(訴状案)の一つです。↓

•清兵衛らの専横は島原の乱の頃から特に目立ち始め、場合によっては徒党を組んで領域内外を騒がせる危険もあるので、上様の御威光を以て、公儀の力を借りて解決する以外に方法はないので、この旨を両人から内密に老中に働きかけてほしい。(因みに清兵衛の案件については、前藩主の長毎存命の時から、旗本を通じて幕府の老中達に入念な根回しをしています。つまり藩主と幕閣はだいぶグル)

岡本城の状況と、旗本への親書の文面を見て、第二の島原の乱勃発を連想してしまったのは私だけでしょうか。。😨

最後に、隣国の細川藩(熊本藩)の動きについて。細川藩は隠密や物見などまで使って清兵衛出立からお下の乱後まで事件の推移を見守っていて、それも幕府の指示で隠密に動いている節があるんですよね。私は最初、細川藩の清兵衛一件に関するこの異様な関心の高さは何なんだろう?と引っかかっていたんですが、昨日仮説を閃きましたよ💡細川藩は島原の乱で最も対応に奔走した藩の一つです。(細川領熊本が一揆の起こった天草の隣だったから)もし再び隣国人吉藩で同じような乱が勃発したら、一番に対応にあたらなければならなくなるのは細川藩です。そのために、幕府と連携して事件の推移を逐一監視していたのではないのでしょうか?(結局清兵衛さんはおとなしく捕まり、田代半兵衛の騒動も鎮圧されて、第二の島原の乱は起こらなかったという妄想です。)

さてこれまで清兵衛さんは隠れキリシタンで第二の島原の乱を企てていたのではなんて誇大妄想に誘導してしまいましたが、他の目安は島原の乱に関係ないもの(家中知行地の横領や藩士への高利貸し、藩の財政独占など)がほとんどで、一般的なお下の乱についての歴史的見方は以下の通りです。↓

お下の乱は幕藩体制確立期に全国諸藩で起こった御家騒動と同じく、近代的秩序の確立を目指し自らに権力を一元化したい藩主と、中世以来当主を支えてきた重臣の対立の結果である。

しかしもし、そこに文面には現れない(表せない)キリスト教信仰が絡んでいるとしたら?戦国時代から江戸時代に入るまで、数々の困難を二人三脚でくぐり抜けてきた前藩主長毎さんと清兵衛さんの間には確かな信頼関係があったと感じました。しかし、幕府が禁教令を出し、キリシタンの摘発が厳しくなってきた頃から、長毎さんと清兵衛さんのキリスト教に対する温度差が表面化してきた。江戸幕府下で家を存続させるため、キリスト教信仰はなるべくバレないように控えめにしたい藩主側に対して、清兵衛さんは地下礼拝所を作ってしまうほど傾倒し始め、島原の乱勃発に及んでは一揆に同調し、不穏な動きを見せ始めたため、もはや見過ごせなくなって幕府に訴えた。それも藩主が責任を負わされて藩取り潰しにならないように、幕閣を見方につけて入念に根回しした上で。これが私が思いついた妄想ストーリーです💡いつかもっと煮詰めて、お下の乱に関する歴史推理小説を書いて直木賞を狙いたいです!(←絶対無理)

あとがき

相良清兵衛屋敷跡の地下室遺構は、あんなにミステリアスで存在感のある構造物なのに、前述したように言い伝えも記録も何も残ってないんですよね。だからこそ、出土した際は発掘関係者や人吉市民にとっては青天の霹靂だったわけですが、伝承や記録が何もないことこそ、秘密にしなければならなかった隠れキリシタン遺構であることを物語っている気がしました。
と、ここまで散々書いてきて恐縮ですが、この地下室遺構には他にも、ユダヤ教の沐浴施設「ミグヴェ」だという有力な説があります。実際私もミグヴェの画像を見て、清兵衛の地下室遺構に酷似していると感じました。(Google画像検索で「ミクヴェ スペイン ジローナ」で検索すると清兵衛地下室遺構と瓜二つのミグヴェの画像が出るので、是非検索してみて下さい。)因みに昨年末には、ユダヤ教のラビが実際に地下室を視察に訪れたそうですよ💡私は個人的には、清兵衛さんたちにはキリスト教とユダヤ教の違いは分かってなくて、キリスト教の礼拝施設のつもりで造ったんじゃないかと思いますけど。

現在は人吉城歴史館は数年前の豪雨被害のため閉館中で、歴史館内部に現物展示してある地下室遺構は見学できないのですが、ラビが見学に訪れたということは水害で地下室に流入した土砂の撤去作業は完了しているということなので、地下室が一般公開されるのももうすぐかもしれませんね。私も公開されたら是非見にいきたいと思います💓
次回の人吉散策記事は、人吉城の藩主館跡•三の丸•二の丸•本丸までの散策レポートを掲載予定です。次回も宜しくお願いします❣️

人吉城三の丸から相良清兵衛屋敷跡を望む

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献•Webサイト】
・人吉市史第1巻 人吉市史編纂協議会 1981年
・原田真史『驚愕の九州相良隠れキリシタン』 
 2012年 人吉中央出版社
・吉永昭 肥後国人吉藩『相良清兵衛騒動』覚書
 福山大学人間文化学部紀要 第1巻(2001)
1-21頁
・人吉市教育委員会『波瀾万丈!相良清兵衛伝』2013
•神田千里『島原の乱』講談社 2018
•鳥津亮二『小西行長ー抹殺されたキリシタン大名の実像』八木書店 2010
•朝日新聞digital

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