見出し画像

「キチガイ」の正体

「とうの昔に、孔子や仏陀やキリストが説いたとおり・・・」
 と、トルストイは憤る。
「我々は動物ではない。理性的な生き物なのだ。幸福のために、道徳的な生き方をするべきなのだ」

 昔の人々に、このキリストや仏陀やトルストイの一喝は、伝わったんだろうか。
「あなたが盗むのと同様、他の誰かがあなたから盗むので、そんな人間で構成された社会は生きづらいですよ」ということが理解できない人はいくらでもいただろう。いくら正論を諭されても「でもやっぱり、誰もが盗んでいる中で自分だけ盗まないのは損」と言い続けるのである。
 正しい知識を与えられたときに、生き方を変えられる人と、変えられない人がいるのはなぜだろう。貧しさのせいか。教育が行き渡らなかったためなのか。ならば文化的な進化を遂げ生活水準の上がった現代では、道徳的な生き方をする人間が増えたのだろうか。

 そんなことはないーー。

 彼らの時代から時を経た今も、真理を理解しない人々の言い分は同じである。あるいは頭デッカチになったぶん、気に入らないことに対しては「はい、論破!」という自分を慰めるための魔法の言葉も持っているし、もしかしたら昔の人よりも現代人のほうがずっと無知をこじらせてしまっているのかも知れない。
「宗教とか道徳とか言ってるやつは無能。負け組の泣き言だよ」
「宮沢賢治はどうも抹香臭い。あの抹香臭さがなけりゃ、もうちょっと才能も認められたかもね」
「あー、トルストイの人生論ね。あれ、どう考えても矛盾あるよなー」

 もし本当に「考えた」なら分かるはずだ。

 例えばニュートン物理学が相対論に取って代わられたからといって、ニュートンがあなたより頭が悪いということにはならないのは明白だし、あなたが子供の頃に使用していた教科書の内容に落ち度が発見されたとて、聖書の中に誤字脱字があったとて、アナウンサーがあなたの住む地域の地名を読み間違えたとて、ファミレスの店員があなたの注文を聞き間違えたとて、災害やパンデミックであなたの計画が狂わされたとて、ひとつも、あなたが欲望のままに振る舞うことの言い訳にはならないし、どこにも、我々が道徳的な生き方をしなくてよい理由などないではないか、人類よ。

 数年前、ニュース映像でも観たことのないような危険運転に遭遇したことがある。
「あおり運転」という言葉がちらほら言われ始めた頃で、ドライブレコーダーなどはまだ誰も付けていなかった。
 朝の出勤渋滞(田舎なのでさほどではないが)の列を、一台の軽自動車がクラクションをギャン鳴らしで、アクション映画かと思うほどの危険運転で追い越し、追い越し、一度、右折レーンへ行ってくれたと思いきや、なんとそれも追い越しのためだったと見えて、またもや信号を無視しながらの直線レーンへの割り込み、相変わらずのクラクション、追い越し、追い越し、追い越しと、生きた心地のしない数分間であった。

 とんでもない「キチガイ」が登場すると、周囲は静まり返るものなんだなあ、と思った。誰もが「巻き込まれないぞ、死なないぞ!」の一心のみで、挑発されてクラクションを鳴らし返す車など一台もいなかったのである。

 いつの時代も、どこであっても、悪人はいる。しかしその悪人の正体とは、いったいどんなものなのだろうーー。

 危険運転の車が遠ざかって行き、ホッと胸をなでおろしたのも束の間、しばらくするとかの軽自動車が、もう一台の車とともに路肩に駐車しているのが見えた。誰かがキチガイに絡まれてしまったのだろうか、一触即発か、助けは必要そうか、など再び周囲に緊張が走る。私も通り過ぎるときにちらりと見たが、軽自動車から降りてきたのはなんと、にこにこと愛想笑いをする女性であった。もう一台の車から降りてきた男性に何かを手渡しているーー。

 ーーつまりだ。おそらく男性は何か重要な忘れ物(スマホとか財布とか。まさか弁当ではあるまい)をしたのだろう。愛する人の忘れ物に気づいた女性はそれを届けるべく、家からクラクションをギャン鳴らしで、交通ルールもすべて無視し、無差別殺人のごとく危険な運転で駆けつけ、彼氏だか夫だか息子だか不倫相手だか知らないが、とにかく彼女は彼のために「がんばった」のである。
 
 これが「キチガイ」の正体だーー。

 理性や道徳を、人類が生きてゆくために身に付けていなければならない当たり前の最低限の技であると心得ず、バカにしたり嫌悪したり怖がったり、あるいは逆に(大概の人がこれであろうが)褒め称えたり美化したりして表面だけを装っているために、いざ「夫が免許証を忘れた。検問に引っかかるかも」とか、「今月の営業成績が悪かった。不正でもしないとトップの座を守れない」とか、「好きな子が他の男と楽しそうに話している。なんとかしなければ」とか、「結局、不正がバレちゃった。どうしよう、死んでくれないかな」とか、そのように条件が整えば軽々と悪事をやってのけるのである。欲から自分の身を守る能力がないのである。
 それこそが本当の無能というもので、いつの時代にあってもどんな環境においても、欲を理性に従わせることの未だ出来ない者は、自分で自分の首を絞め上げながら他人に苦しいと訴えるような、混乱した人生を送らなければならない。

 もしもトルストイが現代に「復活」するならば、彼はこう言わずにはいられないだろう。
「我々は動物ではない。もはや動物以下である。危機感を持って、道徳的な生き方をするべきだ」ーーと。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?