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ドン・キホーテが遍歴の旅に出たのは、なんのためだったのか?--古すぎる美を愛したひと--

 もしもあなたが、なんの非も理由もなく、夜の街を歩いている時に、投石にあっているというイメージを一回でも多く浮かべることがあったなら、それはあなたが特別なる天意によって生まれしものだということの証拠だから、臆することなく受け入れていい。

もしもあなたが、本や雑誌で、古い美を思わせる人間をみて、一瞬でも心に共感や遠い愛が生まれたなら、それはあなたの中の騎士道の精神がすくすく育っている証拠だから、臆することなく、あなたの中にいる彼女の精神を慰撫してあげていい。

 それが回りまわって彼女の心を慰撫することもあるかもしれないという馬鹿げた妄想を信じ続けてもいい。

 この文章はスペインのギタリスト・トマティートがさきほど、Xにスペイン語でもって投稿した短文をGoogle翻訳したものではなく、僕が勝手に角ロックを飲みながら酔った勢い、投稿した短文であり、なんでこんな回りくどくて、哲学じみた言葉を投稿したかというと、名古屋に住んでひたむきに国語教員をやっているクノタカヒロさんと昔、渋谷のバーであったオープンマイクのイベントで遭遇した時、彼、どしょっぱな、セルバンテスは『ドン・キホーテ』の物語のアレンジをした作品を朗読したんだけど、朗読に入る前に、岩波文庫の本を広げて、ドン・キホーテが五十歳の頃の生活、家でレンズ豆の料理を作るという質素な食事をしていても、彼の日銭の四分の三は消えてしまうというシーン、つまり、騎士道物語の読み過ぎで気が変になってしまい、一度も会ったことがない思い姫・ドゥルシネーアを助けられるのは自分だけなんだと思いこんだ挙句、田畑の管理も忘れ、財産の大半を投げ打って騎士道物語の本を買い漁り、騎士道の時代がとうにすぎた時代に、誰も見向きもしない時代遅れの騎士道精神を胸に秘め、遍歴の旅に出るという物語が始まる前の序章のシーンを、詩が好きな若者が集まる暗いバーで読んでいる彼の姿、ひときはかっこよかったなぁという思いから、この言葉をぜひ投稿したいと思ったからだ。

 人は人生のある時期、ひたむきに努力している瞬間、ひょっとしたら、自分の前世は中世ヨーロッパの騎士なんじゃないかと思うことがあるものかもしれないし、ないかもしれないけど、いずれにせよ大半の人間は、現実や世の中のしがらみによって、その事実を忘れさせられてしまう。

 たとえ周囲の人間が、自分をドン・キホーテだと思い込んでいる男の気狂い妄想を暴力で持ってでも止めるべきだいう態度を見せたとしても、常識観念ではあり得ない狂気の妄想を抱く精神病者は薬漬けにして、何もさせるべきではないと言ったとしても、それは周囲の人間の意見であって、現実にそれを実行されて、途上、その想念をついやされてしまったとしても、あなたは五十歳からでも騎士道精神を求める遍歴の旅に出ることができるということを『ドン・キホーテ』は証明している。

 たとえ住んでいる土地が田舎でも、食べているものが質素でも、社会的地位が低くてもだ。

 『ドン・キホーテ』には、彼の騎士道の旅を思いとどまらせるべく、美容師が変装して、彼の行く手を阻んだり、鏡の騎士が彼の想念を惑わせたりということがあるそうだ。

 僕はまだ冒頭しか読んでいないから、それについて、これからどんな物語が繰り広げられるか楽しみだという以上のことは言えないけど、今夜はドン・キホーテのペンギンの黒のTシャツを着て、安いウイスキーに酔いしれながら、『ドンキホーテ』を読むことにした。

 自分の心臓のポンプを活性化させるためのガソリンが、人生のどこかで尽きてしまわないように。

 ドン・キホーテはなぜ、旅に出たのだろう?

 自らの身の危険を冒してまで。愛すべき思い姫のため?

 違うな。

 自分の中にある、決闘し決着をつけなくてはいけない理由のない運命、そして、田畑の管理をして死に絶えてしまった心を、壮年を過ぎてもどうしてもあきらめきれないずっと心の中で正しいか正しくないかと繰り返し疑心暗鬼になった挙句、五十を過ぎて騎士道物語を読んでようやく気がついた、自分の中にある正しい心を、死んでも守らなくてはいけない人間としての心を取り戻すために、一寸先も見えぬ旅に出たのだろう。

 果てもなければ、ほとんど意味のない労働や貧困という名の長期にわたる拷問にあっても彼が曲げなかった正義の心こそは偉大だろうし、旅に出る寸前でもう彼の勝利は決まっていたような気もする。

 忍耐力こそが、精神を駆り立て、剣に打ち勝つための、鏡の騎士に勝利するための最大の材料なのだから。

了 

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