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『ミッドナイトスワン』の世界を映す演技。

「見たほうがいい!」と友人に強烈に進められて、観てきました映画『ミッドナイトスワン』。 正直邦画やドラマにおけるトランスジェンダー演技はちょっと…ってものも多いので、この映画もスルーしようとしてたんですが・・・いや、見てよかった!

これ、トランスジェンダーだけじゃなく、すべての行き場のないひとのための映画じゃないですかー!

泣きましたよ! いや、もう映画の中盤あたりから周囲の席から鼻をすする音が聞こえてきてて、ボクも泣くのを我慢してたのに最後の最後のあのラストカット・・・おだやかな・・・あれ見て涙腺決壊しました。 ダメですよスタッフロール後に泣かすのは!泣いた顔で映画館出ることになるじゃないですか!!!(笑)

いや~文句なく今年の邦画ナンバー1です。映画としても、そう、映画の演技としても。

  この15分間の予告編見て、草彅剛さんと服部樹咲さんの演技に度肝抜かれて、慌てて次の日に新宿のTOHOシネマズに観に行ったんですよ『ミッドナイトスワン』。

いや~ビックリするくらい唐突に邦画に出現したまさに世界最前線の演技でした。 内田英治監督がインタビューで「欧米では、社会的テーマと娯楽性の両方を備えた映画は結構あるのですが、日本ではあまりないような気がします。そういう映画を作りたいと思ってきました。」とおっしゃってましたが、まさにそういう作品に絶対不可欠な世界水準の演技でした。

そんなキレッキレの演技が国民的アイドルの草彅剛さんと、14歳で演技初経験の新人女優の服部樹咲さんから飛び出すだなんて・・・いや~ホント俳優さんは全員観たほうがいい。

とにかく人物造形が…リアルという言葉を使いたくないんですが…複雑なんです。現実の人間と同じくらい。 よくある「オネエキャラを演じる」とか「虐待されてる子供を演じる」とかそーゆー単純でデフォルメされたキャラ演技のまったく真逆を行く多重構造の演技で、しかもその複雑な人物造形をじつにシンプルなアプローチで演じている・・・だから演技が強い!

この映画をご覧になった方はわかると思うんですが、凪沙(草彅剛)や一果(服部樹咲)が無言でなにかを見ているクローズアップショットがものすごい量のディテールと共に画面から飛び出してくるんです。

なんでそんな演技になるのか・・・それは草彅さんも服部さんも「自分が演じる人物のキャラクター」を演じてみせているわけではなく、むしろ逆で、「自分が演じる人物から世界がどう見えているか」を実際に感じながらそれに対する反応を演じているからです。

つまり凪沙や一果の瞳に映っている「世界」をわれわれ観客は見ているのです。

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たとえば、凪沙と一果が最初に出会って新宿駅東口から凪沙の家まで歩いてゆくシーン・・・ここの凪沙と一果の芝居は内田監督の想定とはかなり違っていて驚いたそうですが・・・とにかくこのシーンのふたりの芝居がまず凄かった!

これ普通の映画だったら「オネエ」と「虐待されてる子供」のキャラの最初のぶつかり合いを描いたりするもんなんですけど、キャラはぶつかり合わないんですよ。
ぶつかり合うのはふたりがそれぞれにもっている「世界観」なんです。

凪沙はまだ一果を個人として認識していなくて、むしろ先入観で、田舎の実家からやってきた人間として「どーせあんたも私のこと変な目で見てるんでしょ?」という目で見て、認識して、対応しています。「私そんなのに負けないからね!舐めないで!私こう見えても強いんだよ!」という気持ちがあの容赦ない超速足や、過剰に強面な態度に現れています。だから一果が持たされていた凪沙の昔の写真をあんなにも激しく破ってみせるわけです。そして「田舎に余計なこと言ったら、あんた殺すからね」。
そう、凪沙は一果のことを個人として見ていない。「自分に残酷な仕打ちをしてくる世界の一部」として対応しているんです。

そしてそれは一果の側も同じです。 一果も基本的に凪沙のことを個人として認識していません。むしろ先入観で「自分を虐待したり圧迫したりする大人たちの一人」であろうと凪沙のことを値踏みしています。 だから一言もしゃべらないんです。しゃべっても通じないから。
彼女が始終無表情なのは何も感じていないからではありません。「私、あなたに殴られたり酷いことされても傷つかないから。動じないからね」というこれもまた強面の態度なんです。

そう凪沙も一果も、相手に攻撃されることを予期してお互いに威嚇しあっているんですね。
なんて悲しい出会いのシーンなんでしょう。

このお互いの水面下の苛立ちが内田監督の想定になかったということは、この芝居は草彅さんが凪沙として一果を見て感じて、服部さんが一果として凪沙を見て感じたことをぶつけ合った結果、自然に生まれたシーンなんでしょう。 いまとなってはこれ以外の凪沙と一果の出会いのシーンは想像できませんが、それくらい素晴らしい数分間。まさに理想の映画の芝居の成り立ちかたです。

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こういうシーンって演技が内向しやすいんですよね。内田監督がどういうシーンになることを想定していたのかは分かりませんが、心を閉じたバラバラなふたりが歩いてゆくみたいなシーンだったのかもしれませんね。
でも草彅さんも服部さんもそんな風に内向した演技をしていない。徹底的に外に向かって反応している。

一果が学校とかで無表情で黙っているときも内向しているわけじゃないんですよ。むしろ逆で、思いっきり自分と関係なく進行しているクラスの出来事を感じていて、居心地の悪さや、怒りを感じているんですね。 だから一果をからかった男子生徒に椅子を投げつけるという暴力的な演技にすんなり入れるんです。

