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【続々】フリースクールが「国の根幹を揺るがすことになる」発言の首長がいるって聞いた

どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。

3回目になってしまいました。自分でも「書くネタがこれぐらいしかないんだろうな」と辟易としてきているものの、書かずにはいられないので書かせていただきます。もし、過去回にも興味を持っていただける方がいるのなら、お読みいただけるようリンクを貼っておきますね。

こちらの件、フリースクール当事者の方々からは当然のように非難をされています。当然のことだろうと思いますが、この「当然だろう」と考えてしまう思考とは何なのか、を書いてみようと思います。

ちなみに、署名はオンライン上で手続きが可能です。ちなみにぼくも署名をした内の一人です。

なぜ東近江市長を否定したくなるのか

まず、小椋東近江市長が述べた発言を思い出してみます。

「文部科学省がフリースクールの存在を認めたことにがく然としている。よかれと思ってやることが国家の根幹を崩しかねない」(滋賀県の首長会議で)

「不登校の大半は親の責任だ」(会議後)

こういった発言をされたわけですが、こういった認識を持っている方々がいるのは理解していますし、不登校当事者になるとこういった方々に対峙する機会が一度や二度だけではありませんので慣れたものだったりしますので、感情的になるようなことは、実のところそう多くはありません。

感情的になるわけではないものの、彼の発言自体は認めたくありませんし、認められるものでもないでしょう。なぜなら、日本は「教育機会確保法」を2016年に制定しており、これによって児童生徒はいかなる理由を持ってしても学びの権利を守るための義務を大人たちが果たそうとするために法律という後ろ盾を整備しているからです。

NHKの取材に対し、小椋市長は以下のように述べています。

小椋市長は、NHKの取材に対し「国が十分な議論をせずにフリースクールへの支援を進めようとしているため、議論できるように問題提起として発言した」と説明しました。

そのうえで「アグレッシブに言い過ぎたのは認める。舌足らずの部分があったがフリースクールや、そこに通わせる保護者を否定したわけではない」と釈明しました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231019/k10014230301000.html

この「議論できるように問題提起として発言した」とする点、明らかにとってつけたような言い分だと言わざるを得ません。

まぁ、結果として東近江市は脚光を浴びることになったわけですから、炎上手法としては成功しているわけですし、その点において狙っていたのだとしたらやり手だと認めなければいけませんが、橋下徹さんや石丸市長(安芸高田市)のような意図をもってメディアを利用しようとするような方ではないことは上の「問題提起」と述べているところから察するに期待できなそうです。

結局、大きく話題になってしまった後に「問題提起」だと発信すれば「意図をもっていたのだと理解される」と認識しているところに残念さが滲み出ているから否定したくなるのだろうと理解しました。

なぜ憤慨することを当然だと認識するのか

小椋市長を否定したくなることは分かりましたが、彼に対して憤慨する人たちの感情も考えてみます。

ぼくも当事者ですから怒りの感情がないのかとDMをいただいたりしたのですが、怒りの感情は湧いて来ないんですよね。

なぜかというと、こういう人がいることを知っているからです。残念だとは思います。仮にも首長ですから、11万人の市民を代表して立つ存在が少数派を否定するような意見を述べてしまうことは喜ばしいものではありません。

繰り返しとなりますが、当事者になってみると"そういう人"がいることを嫌というほど認知しますし、対峙する機会が何度もあります。その度に、怒りや悲しみとは違う思考が湧いてきます。それは「諦め」です。

この発言に憤慨をする自己の同一性を否定されてしまうような感情を抱いてしまうことからくる反発心なのであろうことは理解できます。しかも、それが自分が住み暮らしている自治体の首長ともなれば署名を集めようとする動機としては十分でしょう。

自分が自分たらしめる前提条件を否定されたり、前提条件が揃わないように行動してくる人たちを「仲間」だと認められないのは理解できますし、その執行権をもっているような立場の人間がそうであった際の絶望を想像するに決して安穏とできるものではありません。

首長も聖人君子ではなく人間だってことは理解できるまでも、少数派と否定していい人材なのかというと違います。

今回の市長が発した言葉は、いくら本人が「否定したわけではない」としたところで、すでにあらゆるメディアを通して伝搬されている状況の中、火に油を注ぐだけです。

なぜなら、当事者の同一性、その人がその人と確信をもって認識するための土台を蹴飛ばしたわけですから。

なぜ自分の意見が正しいと考えてしまうのか

ここまで書いてきて、また、連続して3回もこの話題を取り扱う中で常に抱いているのが「自分の意見は正しいのか」ってことです。

何度も申し訳ないのですが、小椋市長のように考える人がいることは理解できますし、そういう人たちから感情を逆撫でされるような機会は決して少なくないものの、別に何の感情も抱かないのです。

「また蚊が耳元で不快な音を出してるな」ぐらいで、大した問題だとも思っていません。

ただ、どうしてその人たちを否定するような態度や物言いをするのかってことは考える必要があります。

不登校児童の当事者として、また、フリースクールを利用する児童の保護者として考えるのは、当該児童のことを真剣に考え、何をできるのか、どうしたらいいのかを常に模索している中で、それが正解なのかもわからなければ、正解なんてものがあるかどうかもわからないって不安を抱えながらも選択した一つを否定されることは、目の前にいる子どもを否定されていると考えてしまうからかもしれません。

ぼくの隣に座って学習をする長男くんを否定するような人間が出てきたら、全力で叩きつぶしに行こうと思いますし、それこそが彼に対してできる唯一のことであると認識しているからです。

それが根底にあるからこそ、ぼくは自分の意見が正しいと考えるのでしょう。

道理的に、倫理的に、道徳的に、とか色々とありますが、そういうことではなく、彼に対して胸を張った行動や言動ができているのかって点において。

おわりに

話の筋としては、決して悪くはないなって思いながらここに至ったのですが、いかんせん、一筆書きでここまできているので誤字や脱字があるのですよ。

まぁ、それもいいか!なんて具合に毎日書いてるので、もし、興味がある方がいればマガジン登録でもしてください。

ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)


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