十字架に昨日伝え忘れたなにかを許されようと祈っている


わたしは発達障害を持っているからこそ味わう、ハードルの低いことを出来ないと突きつけられる絶望感、簡単なことでもなにかをしくじるんじゃないかという怯え、仕事を人よりも選ばなくてはいけないことなどかなり苦しんでいる。たとえば家でなにかあったとき、必ず先に私が疑われたりする。

その我慢はもう生まれてからしなきゃいけないものだと思っているし、配慮なんて多分わがままなんだと思うしかない。

少なくともわたしは障害のある自分のことをひとに「ゆるし」てもらって生きていると考えている。人と関わる以上の話だ。悪いとか良いとかじゃなくて、ゆるしてもらうことに対して人は低姿勢でいないと多分見放されてしまうんだと思う。

それはあいさつをしないのと同じで、ありがとうを言うとかすみませんねと伝えるとかそういうポーズを見せるという意味で。「ゆるし」なんてどこにも規定のないものだから、相手の心の中の余裕からこねてこねて作り出したものなんだと思うしかない。

相手に余裕がなかったら諦めるしかなく、なにか助けを求めることや間違いに対して祈るしかないのだ。なに言われても仕方ない、どうか許されますように、とね。

わたしはバイト先でレジ打ちを初めて練習していた時期、「君ってすごいわたしがんばってます!って感じ出すのうまいよね〜そりゃ周りも助け舟だすわ」ということを嫌味のある感じで言われたことがある。大きな傷として残っているが、多分これはわたしが生きる上で必要なスキルだったのだと思う。

わたしにとって、発達障害があるとは助けてもらえるような形で蹲るしかないということだ。飛べる鳥が空を飛ぶ練習を怠ってはいけないのとおなじ。私たちに選択肢はない。もちろん健常者に近づく努力もした上での話だが、どれも欠かしてはいけない。わたしたちは健常者に化けれるものなら化け、化けの皮が剥がれたらゆるしを乞うしかない。そういう生き方しか許されていない。

ゆるしてもらえなかったら、その人とは付き合えなくなるし、もしそれが働く先だったら針のむしろのような気分を味わうことになる。

ずっとこうなのかと目眩がすることもあるが、人には人の地獄があると唱えていくしかないのだ。才能のないわたしたちの懸命にしたことはきっと、ひとができて当たり前のことでしょう。それでもがんばってます!と顔に出しながら生きていかなくては。生まれたからには生きていかなければならない。旅行をして友達とファミレスでパフェを食べて、何気ない雑談をして罰からくる苦しみをやわらげていくしかない。

ちなみに最近では障害者は子供を産むな!といった旨のツイートが多くのいいねを獲得していることがある。個人的な話で障害者はなどという大きな主語で語れることはないが、わたしは子供は産めない。前述の通りの生き方を、子供にさせるなんて目の前が暗くなるからだ。わたしは自分を障害者だからって、不幸だとは思わない。けれど自分の中で苦しいと感じる時は発達障害が原因であることが多い。生まれさえしなければ、この苦しみを味わわずに済んだのかと思う。遺伝は確率でしかないだろう。現に私だって健常者の親から生まれた。けれど、もしもの確率が高いならわたしは自分のエゴで子供を苦しめることはしたくない。

これも祖父母、両親にゆるされなくてはならない私の罪であり罰だと思う。

子供を産むと決めたわたしとおなじ発達障害を持っただれかは、生きていてよかったと思う回数がわたしよりも多いのかもしれない。ひとを幸せにできるような自信のある生き方をしているのかもしれない。これだって確率にすぎない。でもそれはきっと、尊いことだ。少なくともわたしはそう思った。

さくらももこさんが昔対談で、人生とは巨大なスカートをめくってパンツが何色だったか見るオチで終わるようなもんだと言っていた気がする。わたしのこのゆるしを乞いながら、停止したり蛇行して生きていく生がどのように振り返られるのかただ見てみたい。自死は恣意的な自画像を死後まで引き摺ってしまう気がするので、出来ればそれ以外で命を終えたらなと思う。


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