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映像監督の末吉ノブと申します。

個人でnoteを書くのは初めてです。
なんでnoteを始めたかというと…
やっぱり言いたいこと伝えたいことがいっぱいあるんですよね。
もうすぐ僕も48歳になります(これを書いてる2023/1/10現在)。
映像を生業として、はや26年になります。
ほんとに恵まれた環境でやらせていただいてきて、今でも一線で監督やらせていただいてます。
でも常に順風満帆なわけでもなく、いろんな修羅場や挫折もありました。
それを経て今、思うこと伝えたいこといっぱいあるなーと。

自身の長編映画「チャロの囀り」撮影現場

1975年大阪生まれ うどん屋の次男。

まずは最初に自己紹介がてら生い立ちをツルッと。
大阪の生野区桃谷という、まあ相当やんちゃな街で生まれ育ちました。
実家は親父で3代目という老舗の製麺所。やんちゃな街で、道を外す要素が周りにたくさんあった環境で、まともに育ったのはほんとに親のおかげですね笑。
感謝感謝です。

小学校の6年になると親の影響で音楽と映画にどっぷりハマる生活に。
当時はテレビの金曜ロードショーとかで「13日の金曜日」とかがガンガンに流れる時代。ホラー映画が放送された翌日はクラスでめちゃくちゃその話で盛り上がってました。そんな時に「死霊のはらわた」(サム・ライミ監督)と言う映画がやってたんですが、それを見た時に「あ、俺もこんなん作りたい」と思ったのが監督になりたい人生の始まりでした。
と同時に、世の中はバンドブームに差し掛かり、中学になってバンドを始めることに。基本的に超人見知りだったので、目立ちたくはなく、、ボーカルとかギターは絶対にやりたくなくて選んだのがベース。やってた音楽は、当時のバンドのギターが初期パンク(特にRAMONES)野郎だったのでそいつの影響で、ガッツリパンクでしたね…。高校からは当時の同じバンドのギターのやつの影響でメタラーになるんですが笑

今の僕の要素はほぼそこで決まってます笑

とにかく人前に出るのがいやで、でも仲間内ではわいわいうるさい超内弁慶な子供でした。あと兄と妹に挟まれ、どっかで周りの目を気にしすぎてたのもあるんすかね。内向きな性格なので、その当時から大学までは映画と音楽にどっぷりでした。特に映画の世界にはざっくりした憧れから、どうしたら映画の世界に入れるかと言う具体的なものに変わっていきました。ホラーとかSFが好きやったので、特殊メイクとかSFXの世界に飛び込みたかったっすね。
当時はスピルバーグが全盛で、「E.T」「バックトゥザフューチャー」「グーニーズ」とかもう憧れすぎました。なので、当時はILM(ハリウッドの特殊効果の会社)とか、特殊メイクのトムサヴィーニに弟子入りするにはどうすればとか笑
自主(と言っても完全に一人で)コマ撮りで自分で造形した粘土のモンスターを撮影してたりとか…笑
特殊メイクの本を図書館で探して、石膏でかたどってラテックスで見様見真似で傷つくったりとか…笑
今思えば中学時代はだいぶやばいっすね。まあ通ってた中学が相当激し目な中学だったので、今思えば暗黒時代でしたね。

映画と音楽のマニアックな話はまた別の機会にしますが、そんな子供時代を過ごすと、ほんとにその世界を目指そうと考え始めるんですが、高校に差し掛かると一気に現実も見えてくるんすよね。

これは言うても20代半ばすねw

大学で現実と直面。

それまで、大阪の下町で「映画監督なるんやー!」て言ってたガキんちょが、高校に入って、さらに大阪市内だけじゃなく、泉南の方とか奈良とか兵庫からも通学する人がいるような私立の高校なので、一気に世界が広がるわけです。
さらに、小学校から一緒に映画館に通っていた幼馴染の桜井くんも別の高校に行き、そっちでは他にすごい出会いがあって(後述)、ひとりぼっちになり、自分は映画の世界では通用しないんじゃないか?みたいな根拠のない自信喪失がありまして…笑
そんな時に同じクラスになった藤田くんとバンドを組むことになり…そんな彼とメタル道をその後は邁進すんですが、、とはいえ映画館も相変わらず一人で通ってるし、自主でこそこそ作品も撮ってました。
ある日、バンドの練習(ドラムのやつの実家のガレージがバンド練習場)をしてると、自分が使ってる8ミリのカメラ(Hi-8)で、演奏してるとこ撮ってミュージックビデオみたいなやつできるんちゃうのん?て話になり撮ってみることに。
これがクッソかっこよかったんです。ミュージックビデオ、おもろいやん。てなりますよねそりゃ。

