見出し画像

日本人として、私は世界と、日本とどう向き合えばいいのか

ある noterさんが、東京オリンピックの開会式を観て「日本というラベルを切り離して、世界のために働きたい自分がちょっと嫌になった」などと書かれているのを読んで、様々な感情が沸き起こりました。
私が「日本という国が衰退していくのは不可避だから、おとなしく見守るしかないのでは?」的なコメントをしたら、「日本人である自分が世界で頑張ったら少しは日本が見直されるかもしれない」と返ってきました。
その文に眼が固定され、しばらくの間身じろぎできませんでした。
いろんな思いが去来し、いつのまにか目頭が熱くなっていました。
この思いがけぬ反応の理由を知るために、自分も同じように考えていた頃の気持ちを思い出し、現在に至る経緯を振り返ってみようと思いました。

世界がひとつになるビジョンに酔いしれた 20代

25歳で東京の会社に就職し、26歳でロンドンに転勤してから、私の人生は大きく動いた。
海外に何の興味もなく、英語も話せなかった 26歳を、海外に単身放り出したその会社のことは今でも感謝している。
当時「なぜ私なんですか?」と率直に尋ねた私に、人事部長は言った。

「あなたには失うものがないでしょう? それに、あなたを失っても、会社も失うものがないからです」

Nothing to lose...

ロンドン、ワルシャワ、ドバイと、1年ごとに転勤を繰り返しながら、私は異世界の虜になっていった。
世界は広い、というシンプルな事実に大きなショックを受けた。
26年生きてきた日本の狭さとセコさを、イヤというほど思い知った。
髪の色や肌の色が異なり、言葉や文化や教育の異なる人間と交流する楽しさに夢中になった。
グローバル化はすばらしいことだ、と無邪気に思った。

29歳で東京の本社に帰任した。
日本の同僚たちが子供に見えた。
私はこの人たちのはるか先へ行ってしまった、と感じた。
そういう勘違いをしがちな年頃だった。
グローバル化=国境がなくなる=世界がひとつになる。いつかそんな時代が来ると信じた。
戦争、貧困、差別がなくなる世の中を夢想した。

「世に生を得るは事を成すにあり」

坂本龍馬の言葉が常に私の胸にはあった。
私が成すべき事とは何だろう。

✅ ビジネスを通じて世界の平和に貢献する
✅ 世界中に友達をたくさんつくる
✅ 人と人の交流を増やすことで差別や偏見をなくす

死ぬほど好きだった人と結婚できなかったこと。
彼女が在日韓国人だからというだけの理由で。
それが私のトラウマになっていたかもしれない。

「日本人として生きる」それ以外の生きる道などない

32歳でドイツに転勤。ルクセンブルクに住む。
そこで私は天狗になっていた鼻をへし折られた。
ドイツの優秀な男たちと女たちに出会った。
ドイツ人の上司も、ドイツ語の教師も、私より英語が上手だった。
今思えば当然のことだが、日本の会社で英語力では誰にも負けないと勘違いしていた私には、ちょうど良い薬だった。

さらに衝撃だったのは、そんな優れたドイツ人たちでさえグローバル化の波に喘いでいたこと。
私の上にドイツ勢のミドルマネジメントがいて、そのさらに上にイギリス勢のトップマネジメントがいた。
流れるような英語で高圧的に振る舞うイギリス人らを前に、萎縮するドイツ人たちを見たとき、私が受けたショックは小さくなかった。

私は、世界の仕組みに気づいた。
この世界はアングロサクソンが支配している、という公然の事実。
英語を共通言語とし、ドルを基軸通貨とし、会計基準や法律を含むビジネスのルールを UK か US が決める。そんな不公平極まりない ”グローバル” 競争に、私たちは無理やり参加させられている。
これが “グローバル” の正体だった。

アングロサクソンによる支配を切り崩す妙手はないか。
世界経済における中国の存在感がまだ小さかった時代。
世界 2位の日本と世界 3位のドイツが組めば、USに対抗できる力があった。
しかし、日本人の私とドイツ人同僚は英語でコミュニケートしていた。
この皮肉もまたグローバル化の一面だった。

戦争に負けたから?
いや違う。本質はもっと前にある。
世界はなぜ英語に支配されてしまったのか。
BBC の力だ、と考えた。
正確には違うかもしれない。アメリカの放送局かもしれない。
いずれにしても、英語のラジオ・テレビが世界の電波を支配することによって、ビジネス、アカデミア、エンタメを含む世界のすべてが英語によって再構築されたのだ。

わかりやすい例が音楽だ。
私は中学のとき洋楽マニアだった。
UK のビジュアル系バンドに女子がキャーキャー言っていた 80年代。
中学生は気づかなかった疑問: なぜ人気バンドは英米系ばかりなのか
音楽はドイツ・オーストリアのお家芸のはずだ。
答えは簡単。英語で歌わなければ MTV に出られないから。
NENA というドイツのバンドがいた。
NENA が売れたのは、ヴォーカルが英語で歌うようになってからだ。

