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#えんどうnote 『今日も誰かが読んでくれる』 #419日目

何か失敗が起こるたびに、自分以外の人間がどのように振る舞うのか、他人に対しての発言や接し方を含め、どんな態度が表出するのかを観察したくなってしまう。

先日と言わず、日々、生活をする中で、自分以外の人間が自分に対しての態度振る舞いを見たときに、圧倒的なまでの疑問が生じるような接し方をされる機会は一度や二度で終わることなく、度々振りかざされる。

えらく冷たい物言いであったり、何を言っているのかさっぱり理解できない言い方や表現の仕方だったり。

これまでは「自分の偏差値が低いから」とか「自分の頭の回転が遅いから」とか、割と自分のせいだと思ってきたのだけれど、子どもとの生活を始めてから一変し、明らかにそのように振る舞う人間の性質だと気づいた。

別に僕が他人と比較して高尚な人間であるつもりは一切ないのだけれど、そんな風に感情が波風を立てるような状況になっている時ほど、その人がどんな風に考えているのか本性みたいなものが垣間見れると思ってる。

仕事での人間関係や、プライベートな家族関係など、僕と関係する人たちはもれなくその対象になる。

これは別に嫌なやつアピールをしたくて言っているのではなく、僕の趣味や嗜好みたいなもので、僕が生きる上での防衛本能みたいなものだと理解してもらえると助かる。

例えば、このnoteでも頻繁に登場してもらっている我が家の長男や妻に関しても、もれなく対象に入っているからこそ、僕がここで文章として出させてもらっているのであって、普段から彼らに対して感情が揺れ動く機会がなければそれらを書こうとは一切思わない。

inputをされるけれど、outputするかどうかの判断はどのように行われるのかを考えてみると、明らかに「感情」の揺れ動きがあるのかないのかによるのがわかる。

僕に接する機会のある人たちはもれなく観察の対象であると述べたものの、それを咀嚼し、僕が解釈を加えて事例として紹介するかどうかについても、僕自身の感情が揺れ動くような人物であるのか、内容や出来事であったのかどうかによって、outputをしたくなるのかどうかが変わる。

言い換えれば、するだけの価値を自分の中で見いだせるのかどうか、だ。

僕みたいな雑記系ブログとしてnoteを書いている人間に大した影響力はないけれど、それを読んでくださる人は少なからずいらっしゃって、その少なからず読んでくださる人たちには、何かしらの影響や行動に対してのエッセンスを加えるような機会になっているかもしれない。

 そのような機会になれば嬉しいなぁ、と常に思いながら書いてはいるものの、「どうせ」みたいなヤサグレた気持ちにならないこともないし、なんで書いてるのだろう、なんて考える機会だってしこたまある。

読んでくれる誰かのために注意喚起になるのかもしれないし、備忘録になるのかもしれない。誰かがふとした瞬間の行動を選択する指針になる機会もあるかもしれないし、それは気づきを与えることにもなるかもしれない。

とにかく、このnoteは中学生だった僕に向けて書いていることが多く、僕は過去記事にも書いているけれど、短期間とはいえ学校にいけない時期があった。いわゆる不登校だが、その時の僕が読むとしたら、どんな風に書けばいいのかを考えながら書くことが多い。

もちろん読んでもらえたら嬉しいなぁ、と思う対象はもっと大人になるのだけれど、中学1年生当時の僕が読んだとしても、それなりに理解できるような文章だったり、構成になるよう気をつけているつもりだ。

けど、今日もこうやって書いたものを誰かが読んでくれている。

それは日々、数字を見ていると理解できる。決して多くはないのだけれど、確かに読んでいただけているのを分かっているし、それがわかるたびに嬉しくなる。

改めて。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。


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