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企業という現代の身分制

「会社」、などとなんとなく言われますが、それって誰のことだろう?
「経営層」とか「マネジメント」も然り。
管理職? 部長以上? 役員? それとも社長のこと?

今はむかし。
「労使(労資)」という言葉がありました。
これは、労働者と使用者(資本家)を意味しました。
会社は、労働する者たちと使用する者たちという、2つの階層からなる、と考えられていたようですね。

現在はどうでしょうか?
そんなに単純な 2層構造ではないか。
一般社員、現場リーダー(係長・主任)、中間管理職(次長・課長)、上級管理職(支店長・部長)、役員(代表取締役・取締役・執行役員)みたいになっていますかね。

では、会社の人間を労働者と使用者の 2つに分けるとしたら、どこに線を引きますか?


スイスに本社を置くグローバル企業で10年以上働いてきて、感じることがあります。
企業は現代の身分制だということです。
端的に言えば、エリート階級と非エリート階級に二分されるということです。
エリート階級とは、フランスのグランゼコールやアメリカのハーバードで MBA を取得したような人たちで、社会人 1年目からトップ企業のマネジャーとしてキャリアがスタートします。
彼らは社内の幹部養成プログラムに自動的に入れられ、1~3年サイクルで部署異動を繰り返しながら、異常なスピードで昇進していきます。当社を例にとると、30代で VP (Vice President) 、40代前半で SVP (Senior Vice President) になるスピード感。そのあと CEOまでいくかどうかは、本人の才覚と運次第です。

これは一種の選抜システムのように見えますが、そうとも言えません。
A社で出世競争に敗れたエリートは、ためらうことなく B社に転職し、B社の幹部コースに乗り換えます。いくらでも敗者復活できるわけです。そもそも彼らの辞書に「敗者」という文字はないでしょうね。
そのような転職が比較的容易なのは、エグゼクティブ専門の人材マーケットが存在するからです。

つまり、エリート階級はどこへ行ってもエリート階級なのです。

非エリート階級、つまり普通の人はどこまで出世できるのでしょうか。
私が見てきたかぎりでは、精一杯がんばって VP までです。非エリート階級の人が叩き上げで VP になる確率は、0.1%未満だと思います。それくらい、VP 以上のポジションはエリート階級に独占されているということです。

私の今の上司であるシネム (Sinem) は叩き上げの VP ですが、彼女は超レアケースと言えます。
当社(社員数:約 6万人)の VP は、30人くらいの部下をもつ本社の部長をイメージしていただければいいでしょう。

グローバル企業の人間を労働者と使用者の 2つに分けるなら、非エリート階級とエリート階級の間に線を引くのが妥当だと思います。

「労働」の定義にもよりますが、基本的にエリート階級は労働しません。
働くのは非エリート階級です。
かつて労使と呼ばれたものは、現代においては働く人(非エリート階級)と働かせる人(エリート階級)の関係と言っていいと思います。

そろそろ、「エリート階級」という言葉を使うのが腹立たしくなってきましたね。そこで、彼らに最もふさわしい名称を与えましょう。
彼らは「貴族」なのです。
非エリート階級は「平民」です。
働かない貴族と働く平民からなる企業。まさに現代の身分制と言えますね。

現代の貴族はどのようにして高貴な身分を維持しているのでしょうか。
その巧妙な手口を以下に紹介します。

貴族仲間の結束を見せつける。
エグゼクティブが集まるクラブ、サロン、パーティーを定期的に開催する。🔲ータリークラブや経🔲連もその類いでしょうか。

平民にもチャンスがあることを物語る。
アメリカン・ドリームが典型例ですね。もちろんプロパガンダです。

身分の違いを「見える化」する。
過分にゴージャスな社長室。プライベイトジェット。社交界人脈アピール。平民に諦めをもたらす効果と憧れを抱かせる効果があります。

人の生存本能に恐怖心を植え付ける。
生殺与奪の権を握っていると思わせることで、平民を自分のために働かせることができます。恐怖は常に最強の支配ツールです。

ときどき気前の良さを見せる。
会社主催のパーティー。社長によるボーナスの発表。新手の休暇制度の導入など。「恐怖からの慈悲」は、最も効果的なコンボです。

平民を多忙状態に保ち、考える時間を奪う。
ブルシット・ジョブを与え続けることにより、常に平民を長時間労働で忙殺させ、疑問を生じさせないようにします。

彼らの経典はマキアヴェッリです。

これ以上書くと左翼活動家認定されそうなので、このへんでやめておくか。

おぼえていますか?ボクらのこと

この貴族と平民の身分制は、日本の会社にも当てはまるでしょうか?
当てはまらない、と私は考えています。

東大出てもただの人、というのが日本の社会です。
学士と修士と博士を差別しない、世界で極めて珍しいお国柄でもあります。
すべての新入社員が将来社長になる可能性を持っています。
だからがんばれ!と言いたいわけではないのですが、これって普通にありえないことなんですよ。日本だけがもつ特殊性としか言いようがありません。

日本は、世界でも稀に見る無階級社会と言えるのではないか。
格差はいろいろありますよ。所得、教育、情報。しかし、身分や階級のような、どうがんばっても越えられない壁は存在しないんじゃないでしょうか。

ひょっとして・・・
階級がないから、平等すぎるから、日本人はがんばっちゃうのかな。
貴族は一生貴族、平民は一生平民って社会のほうが生きやすいのかも。
それもひとつの考え方でしょう。
ここからは好みの問題になると思いますが、私は階級のない社会のほうが好きです。がんばれば上に行ける(と思える)社会のほうが、努力がまったく報われない社会よりも元気が湧いてくるからです。

日本には「がんばる自由」がある。
同様に、「がんばらない自由」もあります。
その両方が同じくらい大切だと私は思います。
がんばる人も、がんばらない人も、それぞれ思いがあって、どちらも愛おしいと感じます。
かたや、憎むべきは「勝ち組」「負け組」などと人を勝手にラベリングする物言いです。すべての人には、本人だけが知る事情と歴史があります。誰だっていろいろあるのです。そんなややこしくも愛すべき人生を勝ちと負けに二分するのは、人間を貴族と平民に分ける社会と大差ないですよ。

階級社会は生きづらいです。
平等社会である日本が生きづらいとすれば、勝ちとか成功を万人に期待するトレンドがそうさせているのではないでしょうか。
階級がなくて、勝ちも負けもない社会。がんばる人とがんばらない人がいて、どちらも納得しながら生きている社会に、私は生きたいと思う。