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280 ホワイト化する社会


はじめに

今日の教育コラムでは、加速するホワイト化社会についてお話ししたいと思います。ホワイト化していることを物語る出来事として、スポーツ界やミス日本コンテストに関連した話題がニュースになっていました。
共通していることは、事実であるかどうかを十分に吟味せずに、過去の人生の一場面を週刊誌が取り上げ、今の実績や取り組みの全てを否定し、活動や個人の存在自体を否定するといった現象が起きている点です。

ホワイト化する社会

この言葉は、文化人である岡田斗司夫さんが使われている言葉ですが、現代の社会の傾向を少し前から予見していた言葉としても有名です。
新型コロナの流行で、私たちは汚い物ではなく清潔な物を求めるようになりました。こうした思考は、「ホワイト企業」と「ブラック企業」のような表現として用いられることも多くなりました。
簡単に言えば、清廉潔白なものを好む社会になってきたということでもあります。これは、正しいものが好まれる社会という側面もありますが、ルールや規範を重んじるという意味だけではありません。
正しさや誠実さと言うものは、いくつかの失敗の中で身についていく場合があります。しかし、ホワイト化が進む社会では、まるで完全に善で過去の過ちの一点でもあればそれは、清廉潔白ではないといった感覚を多くの人間がもち始めます。
次第に、見た目の美しさや清潔さが重要視され、中身も見た目も美しいものを人は求めるようになります。そのために整形したり、脱毛したり、自らを整えるまたは、整えている人が美しさの対象になりやすくなっていくのです。

表現者の世界でも

一昔前であれば、煙草をくわえながら風を切って歩いている俳優さんが映画の中でそのたばこを投げ捨ててもだれも文句を言わなかったことでしょう。作品の中での表現と現実社会でのそうした行為を結び付けて、避難することもなかったでしょう。
また、昭和であれば夜の街を豪遊し、数々の武勇伝をテレビで話す大物芸能人にコンプライアンスを重要視してくださいなどと誰が言えたでしょうか。ホワイト社会では、そうした社会規範を損なうような演出や発言自体が問題なのです。つまり、思想や表現の自由を社会が認めないのです。
あくまで自由であることを前提とした表現の世界であっても過度な規範意識への配慮から、許容することを拒絶します。この批判は、SNSなどの力を借りて圧倒的なパワーをもって襲いかかってきます。それはまるで一人の人間の人生を崩壊させてしまうような勢いです。
例え芸能人であってもスポーツ選手であっても、こうした批判にすべての人々が耐えられるわけではないのです。週刊誌やそれに便乗して面白おかしく意見を述べる人やまくしたてる人々は、発言や表現の自由を理由に相手を攻撃します。しかし、その発言をしている人々は、自分の過去に触れられることなくあたかも聖職者のような顔で相手を攻撃します。

表現の自由とは

日本国憲法では、「集会、結社及び言論、出版その他一 切の表現の自由は、これを保障する。」 と規定されています。
表現の自由とは、すべての見解を検閲されたり規制されたりすることもなく表明する権利なわけですが、私たちはこの権利をどのように運用すべきなのでしょうか。今まさにホワイト化する社会に生きる全ての人がこの問いにある一定の答えを出そうとしているように私には見えるのです。

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