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子どもの感性をバカにするな

子どもの感性は脆弱なのか否か

 こんな記事が出てまして、読んだ上で、現在進行形で子どもと共に生活をしているぼくが感じている内容を書きます。

 上のリンク記事は、絵本・児童書にいわゆる"萌え絵"を使用するのは児童文学的にいかがなものであろう、と否定的に捉えられている文脈や、使用される萌え絵についても「性的なコンテンツ」であり、つまりは子どもたちに対して悪影響を与えるのではないか、なんてちょっと乱暴な議論に対して「子どもたちの感性をどれほど脆弱に考えてるんですか?」と疑義を呈すもの。

子どもの感性は矛盾的で統一的

 子どもと共に生活をしはじめてから5年が経過し、早くも6年目に入ろうかとしている我が家ですが、随分と乱暴な表現をしているのは納得の上で言うならば、子どもの感性は鋭敏ながら鈍重で、縦横無尽でありながら猪突猛進なんてまとまりのない気持ちを抱いてます。

 我が家では3名の子どもたちと生活を共にできているのですが、彼らは生まれ持った性格をはじめ、同様の環境ながらも、行動や言動、態度や姿勢などは別個に育まれており、容姿こそ似てるところもありますが、根本的には別の個体として成長しています。

 また「全くの別人格として成長していく」なんて当然でありながらも忘れがちな認識を、ぼくたち夫婦は期待を抱きつつ、それぞれに特徴を持って成長してくれるのを願っています。

 普段、彼らと会話をする機会は、起床してから保育園に登園するまでの時間と、帰宅してから寝るまでの時間の数時間しかありませんが、毎日の中で過ごしている中での感情が揺さぶられた内容や、他人からの発言や行動によって何を感じたのかを聞いていると、ぼくたち夫婦が舌を巻くような表現をしてくる時が一度や二度ではありません。

 しかも、長男は長男なりの、次男は次男なりの、決して多くはない語彙の中から言葉を紡ぎ、それをぼくや妻、時には次男や三男に対し、きちんと伝達できるような表現を選びながら疎通を図ろうとしてきます。

 その表現を受け止めていると、いろんな物事を自分なりに必死に咀嚼しようとする様子がわかりますし、けれど軸となる根幹的な思考は崩さないような頑固さも持ち合わせており、拡散的でありながら集約的にも思考されているのに畏怖すら覚えます。同時に、見習わなければいつだって置いてけぼりを食らうのだろうなぁ、と恐怖感すら覚えます。

子どもとはいえ、人格を有し思考できる存在

 おそらく、ぼくだけでなく、子どもと生活をしていたり、していなくとも幼児や児童、少年や青年たちと関わる職業に就かれている方であれば、共感していただける内容なのではないでしょうか。

 彼らを子ども扱いすれば子どもらしく接してきますが、一人の個人として接すれば立派な個人として意見を述べられますし、思考した結果として考えを述べられる人格を有しています。

 もちろん、感情が優先的になったり、その感情の赴くままに行動をしてしまう時が多いのは確かに多いのですが、それは別に多いか少ないかの違いであって、いわゆる大人にだって見られるものです。

 確かに感情的な制御はしづらいかもしれませんし、するのが難しい状況の時もあるかもしれませんが、彼らも立派な人格保持者であり、人間であるのだと認めないと、彼らの成長を見誤る結果になるのではないか、なんてぼくは考えます。

 いつまでも「子ども」だと体格だけで物事を判断し、ついついマウントしてしまっていては、相互に信頼関係など築けるはずもありませんし、信頼関係だと思っているのが、実は依存関係だったなんて恐ろしい事態にもなりかねません

 信頼関係は、子どもを信頼し、許容し、思考し続けるのを繰り返していくからこそ築かれるものだ、とぼくは共に生活をするようになってから痛感していますし、今後も試行錯誤は繰り返されていくでしょう。

 同時に、その時間が限られていると実感してもいますので、どう工面してくのかが課題でもあります。

転んだ経験のない子どもにしたいのか

要は、子どもの感性に対して信頼感を持っている人間として、子どもの感性をまるで信頼していないように思える文言に対して、どうにも気持ち悪い感触を受けてしまうのです。

 これは、上の記事リンク内で触れられているように、子どもに対して自分が望む・望まないコンテンツを選び、摂取してもらっていけば、自らが望むような成長をしてくれるのではないか、と考えて行動を起こしている大人たちの行動を見た著者の文言を引用したものです。

 今回で言えば、性的なコンテンツ、つまり性的な情報を「悪いコンテンツ(情報)」とし、自分が悪いと思う情報は子どもに見せたくない、見せると子どもがその情報に染まってしまうのを恐れているのではないか、とし、それって「子どもの感性」を「信頼してない」よねって言うんですね。

 これって、子どもができるだけ転ばないようにって配慮しすぎる大人の姿勢そのものだな、とぼくなんかは思うわけです。

 「自分がいる環境」で子どもが転ばないように配慮したところで、「自分がいない環境」で転んだ際に大けがにつながってしまう危険性を高めている可能性を否定できません。だって、転んだ経験がなければ「どう転んでいいのか」わからないのですから。

 自分の目の届く範囲、自分の知っている範囲、わかる範囲のものしか子どもに触れさせなければ、把握できる範疇だから注意も指摘もできるかもしれません。

 しかし、それは本当に子どものためなのか子どもを信頼しているのか。再考する必要があるのではないでしょうか。

 程度はありますし、あまりにもバランスの崩れた情報や内容に対して傾向しようものなら、注意や指摘も必要でしょう。

 けど、そんな風に自由度を高めた上で、バランス感覚を身につける努力を繰り返してないといけませんから、自分の感性を磨くのも忘れてはなりません。

 古臭い認識や常識といった誰が決めたのかもわからない「普通」ってのを、子どもに押し付けるほどダサく、かっこ悪いものはありませんよね。

 もっと子どもの感性を信頼してあげましょう。


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