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「結果」を演じるか?「過程」を演じるか? イーストウッド主演作『運び屋』

見ましたか?
88歳のクリント・イーストウッド10年ぶりの主演・監督作『運び屋』

麻薬組織の運び人の映画なのに派手な銃撃戦無し、カーチェイスも無し。ほぼイーストウッド演じる一般人のおじいちゃんがのろのろ車を運転してるだけの映画なんですがw、映画的な喜びに溢れた大傑作でした。

いや~しかしイーストウッドがどうして俳優としてカムバックしたのか、嬉しいけど、正直???な気持ちで観に行ったんですよ。そしたら・・・なんと映画の最初からおしまいまでイーストウッドの演じる喜びに溢れまくっていましたw。

そして僕が椅子から飛びあがりそうになるくらい驚いたのは、その彼の演技がいつものイーストウッド演技ではなく、2018年型の「最新型のコミュニケーション演技」に更新されていたことです!

最新型の演技法で嬉々として演じまくる88歳! 最高!

こんなに相手にすべてをゆだねながら演じるイーストウッド、見たことない!!

素晴しいのはこの『運び屋』での彼の演技が変幻自在なことです。目の前の相手が誰なのか?愛する人なのか、喧嘩中の相手なのか、憎むべきマフィアなのか、敬愛すべきマフィアなのか、なるべく相手にしたくない相手なのか・・・それによってイーストウッド演じるアールの態度がコロコロと変わりまくります。

この映画での彼は超人ではありません。ストレスフルな社会生活をする人間として超リアルな演技です。

え???イーストウッドってこんなだった?と思って、慌てて家に帰って最後の主演・監督作『グラン・トリノ(2008)』と最後の主演作『人生の特等席(2012)』を見返してみましたが・・・いやいやいや、ぜんぜん違うんですよ。

この2作品での彼の演技はやはり、人物のキャラクターを作り込んで演じる演技法「キャラクター演技」なんです。

そもそもイーストウッドといえば『ダーティー・ハリー』であり『許されざる者』であり、1950年代のデビュー以来、映画スターとしてのキラキラした輝きを身にまといながら内面の衝動を演じる60年代式の演技法から始まり、80年代以降は表情も動作も徹底的にデザインされた市井のヒーロー的な「いつものイーストウッド」を演じてきました。

相手がどんな態度でやってきてもイーストウッドは負けない。彼らしい態度を貫きながら相手を圧倒する、それがイーストウッド演技の基本姿勢で、『グラン・トリノ』もそのように演じられていました。

この映画で彼が演じたコワルスキーはいわゆる「がんこじじい」で、基本誰とも打ち解けません。「がんこじじい」ですからw。誰かが彼に話しかける前から彼は不機嫌だし、話しかけた後も彼はもちろん不機嫌です(笑)。

それに対して今回の『運び屋』で彼が演じた人物アールは、これまた「がんこじじい」なんですが、その演じ方がまったく違うのです。

基本は感情がニュートラルなんです。不機嫌でもなんでもない普通の状態。そこに彼のがんこが発動するような事件や人物が現われるとがんこじじいになってゆきます。

そう、彼は「環境に大きく影響されて彼の持っている様々な性質を発動する」のです。

なので誰かが彼に話しかける前は彼はニュートラルで、話しかけた後はそのコミュニケーションの内容によって不機嫌になったり上機嫌になったりするのです。

これって当たり前のことだと思うでしょ?人として。

でもこの当たり前が、「キャラクターの一貫性」を重要視した演技法で演じている俳優はなかなかうまくできないのですよ。感情の変化がカーブにならずに、ガタガタガタッていう階段状の変化になってしまうんです。

実際『グラン・トリノ』でコワルスキーがモン族の人達と触れ合っているうちに、ついつい打ち解けてしまってどんどん心が開いてゆく過程をイーストウッドは上手く演じることができていません。“彼らと打ち解けていない”状態から、心が打ち解けてゆく「過程」の演技的描写抜きで、次のカットでは“もう打ち解けている”という「結果」の演技にポンと飛んでいます。そしてその不具合を補うために「なぜか奴らと一緒にいる方が安心するな」とか台詞で説明してしまっているんです。

それが『運び屋』のアールではどうか。

やはりアールが麻薬の売人たちや麻薬捜査官たちと打ち解けるシーンがあるのですが、その打ち解けてゆく「過程」が、ディテールたっぷりに詳細にカーブとして描写されてゆきます。

相手は麻薬の売人や麻薬捜査官なのでもちろん簡単には打ち解けられないのですが、アールは積極的に相手を観察して、相手がどんな人間なのかを理解しようとして、ただ無心に相手を観察しはじめます。そして探りを入れるような言葉のやり取りをして、相手のリアクションを観察してお互いにその人間性を確かめ合おうとします。こうして次第にお互いを受け入れ、雰囲気が変わってゆきます。

この打ち解けてゆく「過程」の、空気感の変化の描写がリアルですばらしいんです。

つまり『グラン・トリノ』まではイーストウッドは常に「結果」としての感情を演じていて、対して『運び屋』でイーストウッドは常に感情の変化の「過程」を演じているんです。

そしてこの「結果」を演じるか「過程」を変じるかが、「キャラクター演技」と「コミュニケーション演技」の違いそのものなんですよねー。

しかし88歳のクリント・イーストウッドは、この新しい演技法をいつどこでマスターしたんでしょうか?謎ですよねー。だって2012年からずっと俳優を廃業していたのだから(笑)

トム・クルーズやその他のハリウッド俳優たちみたいに、個人トレーナーをつけて最新情報を仕入れて、アスリートよろしく特訓の日々を送ったんでしょうか? それこそイーストウッドらしくないですよね(笑)。「うせろ!」ですよ。

これに関してはボクの想像ですが、2016年の『ハドソン川の奇跡』と2018年の『15時17分、パリ行き』という2本の彼の監督作が影響しているんじゃないかと思います。

『15時17分~』に関しては以前このブログ「非俳優による演技について」で詳しく解説したのでそちらも読んでいただけると嬉しいのですが、この2作品には俳優ではない実際の人々が沢山出演しているのです。特に『15時17分~』はメインキャストのほとんどが俳優でなく実際その事件に立ち会った本人たちだったのですが、プロの俳優顔負けの魅力的な芝居をしているのです。

『15時17分~』公開時のイーストウッドのインタビューで彼は「素人をキャスティングしてシーンをうまく撮るコツはわかっていた」「みんなが普段どおりできるように」「みんながリラックスして、考えすぎないように」演出したと言っています。

その素人俳優の演出のポイントをまとめると以下の3つになります。

① 環境を信じられるよう、なるべくリアルにセッティングすること。
② 自分が何者のフリをしなければならないのか、みたいな事を考えさせないこと。
③ 相手に集中させる。相手と楽しく過ごしたり、やり取りを楽しませること。

はい、②は「キャラクター演技」をさせない。③は「コミュニケーション演技」で演じるということですね。 イーストウッドの中で演技に対する姿勢の変化が起きているんですよ。

とにかくこの2本の映画でイーストウッドの中で演技に対する姿勢に変化が起き、それが思いっきり興味深かった。・・・で、イーストウッドはその新しい演技を自分でもやってみたくなったんじゃないでしょうかw。で、俳優カムバックに至った!と。

「ちょっと貸せ、オレにもやらせろ!」ですよねw。

とにかくそんな新しいイーストウッドが観れる映画です。
『運び屋』、超オススメですw。

小林でび <でびノート☆彡>

<関連記事>『非俳優による演技について(15時17分、パリ行き)』

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