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怪奇幻想小説の永遠の課題、恐怖について

お久しぶりです。
アマチュア特有の突然のアカウント失踪発作の持病ではありません、単に色々体調をこじらせていました。
教育教育教育教育しなければ。

さて、皆さんは読んでいますでしょうか、怪奇幻想小説。
また古典的なジャンルを、と思われるかもしれませんが、私は思うに、怪奇幻想文学はあらゆるラノベや、ホラーの先祖だと思っています。
闇夜にて人の世に蔓延る吸血鬼、妖しくこちらを睨む黒猫、自ら生んでしまった追跡者に、退廃的な漁村の住人達。
そういった怪物は登場せずとも、奇妙で不可解、されど害悪な“現象”に見舞われたり。
怪異譚、とも言うべきアイデア、その源流は神話から、主教の信仰から、中、近代に入ってゴシック小説となり、恐怖を煽らせるものへと変化していきました。

しかし、ポオやアーサーマッケン、メアリーシェリーは今時価値観の差異や、文化から見ると、いささか恐怖を感じにくいかもしれません。
むしろ、かつて恐怖の対象そのものであった筈の怪物達は同情、哀れみ、果てには読者にとっては固定化された価値観によって迫害された悲劇のヴィラン、という風に映るかもしれません。

近頃は、人間こそが恐怖の対象だ、psycho的な人間、性格や気質の一般的な価値観、ロジックの破綻した純然たる狂気――人格破綻者や身近な存在の負の感情から引き起こされる、犯罪への恐怖が高まっているようです。

ですが、私はある意味、一番懐かしい恐怖を描いています。
ゴシックが好きだし、先人たちの作品からでしか得られないどこか懐かしい気配、ページをめくるたび、曖昧な原因こそ分かれどその理屈が解らない、そういう説明、理屈抜きの不条理な怪異が好きです。
とはいえ、恐怖感を与えなければそれはただの幻想小説――不思議な怪異譚になってしまいます。

パターン化された、懐かしい恐怖を描くにもやはりというべきか、時代の価値観に合わせた恐怖を描かなければ、不思議な事に私自身も怖さを感じないのです。

そうなると、出てくる言葉というのは勉強不足、私の発想が貧困なためか、狂気的になっていく人間(シャイニングエンドとでも)、最初からそもそもこれはどういう現象だったのか解らなかった(胡蝶の夢エンドとしておきます)、そもそも主人公の常識や前提自体が狂っていた(良いネーミング募集)などになってきて。

オチはございませんが、皆さんでしたら、どう擦り合わせていきますか?
自分の書きたいものを書いてみても、しかしいまいち恐怖が足りないように感じる。そんな時は。
描写力が足りないのか、それともどうしても作品から感じ取った雰囲気から来る恐怖は、今書くとしたら今の価値観という鎖に縛られているのか――。
では、私の感じ取ったありえそうで、あり得ない、理性が警鐘を鳴らすもしかし本能が脳の判断を狂わせるようなものは一体。
新しい刺激を前にして、少し興奮状態になっての読書だからでしょうか。

訳の分からない物への防衛反応、それを愉しむにも、難しいですね。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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