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『フォールアウト』の「今、ここ」の演技。(前編)

『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』

まあ~最初から最後までドンデン返しに次ぐドンデン返し! 登場人物たちが敵味方入り乱れの騙し騙されで「キミがそうすることはじつは計算のうちだったよ!」の連続(笑)

なので見ている観客も「え?計算ってどこからが?じゃあさっきあそこでビックリしてたのは何?演技?」みたいに過去シーンとの辻褄がつい気になるんだけど・・・トムがそれを許さない。すぐスクリーン上で次のとんでもないアクションシーンが始まっちゃうので観客が過去を参照してる余裕がないのだw!そのまま「うわーっ」と次のエキサイティングな展開に呑みこまれてゆく・・・。

…でもこれって実は出演してる俳優たちは大変だったんじゃないかと思うんですよ。ドンデン返しが数回ある役の人物像をどう役作りしたらいいものやら(笑)

だって本当に驚いているシーンと、驚いたふりをしているシーンに演技の違いが出てしまったら、その時点で即ネタバレになってしまうじゃないですか!・・・違いが出せないならもう驚くところは等しく「本当に驚く」しかない。「だってそれが想定内であろうと無かろうと、目の前でビックリするようなことが起きたらビックリするじゃん」ていうことで「今、ここ」のみに集中する演技をするわけです。

その結果、目の前のことに反応しようとしてすべての俳優の目が爛々と輝き、フリでなく本当に心を動かしている。演技が演劇的・説明的でなく、会話だけのシーンでもみな超~活き活きとリアルに「今、ここ」を生きている。これが『フォールアウト』が持つ不思議な昂揚感の正体だと思います。

実際、この映画の中でドンデン返しが演技のせいでネタバレたのは1箇所だけ。

それは映画の最初の方で入院した悪役ニルス・デルブルックを尋問するシーンで、各地で核爆発が起き始めるとトムが過剰に怒りまくりわめきまくります・・・これは嘘だなと思いました。「怒っている」演技ではなく「怒って見せている」演技なんですよね。これはたぶんデルブリックをはめる為の罠として怒って見せているのだなと。で、実際その通りでした。

でもこの箇所だけはわざとネタバレたんだとボクは思います。だってネタバレたほうが面白く見れる唯一のシーンだったから。

実際他のシーンは一切演技でのネタバレは無かったんですよねー、あんなに注意深く見ていたのに。みんな演技の中で嘘をつくなんていう難しい演技をうまいことコントロールして演じているんです。いやお見事。

いや正直『フォールアウト』はストーリーとか無茶苦茶ですよ(笑)。

パーティー会場に潜入するためになぜ高度7620mの高さからヘイロージャンプ(高高度降下低高度開傘)しなければならないのか?・・・それはトムがジャンプしたかったから!としか言いようがない(笑)

リアルじゃない。でもその不可能に挑んでる人物たちの内面の揺れ動き方が超リアル。だってこのヘイロージャンプ、CGじゃなくて本当に高度7620mから跳んでますからね。トムは演技じゃなくて本当に動揺している。あの屈強で百戦錬磨のスパイ達が「今、ここ」で動揺している・・・これがシーンを盛り上げるんです。

そして今回の『フォールアウト』の物語の中でトム(イーサン・ハント)は、ミッションの最終的なゴール地点はわかるのだけど、そこへどうやったら正しいタイミングで辿り着けるのかは…さっぱりわからん!!!という状況の中に飛び込まねばならなくなります。

前作『ローグ・ネイション』までのイーサン・ハントだったらそういうシーンでは「闘志を見せる!」とか「なにかいい手がないか情熱的に考える」というカッコいい演技をしていたんですが、でも今回は違います。『フォールアウト』のそういうシーンでトムが今回演じているのは「どうしていいかわからない」と途方に暮れること(笑)

で仲間のベンジーとかに「どうするんだ!?」と問いつめられると「う~それはあとで考える!」ってw、笑いが起きてましたが・・・そう、不屈の男だって途方に暮れる時はあるのですよ!それがリアルな人間の多面性であり深みです、魅力です。 そしてトムはどうしていいか分からないままミッションに飛び込んでゆくのです。この最高のインポッシブル感!w

この「今、ここ」の演技が『フォールアウト』を最高にエキサイティングな映画にしているんです。正直この映画の人物は物語上にドンデン返しの連続があるせいで、メソード演技やキャラクター演技では演じるのが難しいんですよ。

メソード演技は1960~70年代に流行った演技法で「内面の一貫性」を軸に演じます。

キャラクター演技は1980~90年代に流行った演技法で「キャラの一貫性」を軸に演じます。

ところが『フォールアウト』みたいにドンデン返しに次ぐドンデン返しがあって、状況が進むたびに敵が味方になりまた敵になるとか、主人公自体がじつは悪人なんじゃないかという展開があったりとかすると・・・これはどう考えたって「内面の一貫性」や「キャラの一貫性」を保ったまま演じるのは無理ですよね。だって人物に一貫性が無いんですから。

でも待ってください。現実の世界ではそんな風に人間の印象が状況によって変わっていったりすることってよくありませんか?それはなぜ起こるのでしょうか?・・・それは現実の人間にもじつは「一貫性」など無いからです。

現実の人間はもっと多面的で状況が変われば行動も変わる・・・喋ってる相手が変わればキャラだって変るんです。さっきまで先輩キャラで威張ってた人間が、喋る相手が変わった途端に急に後輩キャラになって卑屈になったりする事あるじゃないですか。状況が変わるとさっきまで勇敢なことを言ってた人が急に臆病になったりするじゃないですか。

つまり現実の人間とは「一貫性のある存在」ではなくもっと「多面的な存在」なんですよ。

では現代的な俳優がその「多面的な存在」である人間を演じようとする時に、いったい何を軸にして演じるのか?・・・それが「今、ここ」なんです。

『フォールアウト』の俳優たちがやっている演技がなんでこんなに不思議にわれわれ観客の心を捉えるか。それは俳優が「今、ここ」を演じて人物の多面性がどんどん明らかになってゆくことで、観客がその人物の人間性を立体的に理解してゆくからです。だから映画が終わる頃にはすべてのキャラクターを我々は好きになっているんです。

…おっと字数が尽きたので、前編はここまでにしましょう。

後編はそもそもこの『ミッション:インポッシブル』シリーズ自体が、トムの「エンターテイメント映画において演技とはどうあるべきなのか?」という試行錯誤の歴史であった、ということを解説してゆきます。お楽しみに~!

小林でび

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