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ドラマは「キャラ」ではなく「関係性」で演じる!『シカゴ7裁判』

見ました映画『シカゴ7裁判』Netflixで。泣いちゃいましたよ。

あのクライマックスの法廷シーンでの全俳優の素晴らしいアンサンブル・・・それぞれの人物の熱情がグワッと表に溢れ出す瞬間の連続で・・・いや思わずガッツポーズとるとか、思わず拍手するとか、思わず席から立ち上がっちゃうとか、そんな地味な演技ばかりなんですが(笑)でもそこには真実の熱情の噴出があって、それが次々と畳みかけてくるんで、つい嗚咽がw。
ネタバレしたくないので詳しくは語りませんが、エディ・レッドメインのどこまでも続く言葉が人々の心を揺り動かしてゆく芝居がホント豊かなディテールに溢れてて・・・なんだか心をかき乱されて・・・自宅でひとりで観ていたのでつい「うわーん」とか声出して泣いちゃいました。

いやー映画ってホントいいですね(笑)。

そんな演技が素晴らしい『シカゴ7裁判』、おススメです・・・とはいえ、じつはボクこの映画の最初の15分くらい観て、そのまま3週間くらい放置してたんですけどねーw。冒頭からいきなり登場人物多くて、どんどんどんどん人物が登場しては消えてゆくので、え?弁護士?司法長官?ブラックパンサー?って。
そのへんの人間関係が把握できるあたりまでは映画に全集中しなきゃ迷子になるかも。ご飯食べながら見るとか不可能な映画ですw。

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じつは俳優サシャ・バロン・コーエン、大好きなんですよw。

それがこの『シカゴ7裁判』を見ようと思った一番の理由です。エディ・レッドメインも『リリーのすべて』以来の大ファンなのでもちろん楽しみだったんですが・・・それよりなにより「1960年代のベトナム戦争反対デモで、睨みあった州兵のライフルの銃口にカーネーションの花を挿していったヒッピー」の話って聞いたことありませんか?その人物をサシャ・バロン・コーエンが演じると聞いて・・・それ!最高じゃん!と思ってw。

だってサシャ主演の『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』にしても『ブルーノ』にしても、銃口にカーネーションの花を挿すような映画だったじゃないですか。
政治家や差別主義者の集会に単身乗り込んでいって、ふざけたキャラでインタビューして彼らの本音や本性を暴露したり、基本そういう「ギャグで実在の巨悪を腰砕けにする」ような過激な映画を彼は脚本・主演・製作してきたんですよね。
そしてサシャはつねに相手のリアクションを生むような演技をしている。だからサシャがいるシーンは相手役の演技がいいんですよね。

そんなサシャが「銃口にカーネーション」のアビー・ホフマンを演じるんだからそれはそれは得意中の得意!さぞかしハメを外したぶっ飛んだ演技になるんだろうなーと思って期待して観たんですよ・・・ぜんぜん違っていました(笑)。

ぶっ飛んだキャラクターみたいな演技は一瞬もしませんでした。
サシャが演じたのは、そのアビー・ホフマンのぶっ飛んだイメージの後ろに隠れた、もっとナイーブなイッピーの大学生の姿だったんです。

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そうなんですよ。アーロン・ソーキンみたいな最先端を行こうとする映画監督/脚本家はもう「人物をキャラで描写する」なんて言う古いことはやらないんだなと思いました。

だって現代的なテーマ、ブラック・ライブス・マターみたいな人種差別にしても、ジェンダーの問題にしても、パワハラ・セクハラにしても、格差問題にしても、分断にしても・・・いま映画が描くべきテーマはすべて特定の人物の問題ではなく、人間と人間の「関係性」の問題なんですよね。

なので現代的なテーマを演じるときには「キャラクターという個人を演じるのではなく、人と人との関係性を演じる」しかないんです。最新の映画の俳優たちはみな「関係性」を演じています。

たとえばスーパーヒーロー物なんか顕著ですよね。
90年代まではスーパーマンもバットマンもスパイダーマンもヒーローは孤独に巨悪と戦うものでした。

でも今は『アベンジャーズ』にしても『ザ・ボーイズ』にしてもスーパーヒーローは集団で活躍していて、しかも物語の焦点は敵との戦いよりも、ヒーローとヒーローの間の確執や友情・・・ヒーロー同士の関係性にシフトしています。
かつては孤独に戦っていたスーパーマンもバットマンも最近は『ジャスティス・リーグ』で一緒に戦っていて、彼らの仲の悪さが物語の焦点なんですがw、『アベンジャーズ』などに比べて「関係性」の描き方が表面的で薄い、仲の悪さが形式的なものに過ぎないのが不人気の原因だとボクは思うのです。