さっきまで無表情だったおとなしい子が急にキレた!的な、無気力な意味での無表情芝居じゃないんです。無表情キャラを演じてるわけでもない。そこには外界との不幸なコミュニケーションの流れがちゃんとあって、結果としてしかたなく一果は無表情になっている。 だから彼女の無表情は画面から飛び出してくるほどリアルなんです。

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凪沙さんって基本的に3つの顔を持っているとボクは思いました。

① 外の人間に対しての強面、もしくは攻撃的な態度。

② お店などの身内の人間に対しての優しく、やわらかで、寛大な態度。

③ ひとりでいる時の頼りなく、不安定で、自暴自棄的な態度。

でも草彅さんはこれらを3種類の別の演技として演じていないんですよね。3つの人格があるわけじゃないんですよ。そしてこっちの人格が本質でこっちは仮の姿、とかいう構造で演じているわけでもない。

草彅さんが演じている凪沙の人格は1つなのだけど、凪沙を囲む世界(環境)が3種類あるので、3種類の反応が自然に出てしまっているという仕組みなんです。

そして反応が切り替わるトリガーはつねに世界(環境)です。

凪沙の①の強面の態度はさっきも書きましたが、世界が偏見の目でもって凪沙を攻撃してくるので、その世間に対して反撃、もしくは攻撃してこれないようにあらかじめ威嚇をしている状態ですね。

それが②で相手がお店の人達とか身内関係になってくると、個々を個人として認識するようになって、凪沙さん自身が本来持っているやさしさを発揮するようになります。むしろ弱者に対しては寛大すぎるスタンスで、何かをしてあげたくなっちゃうんです。
身内と一緒にいるとき凪沙は「自分は強い女」というスタンスを崩さず、結果頼もしい人という印象で皆から認識されています。 これは彼女が実はまだ身内の人間に対しても自分の弱さを見せることが出来ないからです。ある意味、距離をおくことで自分を守っている。

その弱さが表面に出てくるのが③で、凪沙さんがひとりで家にいる時や、病院で注射を打ってひとりで街を徘徊している時などに全開になってしまいます。自暴自棄が孤独をきっかけに発動してしまうんです。

そして凪沙は一果に対して、まさに①②③の順に態度を変えてゆきます。
最初は強面で威嚇していますが、一果のことがわかってくるとやさしく、やわらかく、寛大に接し、一果のことを弱い存在として守ろうとします。
そしてラストのあたり、一果と再会してからの凪沙さんは自分の弱さを一果に見せます。それを最初は嫌がってますが最後には一果に「海に行きたい」と甘えるのです。

そうなんですよ。一緒にいる相手とお互いの弱さを分かち合える、という状態になることが、凪沙さんという人物の人生の最終的な到達地点だったのかもしれません。

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この複雑すぎる芝居を、綿密に立てた演技プランにのっとって計画的に演じ分けられたら凄いんですけど、それはどんな名優にも無理な話。 おそらく草彅さんたちもこれら3つの状態の切り替えを演技の中で自動で、自然に切り替わるに任せています。

自然に切り替わってしまっている瞬間が映っているシーンがいくつかあります。 たとえば予告編にもある子供にボールを拾ってあげるシーン。 あの子供はじつはお母さんにこっぴどく怒られているんですが、そんな弱者である子供に対して凪沙さんは、自然に②の状態に切り替わってボールを拾ってあげたくなるんですね。でも子供が凪沙を見て逃げてゆくという仕打ちを受けて、さっと再び①の強面の表情にさっと切り替わる凪沙・・・すごく抑えた演技です。

この表情の変化、感情ではないんですよ。
世界の見え方が変わったことに対する防衛反応として別人格に切り替わっているんです。

われわれ現実の人間も、自分の生活の中で複数のキャラクターを使い分けて生きてますよね。職場での自分、恋人と一緒の時の自分、実家での自分、趣味の仲間と一緒の時の自分、地元の友達と一緒のときの自分、SNSでの自分・・・みんなキャラが違いますよね。だから誰かと会ってるときに親とかから電話がかかってくると困るわけじゃないですか(笑)でもこれらは意図的に切り替えてないじゃないじゃないですか。その相手が目の前に現れると知らないうちに自然に切り替わっちゃってるものでしょ?

そんな風に草彅さんや服部さんは自然に演じてるんだと思うんですよ。

いや「役の人として自然にふるまう」なんて一番難易度高い演技ですからね、凄いことです。

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俳優はキャラを演じようとするとき、自分の表情や振る舞いを気にするようになるので、意識が内向きになりがちです。
でもそれとは逆に、この『ミッドナイトスワン』の草彅さんや服部さんのように、気にする方向をウチではなく外に向けて、世界に対してのその人物なりの必然的反応を演じるのが、いま2020年現在の世界の最前線の演技です。

世界に対して反応しているからこそ、その1人の人物を描くことによって世界や社会の真の姿を描写することが出来るわけです。 『ジョーカー』や『運び屋』や『ありがとう、トニ・エルドマン』など、主人公の目に映っている世界が、まさにこの世界の真実や問題点を物語っていましたよね。つまりこの演技法はいま「娯楽映画のかたちで社会を描こうとするときに必須の演技法」なんです。

もちろん『ザ・ボーイズ』みたいにキャラの魅力がキャラ演技全開で演じられているのを見るってのも面白いんですが・・・でもそれはやはりドラマですよね。

『ミッドナイトスワン』はひさびさに映画を観た~!という気持ちになりました。 凪沙の、一果のディテールに溢れた無表情を大スクリーンで見るだけでも価値がありますので、ご視聴は劇場がオススメです。

やはり映画らしい映画は劇場で観ないとね☆

小林でび <でびノート☆彡>


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