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「ふがいない僕は空をみた」窪美澄著

これは新しい友人達の間で「エロい本」といって笑いながら回し読みされている本。
他に読みたい本が山積みになっていることもあり最初は借りることを遠慮していた。
でも「エロい」と茶化すものの読み終わった皆が否定しないどころか「よかったよ」というので読んでみることにした。
というボクは、皆の感性を信用しているのだろう。
噂どおり確かにエロい出だしだったのだけど、最後まで読んだ今はいい本だったと感じている。
「マチネの終わりに」よりもずっとずっと響いたし、「この世界の片隅に」の何倍もよかった。
実は少し小説のホントの良し悪しや映画の深さが解らないヤツなのかもしれないと自分を疑っているのだけど、それでもいいやと思っている。
ボクにとって面白いものは面白いと感じるボクの自然なのだから。
社会の評判や他者の評価や人気投票にボクを合わせるのはつまらない。それにしても、

ほんと人間は自然な生き物であり、社会的生き物、なんだなぁと思う。

この本を読み始める前のボクはなんとなく「恋心」をひきずったままだった。
毒多は「恋心」が解ってないという空気の、前のエントリーのあれ、である、笑。
それでもいろいろ考えるうちに少しずつ解りかけてきた。
もちろん恋心は「解る」ものではなく「感じる」ものではあるのだけど、今のボクにはもう「解る」でしか捉えられない。
今のボクは、たとえ「解る」でも恋心を知りたいと思っている。
そんなボクが解ったことは、「恋心」は感情であり自然である。社会性なんて知ったこっちゃないってこと。
ただ彼女彼氏が好きなのである。好きで好きで仕方ないのである。
理屈でなく社会的ブレーキも社会的損得も道徳も倫理も法律も止めることはできない。
ただただ人間の自然の発露である。
ちょっとよく分からないという人はベッキーのことを思い出せばいい。
反社会的な不倫だろうが、マスコミの餌食だろうが、社会的人気墜落だろうが関係ない。
とにかく好きだったのだ。それが恋心。
恋心がわからない多数、それとも恋心より社会が重要な社会人多数は恋心を攻撃した。
容赦なくベッキーを恋心を、そして「自然の発露」を叩き潰した。
社会のルール、社会の秩序を守らないヤツは容赦しない。
人間の自然を人前に晒すなんてとんでもない、とばかりに。
ベッキーの恋心は屈した。
社会人たちは快哉を叫んだのだろうか、ホッとしたのだろうか?
それが人間の社会的生物であるということ。
社会の崩壊は人間の崩壊につながる。
だから自然さえも粛清しなければならない、、、のだと、、、
自然の崩壊もまた人間の崩壊につながる、、、ことは棚上げされて、、、

ほんと人間は自然な生き物であり、社会的生き物、なんだなぁと思う。

本のなかで斉藤君とあんずはsexをした。
気持ちよかった。エロかった、でも自然だった、だって気持ちよかったんだもの。
あんずにとって旦那とのsexは自然ではなかった。だって気持ちよくなかったんだもの。
斉藤くんとあんずは社会性に制御されることなく自然だった。
もちろん社会はそれを許さなかった。
斉藤くんはベッキーのように叩かれた。
叩くやつらは社会人だった。
社会に拘束されもがいているのかもしれないし、
社会に洗脳され心身の自由が効かないのかもしれない。
いや、自分の自然を見失った人間としての自然の発露をしている者への嫉妬かもしれない。
いずれにしろ、とてもとても社会人だった。
あんずは旦那に軟禁され、斉藤くんは自宅で引きこもった。
斉藤くんは黙っていたので、斉藤くんの裡でどんな対話がなされたのか解らない。
ただ、社会的に失敗だったというよりも、自らの自然を奪われたことの自己治癒だったような気がする……
ベッドのなかでずっとずっと「裡なる対話」をしていたのではないか?

斉藤くんとあんずだけじゃない。
本のなかのみなが自然と社会のあいだで翻弄した。
自然と社会の狭間だけじゃない、そこから昇華しようとする宗教もふくめて翻弄した。
それぞれが裡なる対話をしていたと信じよう。
全部をここに書くのはやめる。
もし気になったなら本を読んでみておくれ。

ただ一箇所だけ引用をしておこう。
ボクが何度も何度も読みなしてしまった箇所。
斉藤くんの母は助産所を営む。自然な出産を望む産婦がいう。
そんな産婦たちに母は思う。

(以下引用)

「(助産師のいうことを)きちんと守っていれば、私、絶対に自然に産めますよね」

自然、自然、自然。ここにやってくるたくさんの産婦さんたちが口にする、自然という言葉を聞くたびに、私はたくさんの言葉を空気とともにのみこむ。彼女たちが口にする自然、という言葉の軽さや弱さに、どうしようもない違和感を抱きながら、私はその気持を言葉にすることができない。乱暴に言うなら、自然に産む覚悟をすることは、自然淘汰されてしまう命の存在も認めることだ。彼女たちの抱く、自然という言葉のイメージ。オーガニックコットンのような、ふわふわでやわらかく、はかないもの。それも間違っていないのだろうけれど、自然分娩でも、高度な医療機器に囲まれていても、お産には、温かい肉が裂け、熱い血が吹き出すような出来事もある。時には母親や子どもも命を落とす。どんなに医療技術が発達したって、昔も今もお産が命がけであることは変わらないのだ。

(以上引用おわり)

ちょっと引用が長すぎて、怒られてしまうかなぁ、まあいいか、笑。
たしかにボクたちは「自然」人である以上に「社会」人であれと教育されて、自然であることをあたかも隠匿するようにいわれ、sexの気持ちよさを世界に叫んではならず、恋心にも社会性が求められる。
長い長い教育による洗脳のあと、人が自然であることをにわかには思い出せないでいるのかもしれない。
そんななかテレビや雑誌という「社会の」いたるところで「自然」が宣伝される。
その「自然」は社会のなかで許される範囲でのオーガニックコットンのような自然なのだろう。
社会管理された自然なのである。
社会に許されるちょっぴり自然的雰囲気が、自然なのである。
淘汰されてしまう厳しく深い自然なんかではない。
淘汰されるという自然はとても受け入れられないのである。
社会はそんな厳しく深い自然から護ってあげるという。
だから社会は自然と闘っているのだと威張る。
そう、社会による自然の淘汰は仕方ないんだって。
恋心のように積極的に自然を淘汰しようとする。
恋心だけでなくボクのなかの自然のなにもかも。
ついには社会人のオノレが自然人のオノレを淘汰する。
命を淘汰する。

ほんと人間は自然な生き物であり、社会的生き物、なんだなぁと思う。

人間は自然人としてだけでは生きていけなくなった。
人が生きていくためには社会が必要不可欠なのだ。
だから人間は自然と社会の狭間で悩む。
苦悩である。
ただ、もし本当の自然を感じつつ悩むことができる人がいるなら、その自然は深いのかもしれない。
深い自然を受け入れる覚悟の直前の状態なのかも。
もし他者の悩みを聴く機会などあったなら、このことはちょっと心に留めておいてもいいのかもしれないな、と日記には書いておこう、テヘペロ^^

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