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そろそろ「差別」という言葉の範囲について議論しよう

黒人俳優がロードオブザリングのエルフ役に起用されたことが話題だ。

私の個人的な意見としては、黒人が演じようが白人が演じようが、原作の持ち味がちゃんと表現されており、作品としての価値が高くなるのであればそれはかまわないと思う。

しかし、黒人が演じたことを批判する人々に「レイシスト」のレッテルを貼ったり、原作の肌の色の設定に忠実な配役を行うことをもって「差別」と論じるのは、行き過ぎであろう。

ぽゆぽゆ氏の定義では、肌の色によってなんらかの「機会損失」が発生することをもって、差別とみなしているようである。

だが、それを言うならば、背が高く、スタイルの良い人がモデルとして採用されやすいことは「差別」だろうか?

計算が得意で、記憶力の優れた人が、医者や弁護士といった仕事に就きやすくなることは「差別」だろうか?

音感やセンスに優れた人がミュージシャンになったり、舌の感覚が鋭敏な人がソムリエになることは「差別」だろうか?

肌が白い人が、肌の白いことを生かして、肌の白い登場人物を演じることと、それらはどのように異なるのだろうか?

少なくとも、生まれながらの要素によって、機会損失が発生しているという点では同じであり、逆に言えば、なぜ肌の色による機会損失だけがそんなにも手厚く保障されなければならないのだろうか?

これは例えば、肌の黒い人物を医者として信用しないとか、隣人を肌の色で排除したりするといった行為とは、似ているようではあっても、異なったものだ。

もっと言おう。

あなたが顔が美しく、背が高く、人柄が高潔で、頼りがいのある異性をパートナーとして選好するとき、あなたは顔の美しさや、背の高さや、人柄や、甲斐性で異性を「差別」したことになるのだろうか。

私たちが好ましい異性を見て、恍惚となる慕情や恋愛は、すべて「差別」の名のもとに断罪されるべきことになるのだろうか?

誰かを選ぶということは、常に選ばれなかった誰かに「機会損失」を与えるということなのであって、それらを全て差別と呼ぶのであれば、私たちは息をするようにして差別をしながら暮らしていることになる。

結婚だって、某宗教のように、くじ引きかなにかでパートナーを決めなければ差別だという話になってしまうだろう。

そこまで行けば、反差別という名のカルトにほかならない。

反差別運動として、本邦でかつて盛り上がったのがkutoo運動だった。

石川氏のkutoo運動も、例えば、職場でパンプスやハイヒールを強制されないよう、意識改革を求めているうちは、広く支持を得られる可能性のある運動だった。

ハイヒールそのものを野蛮と断ずる上野千鶴子氏を批判する石川氏

ところが、その有り様はだんだん過激になっていき、kutoo本には、靴ばかりではなく、化粧も差別だ、と反コル運動的な色彩をおびていく。

「これフェミ」当日も、石川氏は「女性が化粧をさせられること」について、女性だけが男性にない費用や不利さを負っているから差別だ、という論調だった。

もちろん、意味もなく強要・強制したり、無関係な属性によって誰かの優劣を判断するのは差別だろう。

だが、不均等や機会損失の全てを「なくす」ことまで求め始めれば、世界の全てが差別となってしまう。それは結局、差別を不可視化していることと同じだ。

女性がヒールや化粧をしない自由はあってもよいが、ヒールや化粧をする自由もあっていい。

そして、美しく化粧をして、ヒールを履いてすらりと素晴らしいスタイルを見せる女性に好意を抱く人がいてもいい。

結果としてそのような人が多数であり、かつ、多くの人に好意を抱かれたほうが女性にとって生きやすいと感じるならば、「女性がヒールや化粧をする」という慣習は維持されるだろう。

それは「差別」ではない。

今、問題になっているトールキンにしても同じことだ。

白い肌の美しいエルフがトールキンの物語にとって不可欠だと、多くの人が感じるのであれば、黒人俳優が演じることは批判されるだろうし、それは差別でも何でもない。

肌の色で奴隷的境遇に落とされたり、法的な自由を制限するのは差別だ。

肌の色で知性や品位の有無を判断したり、その人の言葉や能力に対して予断をもって接するならば、それもやはり差別だと言えよう。

だがそれは、肌の色の差異をなかったことにせよ、という倫理的命令を意味しないのだ。

差別のない世界というのは、差異のない世界とは異なる。

差別や偏見のない社会というのは、それぞれの「差異」が尊重され、共存できる社会のことなのであって、属性そのものが与える感覚や感情が無化された状態のことではない。

多様な属性を持った人に対して、私たちは様々な感情を抱いて良い。それこそがまさに多様性のある社会というものだ。

ヒールや化粧をしている人と、していない人の両方から受ける「感じ方」を等価にせよとか、黒人のエルフを見ても違和感を感じないようにせよというところまで進んでしまえば、それは結果として、反差別という名の新しい感情的フィルターを押しつけているだけになってしまっている。

繰り返すが、それは反差別のカルト化だ。

人間の自然な感情が常に正しいとは限らないが、目的のために感覚や感性までも抑圧するやり方が正しいとも思われない。

確かに、差別と差別でないものの間の境界はひどく曖昧だ。差別は往々にして人間の感覚に根ざしたものであって、その二つがそう簡単に分かてるものでないことも事実だ。

だが、目を潰し、耳を削ぐよう他者に求めるならば、それは新しい時代のカルト宗教に堕するだろう。

だからこそ、今、私たちはなにが差別であり、なにが「差別でない」のかについて、そろそろ開かれた場所で議論を始めたほうが良いのではないか、と思うのである。

以上

青識亜論