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チェス・プレーヤーとしてのハイジャック犯(ルシアン・ネイハム『シャドー81』レヴュー)

 ベトナム戦争終結間近のホアビン上空で、爆撃作戦決行中の戦闘機が消息を絶つ。4機で編成されたバンパイアと呼ばれる編隊のうち、グラント・フィールディング空軍大尉が搭乗する1機が姿をくらましてしまったのだ。「向こうで一機失ったらしいです」という同僚パイロットの報告を受けて、空軍幹部は色めき立つ。なぜならバンパイア編隊が操る戦闘機は、その性能が極秘にされていたTX75Eの最新型であったからだ。この「万能で効率もいい垂直離陸型戦闘爆撃機」は航続時間10時間を誇り、他国の実用型戦闘爆撃機の最も優れたものでさえ5時間に満たないという状況下にあっては、その恐るべき性能は是が非でも秘密にしておかなければならなかった。空軍による必死の捜索にもかかわらず戦闘機は見つからずグラントも行方不明のままであった。「グラント・フィールディングは統計的数字の一つになってしまった」。

 ほぼ同じころ、香港の造船所に謎めいたミステリ作家が現れ、廃品同然のおんぼろ船を18万ドルもの大金で買い取り、特殊なカスマタイズを要求する。さらにはこのミステリ作家は、別の店で陰毛つきのマネキン人形を6体を購入し、店主を戸惑わせる。じつは謎のミステリ作家の正体はグラントであり、彼は風変わりな金持ちの船上バカンスを偽装しつつ、船倉に戦闘機を積んで太平洋上をアメリカ西海岸へと横断するのだ。ルシアン・ネイハムの『シャドー81』では、おおよそここまでのあらましが第一部(第1~6章)で描かれ、読者は物語の不思議な展開に目を奪われることになる。

 物語が本格的に動き出すのは第2部(第10~20章)からで、西海岸上空、ロサンゼルス国際空港、ホワイトハウスを主な舞台として、スリルとサスペンスに満ちた物語が繰り広げられる。アメリカ合衆国大統領の座を狙うワズワース上院議員を含む乗客187名乗員14名を乗せた747ジャンボ旅客機が13時18分ロサンゼルス空港離陸後、機長のバートン・ハドレーは装着したヘッドホンに奇妙な通信を受け取る。「PGA81便、貴旅客機はただいま乗っ取られたことを通告する」。

 こうして前代未聞のハイジャック事件が開幕する。747ジャンボ旅客機の後方に最新型戦闘機がぴたりと追尾する形(だからシャドー81)でミサイルの照準を合わせて身代金を要求するのである。このようなあまりに斬新な犯罪スタイルは、本作の翻訳が刊行された1977年当時、日本の読書会の話題をさらった。

 「今後この種のものでこれ以上の傑作が出るとは思えない」(筒井康隆)
 「ハイジャックものの傑作。スケール、スリル、サスペンスすべて申し分なし」(結城昌治)
 「奇想天外の着想。ベトナム戦争をパロディ化したヤンキーのたくましさ。圧倒的面白さは文句なく本年ナンバー1」(伴野朗)

 と、名のある目利きをうならせ、この年から始まった≪週刊文春≫の「ミステリーベスト10」においても晴れある第1位を獲得したのであった。

 本作はジャンル的には冒険活劇小説に分類されるだろうが、エンターテインメントとしての興奮のみならず、一種の全体小説としても楽しむことができるのではなかろうか。大人の鑑賞に堪えうる全体小説の構築は、やはり、作者ルシアン・ネイハムのジャーナリストとしてのキャリアに拠るところが大きい。ネイハムは小説を書く前に、16歳の時からフリーの新聞記者として記事を書き始め、AFPニューヨーク支局でも長く勤めていたという(そのような経歴は、本作において、≪ロサンゼルス・タイムズ≫の記者たちの活動ぶりに反映している)。ネイハムのジャーナリストとしての眼は、事件の全体図を俯瞰し、あたかも地図を描くかのように緻密な筆さばきで見事に物語ってゆく。本作カバーに記された登場人物だけでも25名に上るが、それを上回る人間たちが、飛行機内、管制塔、新聞社やラジオ局、ホワイトハウス、ロサンゼルスの街と複数の場所およびそこで行動する人間たちの姿が生き生きと描きだされてゆくのである。そうした人間群像の面白さ(特に敵対する政治家同士の駆け引き)と練りに練られた犯人たち(実は複数犯である)の犯行シナリオが相まって、本作は冒険活劇小説以上に知的ゲームの娯楽作品として読む者を興奮させる。まるで優れたチェス・プレーヤーの戦いぶりに酔わされているかのような錯覚に陥るのだ。じっさい本作では「チェス」という言葉が要所要所で発せられる。