それでいうと・・・『シカゴ7裁判』はもちろん敵(アメリカ政府)との戦いに物語の焦点があるわけではなく、被告人たちと弁護人たち仲間内の確執が焦点になっています。

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青年国際党(ヒッピー)、民主社会学生同盟(SDS)、ベトナム戦争終結運動(MOBE)、ブラックパンサー、そして国選弁護人のウィリアム・クンスラーとレナード・ワイングラス。同じデモに集まったデモの仲間なのに、主義主張の微妙な違いからお互いがお互いを信頼していないので、まったく話がまとまらないんですね。だから一丸となってアメリカ政府と戦うことが出来ない。

検察側の激しい攻撃の中で、彼らは深く傷つき、傷つけあい、一体何が正しいのかどんどんわからなくなっていく、その「秒単位の関係性の変化」がこの『シカゴ7裁判』の芝居のハイライトです。

メインキャストたちはディスコミュニケーション(バカの壁)を繊細に演じて、台詞の内容とは別ラインで進行する「秒単位の心の動き」の豊かなディテールがそのまま直に俳優たちの顔や身体の表情にあらわれて、その表情の多彩な変化自体が物語を語っている状態です。

が! ここで問題なんですが、
アーロン・ソーキン監督の書く脚本って、『ソーシャル・ネットワーク』なんかもそうでしたが、すごく台詞の量が多くてそれがまた早口で演じられることを想定して書かれているんですよ。だから・・・日本語字幕の文字量がとにかく多いんです。とにかくずーっと字幕が出ている!
目が、字幕を追うので精いっぱいで、俳優たちの表情の微細な変化を追うことが出来ないんです!おい!(笑)われわれの目は字幕と顔を行ったり来たりするので結果、俳優たちの表情の変化ではなく、細切れの表情を見ることになるんです。これではこの芝居の本当に面白いところが見れない!

で、ひらめきました。日本語吹き替えで観れば人物の表情をずっと見ていられる!
ということで途中何回か日本語吹き替えに切り替えてみて見たりしてみました。そしたら、おお、翻訳自体はこっちの方が的確かも! ところが・・・この「関係性」で演じられている画面上の芝居に、声優さんたちがなんと「キャラ」で声をつけてらっしゃるんですね・・・。

「関係性」で演じていればシーンの中で関係性には変化があるので、元の英語の会話は様々な変化に満ちた豊かな会話をしているんですが、日本語吹替の方は同じ言葉を喋っていてもヒッピーならヒッピー、検事なら検事の固定された「キャラ」の一貫性でもって演じられているので(キャラはシーンの中で変化したりしないので)、シーンの中でずっと同じトーンで喋ることになってしまうんですよね。もちろん台詞的に仕掛けがあるところや急に激昂するところには意図的な変化があるんですが、それはあくまでスタンドアローンな演技で「関係性」が生んだ変化じゃないので・・・だからやっぱりこれ、アーロン・ソーキンが意図した芝居じゃないし、俳優たちが演じた芝居とも違っていると思うのです。

例えばアビー・ホフマンがナイーブなコミュニケーション取ってるシーンでも、日本語吹き替え版では「ちょっと無礼で挑発的なヒッピー」として演じられてますからねー…。

なので字幕版に戻るしかなくw。
しかたなく1シーンづつ見ることにしました。まず一回見て字幕の台詞を大まかに覚えて、次はもう一回今度は字幕を消して演技だけを見るんです(笑)。
いや~素晴らしい芝居ですよ。とくに「マイケル・キートンをマーク・ライアンスたちが口説き落としに行くシーン」とか、信じられないくらい豊かなディテールに溢れていて、超超超エキサイティングですから。

…みんな脚本の台詞の多さが悪いんです!

という事にしておきましょうw。

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ついでにあと1点だけ不満点を。
編集の話なんですが、そんな「関係性」の演技なのでやはり重要なところの芝居の人物アップのショットは「長回し」で見せてもらえると嬉しかったなあ。
カットバックで細かく編集してしまうと表情の微細な変化が見えなくなっちゃうんですよね。カットバックでテンポを出すのだ!という意図はもちろんわかるんですけど・・・まあ演技のディテールを見た過ぎる演技マニアの独り言ですが(笑)、でもやっぱりせっかく俳優さんが魂を込めて演じているんだから・・・それは見たいよなあ。

なんだかボヤキみたいになってきたので、このへんで〆ましょうw。

『シカゴ7裁判』、ここ1年でボクが観たアメリカ映画の中では一番かも。やはりアメリカ映画って今まさに進行中の社会問題を、過去の事件を使って本質に迫る、しかも説教くさくなくエキサイティングなエンタメに仕上げるってところが凄いですよねー。

だから社会問題の内容の変化とともに、脚本の書き方もカメラワークも時代とともに変化して、結果、演技法も時代の変化とともに変化するんですね。 この『シカゴ7裁判』での俳優たちの演技と、20世紀の法廷モノの演技と比べてみると面白いですよ。

小林でび <でびノート☆彡>


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