そして大学へ。
映像系の大学はもちろん興味もあるし行きたかったけども、将来映像を仕事にする自信はなんかなかったんですよね。
違う高校に行った桜井くんは映画監督を目指すべく映像の専門学校に入るのが決まり、入学前に早速そこの先生と会わせてくれたりとかで…。その先生が当時はまだ自主制作をバンバン撮ってた女性監督(検索引っかかりたくないので名前は伏せますが、その4年後に「萌の◯◯」でカンヌのカメラドール取った人w)で、なんかバイタリティが凄すぎて圧倒されたりとかでした。凄い人が周りにはいっぱいいてるやん…て普通に尻込みしました。
バンドはバンドで、いろんなとこでライブすると、同年代のすげーやつしかいないんすよねw
枚方のブロウダウンてライブハウスでライブ出させてもらった時とか、普通にめっちゃイケメンで曲もいい、演奏も抜群にうまい同い年のバンドがいて、圧倒されて、、その後やっぱりメジャーデビューしてましたね…(その人、20年後に僕が撮ってるんすけどw)
なのでバンドで飯を食おうとも思ってなく、普通に受験勉強して普通の大学に。
母親が京都なので、京都の大学には行きたいなと思い、立命館大学へ。

まあ普通の学部です。産業社会学部。当時は今ある映像学部もなく、やっぱりメディア系への憧れはあったのでそういう勉強ができそうな学部を選びました。
とはいえ、まあ大学ではすいません。ほんとにすいません。ほとんど授業でてないです…。映画とバンド漬けの四年間でした。結局やっぱり好きなんですよ。
でも、大学でさらに世間と自分の差を実感するんすよね。もう周りが凄い奴らだらけで。映画は、普通に学校内でやってる上映会の自主作品は面白いのばっかりやし、自分の作品をインディーズ映画の登竜門であるPFF(ぴあフィルムフェスティバル)に出しても、寸評で「楽しそうでよかったです」とかしか書かれずで笑
で、出した年のPFFのスカラシップ「裸足のピクニック」て作品見てもめちゃくちゃ面白いんですよ。矢口史靖ってすげー人だ…とか。当時のインディーズ界隈はほんとに引くくらい凄い人だらけで、園子温とか塚本晋也とか見てたら自分は何してんだ…ってプレッシャーがやばかったです。
さらに追い討ちかけるように、幼馴染の桜井くんが専門の先生の監督の現場に出るって言って奈良の吉野の山奥に合宿に言ってしまい…あ、桜井もプロの現場行きおった…みたいに思ってました笑
(ただ、その桜井くんはその後メンタルを壊してその組から外れ、映画監督の道は諦めましたが…)
と、同時に自分の奥底に「俺は俺でやる!」みたいなメラメラしたものもあったのは事実。
地道に映画の撮影所に入って下っ端からやるのも違うなと思い(当時はそう思ってました)、ただ自主制作で映画監督を目指すのも他の凄い人たちをみると、あ無理かもってなるし…。
だったら、ミュージックビデオかCMの監督になってそっちから映画に行くのもありやなー!とか思って(甘いっすよねw)、当時はCMとかMVの監督が映画を撮る流れがあったので余計にそう思いましたね。
ただし、やっぱり現実は甘くないんだろうなと思って就活は一般の会社も視野に入れて動いてました。
結果、大阪のCMの制作会社に晴れて入社するわけです。
そこから、僕のプロとしての映像人生が始まりました。

需要あるんかいな笑

いきなりこんな長々と失礼しました。
今後はちょいちょい書いていこうと思いますので、お付き合いください。
ありがとうございました!

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