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小説 母とチョコレートの苦い思い出

 チョコレートから目をそらした私は、母にこの存在を気づかれてはいけないと思った。
「やっぱり買わんくていいわ」
 私はそう言って、その場からすぐ立ち去ることを決めた。
「本当に良いん?俊先生、チョコ貰ったら喜ぶんやない?」
 お母さんはそう言うが元々私はチョコなんて渡したくなかった。家庭教師の大学生にひねくれた小4の私がバレンタインのチョコを渡してもお返しを面倒がられるだけだと思っていた。母の言葉を無視して急いで地元のショッピングモールの催事場から離れる。そのチョコレートは、オレンジ色の包装紙に包まれ、ラメの付いた金色のリボンが結ばれ、本場ベルギーから輸入というシールが貼られている。全く同じものが自宅のキッチンに置かれている。
「山科さんが東京で買ってきてくたんやって。ここら辺じゃ手に入らないものなんやと」
 そう得意気に母が私に言った言葉が思い出される。お母さんは騙されているのだ。

***

 案の定、そのバレンタインの数ヶ月後に母が新しく始めた商売のことで両親が口論している場面を見た。
「一体いくら使ったんや」
 私が寝ていると思っているからかキツイ口調でそう言う父に母は開き直って答える。私は寝室から抜け出し、リビングの扉の前で聞き耳を立てている。
「いいやん、どうせうちの親のお金なんやから」
「またそう言って」
 二人の喧嘩は激しくなった。
 
 父もそう悪くない給料をもらうメーカーの研究員だったが、母の実家はこの辺りじゃ有名な金持ちだった。母は両親のお金を悪びれもせず、自分の為に使った。大人になってからあの頃のことを振り返り気づいたけど、あのバレンタインのチョコレートをくれた山科さんという人が母にマルチの商品を勧めた東京のおばさんだと思う。どこで母が山科さんと出会ったのか、どんな商品を買ったのか(もしくは売ろうとしたのか)、どれくらい騙されたのか。今となってそんなことを両親に聞くことは出来ないし、そのことで我が家が困窮するほど貧しくなったとか、家庭が崩壊したとかそんなことはなかった。家族の黒歴史の一つだと思う。

 ただ、母にはそういうものがあまりにも多い。
 小3の時、突然健太君とはもう会えないと言われた。健太君とは母の友達の息子で、学区が違ったけど物心ついた時から月に2、3回はどちらかの家で一緒に遊んでいた幼馴染った。健太君の母と喧嘩をしたのだと後から分かった。大人になってもそんな風に仲違いをすることがあるのだと衝撃を受けた。
 母の姉である叔母さんとも疎遠になった。お年玉を祖父母を経由してもらうようになったのはいつからだろうか。
 父と喧嘩をして実家に帰ることも年に一度はあったし、そんな時の母は子供のように感情的に泣きじゃくるのだった。
 私の人間関係を干渉してきたり、無理やり都会のバレエ教室に通わせたり、私の好みではない服装を無理やり押し付けてきたりして、私はいつも母のことで不安定だった。

 ただ幸いなことに私は高校から、東京の全寮制の私立の女子高に通うことになった。母の見栄っ張りの性格によって、家から離れることが出来た。

 今年、私は29歳になる。高校で家を出たきり、東京で一人で暮らしている。医師になって研修医として勤務もしたが、大学で航空宇宙学を専攻するために復学しようと思っている。父は私の選択をいつも応援してくれて、母はいつも呆れている。そして、結果的にもう私のことは諦めたと言う。一体、母が私にどうなってほしかったのかは分からないのだけど。

 ここまで書くと私と母の関係は絶望的だと思うのが自然だ。でも、実はとてもうまくいっているのだ。

 私は他の人よりうんと早い時期から、母のことを諦めていた。感情的で思考が浅い一人の人間だと気づいていたのだ。悪人ではないことも。幸い、恵まれた環境で、祖父母も含めた母以外の家族はまともで理解があった。そして私は母のように美しくない代わりに賢かった。だから、母のことを期待しなかった。こういう人だと思って接しすれば、とてもうまくいくと気づいた。むしろ、私は母を一人の人間としてとても好きなくらい。私とは全く価値観が違うからこそ、話をしていて面白い。

 ただ小4の時の私は、まだ母のことを理解していなかった。あの時の恥ずかしさと苦々しさと、それでも母に傷ついてほしくなかった気持ちを今でも覚えている。もちろんあのチョコレートに罪はないんだけど。

「ねえ、お母さん。二月頭に帰省するね。なんかお土産買っていこうか?」
 私はほぼ毎日お風呂上がりに母とテレビ電話をする。
「本当?なんかテレビでやっとったんやけど、百貨店のバレンタインの催事で…なんて名前やったかな?後でURL送るわ」

 母はきっとあのチョコレートのことを全く覚えていないだろう。

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