メディアを制する者は言語を制し、言語を制する者は世界を制す。
当時、新手のメディアになりつつあったインターネットは、もとはと言えば米国防総省が発明したものだった。またもや英語圏の仕業だ。
アングロサクソンは、戦争に強いのではなく、メディアと言語の威力に世界で最初に気づいていた者たちなのだ。

こんな策謀を戦略的に仕掛けてくる連中に勝てっこないと思った。

日本人の私は、逆立ちしたってネイティブスピーカーにはなれない。

「青目に負けたくない」と思い続けて 8年ほど必死に戦ってきた。
日本人という属性を邪魔に感じ、無国籍になろうとしていた。
ナニ人でもない、唯一無二のグローバリストを目指してきた。
なんという浅慮。なんという無知。

世界のカラクリに気づいてしまったとき豁然と芽生えたのは「私は日本人」というアイデンティティだった。

アンチ・グローバリストへの転向

35歳のとき、私の思想は 180度転向した。
グローバルなるものを礼賛してきた私が、一転して、反グローバル主義者になった。

きっかけは、ドイツのユニオンの集会に参加したときのことだった。
ドイツの労働組合は、会社ではなく業界単位の巨大な組織。会社単位では、ワークスカウンシルと呼ばれる労使共同の評議会がある。

私が働いていたドイツの会社(工場)は M&A によって巨大グローバル企業の傘下に入っていた。そうなると、ポーランドやルーマニアにある他の自社工場と競合関係になってしまうのだった。
東欧諸国が EU に加盟していないうちはよかったが、当時ポーランドはすでに EU 入りしており、ルーマニアも EU 入りを表明していた。
ドイツの工場がコスト競争力で東欧の工場に勝てるわけがない。

その日のワークスカウンシルでは、賃金カット推奨派と反対派の激論が繰り広げられた。

「工場が存続するためには賃金カットを呑むしかないだろう」
「俺たちは一生懸命働いてきた。なんで賃金が下げられるんだよ!」
「VW(フォルクスワーゲン)の工場でさえ賃金カットにサインしたんだ。もうヒトゴトじゃない。 俺たちもグローバル競争に晒されてるんだよ!」
「物価が上がって苦しくなってるのに給料減らされたら生活できねーよ!」
「工場を潰されるよりはマシだろーが!!」

同胞同士の、今にも殴り合いそうな罵り合い。
それまで幸せに暮らしていたドイツ人たちが、グローバル化によって生活を奪われていく。
この圧倒的な現実を目の当たりにしたとき、目が覚めた思いがした。
そしたら、今まで目を瞑ってきたことが、一気に見えてきた。
日本人の生活もどんどん苦しくなっている。
正社員が首を斬られ、会社側に都合のいい雇用形態にすり替わり、辛うじて残った社員も、成果主義や裁量労働の名のもとに社畜同然、過労死と隣り合わせでクタクタになっている。

すべてはグローバル競争に勝つため?
そんなバカな話があるか。
グローバル化が日本人に何のメリットももたらさず、悪いことだらけならば、日本人は断固それに反対すべきではないか。
なぜ反対しない? グローバル化=善と洗脳されているのか? 時代の趨勢とあきらめているのか?

無邪気にグローバル化を夢見た 10年前の私は、もうそこにいなかった。

“日本”よさらば

37歳のとき、2度目の日本帰任。
日本の会社の旧態依然ぶりは、予想を上回る醜悪さだった。
私はグローバリズムを卒業したうえでアンチ・グローバリズムに転向していたが、日本の会社員はグローバリズムの入り口にすら立っていなかった。

ヘレンというイギリス人が部長として、私と同じタイミングで赴任した。
部下としてヘレンをサポートできる日本人。それが、私をわざわざ日本に呼び戻した理由だった。
怒りも、笑うのも通り越して、ただただ呆れた。

仕事する気がなくなっていた。
私は久しぶりの日本で自由気ままに遊ぶことにした。
不幸で不憫な女に振り回された挙句フラれたのもこの時期だ。

ただ、ヘレンを支える私の意志は特別なものだった。
ドイツの会社で、私以外全員ドイツ人というチーム環境の中、同僚たちは私を家族のように扱ってくれた。
そんな体験をした直後に、ヘレン以外全員日本人という部署に放り込まれた私は、ドイツで受けた大恩を返す絶好の機会を得た気がしたのだ。
ヘレンを受け入れる組織づくりに全力を尽くした。
それは、ドメスティックな日本人組織を変える戦いだった。

