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お葬式にお坊さんはいらない。

宗教というよりも、思想のない日本

日本人の思想とは、自然崇拝的な神道に大乗仏教を融合したものがベースであり、戦後だんだんと信仰への関心が薄まって、現在「無関心」と言うのがざっくりした状況ではないかと思います。仏教国であるタイに20年近く住んでいるわたしから見ても、日本人は宗教というよりも、「自分はこう思う」という思想そのものに無関心です。

わたしはみなさんからすると仏教哲学を専門にしているという印象があると思いますが、専門という前にわたし自身が自ら選んで仏教徒です。こういう風にはっきり信条を明言すると、日本では難色を示されます。ですが海外では信仰を持っていることは決しておかしなことではありません。

最近のニュースでもあの事件の原因は新興宗教のせいだとか、色々言われていますが、根本にある原因は新興宗教ではなく、「自分はこう思う」という思想のなさなのではないかと思います。外から見ていると、思想がないのに他者が違った思想を持っていることを受け入れないという不寛容さから、ものごとがこじれているように見えるのです。

外国でビザを申請したり、病院で診察を受ける際は、信仰を記入する欄があります。入院する際も信条によって食べられないものはないか確認されます。むかし病院の受付で通訳の仕事をしていたころ、多くの日本人の方がその空欄に戸惑い、「どうしてそんなこと書かなければならないのですか?」と怪訝な顔をして尋ねられました。「さまざまな信条の方がいるので、それに対する配慮ですよ。」と答えると、「じゃあ仏教と書いておきます。」と言われることがほとんどでした。わたしはそれを聞いて変だなあと思っていました。診察書の記入欄と同じように、お葬式も「じゃあ仏教でお願いします。」という感じなのではないかなと思ってしまいました。

仏教徒だとはっきり思ってるわけでもないのに戒名って…?

日本でのお葬式は最近、無宗教葬や自由葬が増えていると聞きます。わたしはそれで良いと思います。仏教徒だとはっきり思っているわけでもないのに、戒名するのは変なことだし、何より生前に面識のない無関係なお坊さんがお葬式に来るのがすごく変です。わたしの家は日蓮宗ですが、もしも自分が死んで日蓮宗のお坊さんが来ることを想像したら、正直すごく不思議な感じがします。

ですがわたしの場合、もし死んだら世界のどこかでわたしのためにお経をあげ、死のプロセスに落ち着いて向き合えるよう背中を押してくれるであろう僧侶・尼僧の先生や友人がいることを思うと、たとえ葬儀がどんな形であっても構わないと思っています。日本の家族の希望で日蓮宗の不思議なお葬式が取り計らわれたとしても構いません。そこには形式以上に「思想」が関係しているからです。家族が希望するのであれば、日蓮宗のお坊さんは家族の気休めになると思うのでそれで良いです。ですがわたしの個人的な思想に対してはあまり効力を持っていません。

そんな何の関係もない形式やお坊さんがなぜ必要なのか、まずは生きているうちから自分に問いかけてみるのが良いと思います。問いかけていくうちに無宗教であるということに確信が持てるかもしれません。反対に違和感を感じて、神道を選ぶかもしれません。実際にわたしの知っている神道のお葬式は素晴らしいものです。神道のお葬式がどういったものなのか、近くの神社に聞いてみるともっと身近になるかもしれません。もしくはやはり仏教が良いと思うのであれば、突然お葬式だけお願いするのではなく、ブッダが死をどのように捉えているのかその思想に触れてみてほしいと思っています。

何も信じていないのであれば、自信を持って何も信じていない道を歩んでください。海外で信条を記入する欄があれば何となく「仏教」と書くのではなく、胸を張って「無宗教」と書いてください。もし自分の思想に自信がないのであれば、自分が何を感じているのか問いかけて、まずは自分を理解していくことから始めてください。

今日のスッターサムユッタ・ニカヤ1編63章「タンハースッタ」

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