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57 正解主義(correctness principle)


はじめに

物事には、正解と不正解があるという考え方は、いたって普通の考え方であり、私たちはそうした判断を常にし続けて生きています。例えば、卓球の試合ではネットで半分ずつにわけた小さなテーブルの上を1秒よりも短い時間の中でプレイを繰り返し、この判断を延々と繰り返していきます。この判断が正解であるかどうかは、試合が終わった後に結果としてわかってきます。
さて、ではこの正解というものは1つだけなのでしょうか?という問いが、今回のコラムのテーマである正解主義という言葉を通して考えてみたいことなのです。

正解主義という言葉の意味

この言葉は、正解に重きを置いているという主義であり、もっというと「正解は一つしかないという見方」と言っていいでしょう。この考え方は、明治以降の日本の近代化の中で学校教育のいたって一般的な考え方の根底になってきました。
簡単に例を挙げれば、教科書を使って学習を重ね、教師はテストで4択の問題を出題し、限られた選択肢の中から正解を1つ選ばせるという手法で子どもたちの学力を測るといったものがその代表的なものです。
こうした考えの中では、正解か不正解の二者択一の思考が色濃く出てきます。

正解とは何なのか

そもそも、「正解が何であるのかがわからない」という感情を社会の中で生きているといつも直面する問題のように思います。仕事でも人との関りでも、政治の場面でも正解が一つだと思い、その答えに出会えなかったときに、失敗した、全部が駄目、などと思い込んでしまうとしたとしたら、それは正解主義の影響を強く受けているのかもしれません。
例えば、クラブや会社やサークルに所属したときに、自分にとっての正解がなかったと感じたとしましょう。この時に必要なのは、仲間や周囲の人間と目標や結果に向かう過程を修正していく力なのです。この考え方を正解主義に対して修正主義という言葉で表すことにします。
正解ではないものは全て不正解というやり方を、小学校、中学校の9年間で続け、そして最後は大学入試という正解か不正解を問われる最高峰のイベントに向けて高校3年間を過ごすという学び方では、どうしても、正解主義が定着してしまいます。

正解は一つではない

運動系でも文化系でも構いませんが、部活動にも力を入れながら学びを進めていることの良い点は、正解主義だけに偏らず修正主義をしっかり体で感じることができる点にあります。
吹奏楽のコンクールに向けて音楽を作る過程でも、サッカーの試合のあらゆる場面でも、正解は一つではないことに納得できる人は多いように思います。教科書に書かれている内容を問う問題に対する正解は一つであっても、音楽の奏で方やボールのパスを出す方向や相手については複数の正解があり、その中でも最も良質なものを選択しようと試みます。例えそれが、最良でなかったとしても、そのことがきっかけで周囲が力を加え、現状を超える良いものに向かう可能性が生じます。

答えが一つではないから高みを目指せる

答えが一つで、その答え以外に物事の本質を表すものがないとします。
そうした考えの下では、にんじんを赤やオレンジや黄色で塗っている子どもは正解で、白黒に塗っている子どもには、オレンジに塗りなさいと言わなければならないのでしょうか。
「普通は」という言葉を用いて、幼いころから正解を示していくことを続けていくことは、正解主義に陥る可能性を秘めています。「正解などたくさんあるが、今君が選んだ正解にはこのような意味があり、ほかにもこのような正解が考えられる。」などと教えるようにしたら、もしかすると一つの答えに満足せず、探究や追求を自ら進んで取り組める子どもが育つのかもしれません。
学校という場所の中に厳然と存在する正解主義は普段の宿題にも表れており、与えられる膨大な宿題はいつも答えが一つのものばかりです。どこかで、なにかで、修正主義が学べる機会を子どもたちに与えてあげることが今まさに必要なのかもしれません。

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