結果、ヘレンと私は二人で孤立した。
言葉の壁も、異文化の壁も、私一人の力では壊せなかった。
敵だらけになって、傷だらけになって、疲れ果てた。

40歳という節目が近づいていた頃、いろんなことが立て続けに起こった。
父が他界した。
4つめのバツをつけた。
東日本大震災が起こった。
ある女が私の子を授かった。
MBA スクールを修了した。
ヘレンが辞めた。

年齢だけでないターニングポイントに立っていることをイヤでも意識した。
この先、日本の会社で働いていく絵がどうしても描けなかった。
久しぶりで束の間の東京ライフをゲップが出るほど満喫した。
30代という夏が終わり、季節は 40代という秋に移ろうとしていた。
もう十分遊び倒した。そろそろ、働こうか。

私が働く場所はここじゃない。
グローバル化問題で日本の会社員たちと戦うのはもう御免だ。
いろんなことが、無理なんだな、と悟った。
外国人を受け入れることも。
女性の部長を認めることも。
英語を話す努力をすることも。
多様性とともに生きることも。

会社を辞めよう。
ヘレンについて行こう。
行き先はスイス、ジュネーブだ。

「私は日本人」世界も日本も関係なく

結論が見えてきました。
15年を振り返るこの記事を書かせてくれた、うさぎのしっぽさんに感謝します。今回は不覚にも泣かされそうになりましたが、普段は私を腹の底から笑かしてくれる noterさんです。

グローバル化については、もうおわかりでしょう。
幻想、あるいは洗脳だったのです。
世界はひとつになりません。
いつかはなるかもしれませんが、遠い未来でしょうし、その前に地球の寿命を心配したほうがいいと思います。

日本という国家の寿命について。
世界でも圧倒的に最長の皇統を存続している国です。2600年でしたっけ。
そんな国がそうそう死ぬわけありません。そういう、とてつもない国だということです。

ただし、国力の推移は別の話です。
世界の歴史を見れば明らかですが、あらゆる国にはライフサイクルがあります。黎明期、成長期、成熟期、衰退期のような。
多くの国にはピークがあります。そして、ピークは長くは続きません。
マケドニア、ローマ、モンゴル、トルコ、オーストリア、オランダ、スペイン、イギリス、ドイツ、アメリカ・・・かつての大国も今はみんな普通国でしょ?(一部例外もありますが)

日本国のピークは 1980~1990年代でしょうか。
現在は、かつての大国モードから普通国モードへの移行期です。
人口減少、GDP マイナス成長、国際競争力が云々などは悲観することではありません。順調に普通国への道を歩んでいると考えればいいのです。
そもそも、そういった統計データは国民の生活に何の影響も与えません。

「私は日本人」というアイデンティティについて。
アイデンティティの源は多様です。
例えば、香港人のアイデンティティは、中華人民共和国という国家ではなく、漢民族というルーツでもなく、香港独自のカルチャーにあります。

ドイツは現在「ドイツ連邦共和国」と称していますが、もともと "ドイツ" なんて国はありません。前身はプロイセンだし、その前は神聖ローマ帝国です。初めてドイツ人の統一国家が成立した 19世紀後半、ドイツ人の定義は “ドイツ語を話す人” だったそうです。
つまり、ドイツ人のアイデンティティは言語にあるのです。

アメリカ人のアイデンティティはイデオロギーにあります。
アラブ人やユダヤ人のそれは民族や宗教でしょう。

日本人はどうでしょうか。
国籍、民族、言語、文化、宗教。
どれもあてはまると思いませんか?
日本人ほどアイデンティティの一貫性・完全性が高い国民は、他にないでしょう。
「私は日本人」というアイデンティティは、他のナニ人と比べても強力なのです。

アイデンティティがないと生きていけないのが人間です。
ある意味で人間にとって最も重要な拠り所を、豊富に装備している日本人は幸運だと言えます。
これを大切にしない手はありません。

私は、力強いアイデンティティを与えてくれた日本に感謝しています。
ただ、国は人の集合かもしれませんが、人そのものではないので、「愛国」という言葉はあまりしっくりきません。
日本が大国であってほしいとも思いません。存続してくれることが重要です。(むしろ、古今東西、大国にロクな国はないことに留意すべきです)

日本が世界から「かっこいい」と評価されたり、憧れや尊敬の対象になることは、悪い気はしませんが、自分の功績ではないのでそれほどうれしくもありません。
日本とは程よい距離を保ち、歴史のページをめくるような目線で見ていきます。

世界のどこにいても、私は日本人として生きていきます。
私の考える日本人の美徳に従って生きるということです。
べつに、世界の日本に対する評価を高めるためではなく。
私自身が日本人の美徳に誇りを持っているので、それに従って行動することが自分にとって最も気持ちがいいのです。
その結果として、世界の多くの人たちが “日本人” を好きになってくれたら、やっぱり悪い気はしませんけどね。