 今日帰ったらチェスを指そうと話してたんですがね……やつときたら十五手も先を読むんですからね(86ページ)
 退屈してきたので、磁石式チェス・セットと有名な競技記録を集めた本を引っぱりだした。(118ページ)
 こいつらはチェス選手みたいなものだ……次の手が予測できない(339ページ)
 グラントは捕虜たるものの鑑となり、他の捕虜の士気をふるい立たせた。またチェスの地区チャンピオンとなった。(464ページ)

『シャドー81』

 このように本作ではハイジャック事件ならびに犯人が「チェス」の喩えで語られるのである。本作の犯罪および犯罪者は、90年代以降一世を風靡したサイコ・スリラーのような陰惨な犯罪者(例えばレクター博士)の暗さをこれっぽっちも身に纏っていないのである。あくまでも類稀なる才能で周囲を魅了してやまないチェス・プレーヤーの爽やかさを発散させている。その明朗な爽やかさに感染し、アメリカ大統領すらも次のような言葉をつい洩らしてしまう。

ホフマン、わたしはこの男が気に入ったよ。ワズワースの正体を見抜いている。度胸があるし、おとなしく引き退がっていない。このような無謀な道を選んだのはいかにも無念だよ。おっと、大統領の身でありながら、乗っ取り犯に共感するとは……矛盾した話だな?しかし、彼を追いつめようとやっきになっている誰よりも切れるやつだ。こういう頭の持ち主がここにもほしいもんだ(314ページ)

『シャドー81』

 このような場面や犯人像は多発テロ事件以降はアメリカではおそらく描けないだろう。やはり本作が発表された1975年という状況によるところが大きいと思う。逆に75年以前だったらアメリカン・ニューシネマのアンチ・ヒーローの薄暗さを身に纏って主人公はずぶずぶの悲劇に閉じ込められていただろう。アメリカン・ニューシネマの翳のようなものを感じないわけでもないが、本作はやはり1975年以降の世界感覚に属する作品である。その世界感覚とはすべてをゲームのようなものと見なす軽さの美徳とでも呼ぶようなものである。

 1975年前後というのはアメリカン・ニューシネマとは異なるタイプの映画が登場する時期である。1973年には『アメリカン・グラフィティ』が登場し、1977年には『スター・ウォーズ』が登場する。ともにジョージ・ルーカスの監督作品だが、それらの作品に室井尚はフレデリック・ジェイムソンを引きつつゾンビ的世界の到来を見出している。

ジェームソンはこのジャンルを伝統的な歴史映画とは区別して考える。たとえば、かれによれば「スター・ウォーズ」もまたノスタルジア映画なのだ。これが歴史映画でないことは明白である。だが、一方で「スター・ウォーズ」は三〇年代から五〇年代にかけて人気のあった「バック・ロジャース」のような連続番組のスタイルのパスティッシュであり、その経験を再現したいというノスタルジックな願望の表れなのだ。
(略)
すでに、ぼくたちはこうした社会のモードがパスティッシュという形で表れているということを見てきた。だが、ぼくたち自体がいまやさまざまなコンテクスト、さまざまな物語のパスティッシュなのだ。それは墓地という固有の場所から引き剥がされて、地上をさまよい歩くゾンビにも似ているかもしれない。 

「ゾンビのように」室井尚

 室井尚はアメリカ全土を占領しつつある「場所の喪失、意味づけの喪失、そして物語の喪失」をゾンビ状況と定義したのだが、1975年あたりがそのような「終わりの始まり」であったかもしれない。1975年はベトナム戦争終結の年であり、ネイハムの『シャドー81』はベトナム戦争という歴史の重みを引きずりつつもそのような歴史から解放されたがってもいる。ネイハムはハイジャックという重大事件を一人の死者も出さない軽やかな知的ゲームに変換することに成功している。

 蛇足じみた理屈っぽいことをこねてしまったが、本作は奇想天外なアイデアを、熟練のジャーナリストとしての手腕と自身パイロットでもある航空知識を駆使しながら肉づけされた厚みのあるエンターテインメントであり、読んで損はない一冊である。



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