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【考える】言葉の時代:日本語の曖昧さと現代文、その想い

まいど!曇戸晴維です。

最近、とある人のエッセイ記事を読みました。
それは深く洞察に優れ、深い印象を残しました
この記事では、現代文が多くの人にとって過去のものであると同時に、「今」を語る文章について書かれています。
この記事を読むことで、日本語の独特な表現力や言語としての奥深さ、そして国語教育の重要性について、再考するきっかけを得ました

この深いテーマに基づき、私自身の思索を深めたいと考えています。

かぐやさんには感謝の意を表し、その洞察力に敬意を表します。
本当にありがとうございました。




1. 文章の過去性と現代文の共感の難しさ


現代文が多くの人々にとって、なぜ過去のものとして感じられるのか、という点は非常に興味深い問題です。
文章とはその性質上、書かれた瞬間から過去のものとなります。
古い時代の文脈に根ざした文学作品や評論は現代の私たちにはなかなか共感しにくいものです。
現代の出来事や感情とは異なる背景を持つため、どうしても距離を感じてしまうのです。
私たちは過去の文脈を理解するために努力はしますが、日本語というのはその特性と言葉の曖昧さがあります。
それによって完全に共感することは難しい、という事実が浮き彫りになります。



2. 日本語の特性と言葉の曖昧さ


日本語はその構造上、非常に曖昧さを内包した言語です。
例えば、同音異義語が豊富にあり、文脈によって意味が大きく変わることがあります。
これは英語には少ない特徴で、英語の場合、言葉は比較的直接的で、文脈に依存することなく理解されることが多いです。
私が書いた小説「書かない小説家」では、このような日本語の特性を深掘りした一文を紹介します。

文章というのは、なかなか難しい。  
言葉というのは、定義されたものだが、その実、扱う者のニュアンスや思想を多分に含んでいる。  
日本語はその特徴が顕著に表れる。  
同音異句はいくらでもあるし、文脈や雰囲気、情景、その場の空気、そのすべてで言葉の意味を決めなければならない。  
言葉の定義外の意味を持つことも多い。  
そしてそれが文化として根付いている。  
英語だと、そうはならない。  
まず文化的前提として、はっきりと発した言葉意外の情報は考慮しない。 言葉の定義は、その文脈をもって決まるし、用途ごとに単語が定まっている。  
例えば『りんご』なんかわかりやすい。  
日本語では『りんご』『林檎』『リンゴ』。  
ひらがな、漢字、カタカナで若干イメージが違う。  
英語では『Apple』だ。  
ただし英語には複数形『Apples』がある。

自著「書かない小説家」より


言葉と文化の関係性を理解していただけたと思います。
日本語の曖昧さが、その豊かさと深さを生んでいる一方で、正確な意味を伝えるためには細心の注意が必要です。



3. 現代文と曖昧さの排除


現代文学や文章においては、曖昧さを排除し、出来事や心情をできるだけ正確に伝える努力がなされています。
これは、言葉が持つ曖昧性を明確にすることで、より広い読者に理解されることを目指すためです。
これも私が書いた小説「書かない小説家」をちょうどいい文がありましたので引用します。

文章というのは、その文化、育ってきた環境、時代に大きく左右される。 現代人にとって万葉集が読みづらいように、同じ日本語でも意味合いは大きく変わる。
国語辞典の改定など十年に一度以上のペースで行われる。
それぐらいに日本語は不安定だ。  
情景描写ひとつとっても、作家が明確にその情景を描写しようとすればニュアンスをできるだけ含まない言葉の羅列となる。  
それは素直に言葉として脳に入っていき、その世界に没頭できる人であればとても心地よいものなのだが、これがなかなか訓練の必要な技能である。 現代人は読書をしない。  
活字を読まない、というのはそういう訓練を行っていないということだ。

自著「書かない小説家」より


現代の文学がどのように言語の進化と共に変化しているか。
また、読者がテキストに没頭しやすいように、言葉を選び抜く作業がいかに重要であるか。
そして文章を読むためにはその訓練を行う必要があります
国語という授業はそのためにもあるのです。

校正や編集を通じて言葉の曖昧さを回避し、伝えるべき内容の正確性を高めています。
このプロセスは、作者の意図したメッセージが読者に正しく伝わるよう保証するために不可欠です。
書籍が市場に出る前のこれらのステップは、文学作品が時代を超えて色褪せない理由の一つでしょう。


5. 話し言葉と書き言葉の違い


話し言葉は、その場の情景や雰囲気によって大きく左右されるため、より曖昧でニュアンスに富んでいます
これに対し、書き言葉はより慎重に選ばれ、意味の正確性が求められます

例えば、「うん」と一言で返事をする場合、そのニュアンスは会話の文脈や話者の表情、声の調子によって大きく異なります。
これに対して、書き言葉では「はい」と書くことで、同意の意志をより明確に伝えることができます。

これも私の小説にてわかりやすいものがあったので引用します。
下記はモノローグとしてあえて話し言葉に近い文章、つまり現代的に読みやすい文章で書いています
「『書けない』と悩む新人作家のライトノベルを読んで初老の主人公が感想を抱いた」シーンになります。

端的に言えば、彼女の作品は面白かった。
ライトノベルの特性を活かし、勢いのあるストーリー展開で読者を引き込み、その文量で飽きさせず、また次の展開へと持ち込む。  
そしてそれはジャンルを問わず注ぎ込まれる。  
転生してファンタジー世界に行ったと思えば、駄目男な魔族と婚約が決まっている。  
けれどその駄目男はどうにも悪いやつではないので、主人公は段々と放っておけなくなる。  
これはラブロマンスだ。  
そこに領地運営という問題が出る。  
ここで起こるのは経済学や地理学、農学の話だ。  
スパイスとして戦争が描かれる。  
個人の戦いはバトルモノのスタンスで書かれる。  
そしてそれが幾度となく続けばやがて戦記モノとしての輪郭が浮かび上がる。  
かと思えば、ファンタジーに科学を持ち出し、宇宙の概念に突入する。  
これはSF的手法である。  
もちろん世界には宗教もあるので、宗教問題にも触れる。  
物語は神への対峙や真理の探求へと足を踏み入れ行く。哲学の話になる。 合間に日常的要素も含み、科学や魔法によって構築された現実の現代日本と変わらない環境での日常は現代ドラマの要素を含む。  
つまり、しっちゃかめっちゃかなのだ。  
構成に一貫性がない。
そして読む前提条件に、現代人であり日本人であり、且つサブカルチャーに触れている必要がある。
でなければ、文章の表現として、足りない。  
とどのつまり、ライトノベル足る、ライトノベルなのだ。  
よし、考えはまとまった。  
次は、彼女がこの作品を経て、なにを思っているのかだ。  
狙って書いたのか、それとも書きたいものを書いたらこうなったのか。  
なにが一体『書けない』のか。  
私は、この作品が好きだ。  
おもしろいと思った。  
一気に読んでしまった。

自著「書けない小説家」より

次のシーンでは初老の主人公が新人作家にメールを送ります
その文章は全くの書き言葉であり、あえてその表現をしています。

お待たせいたしましたこと、何卒お許しを。
この作品に関しては、私の心を捉える何かがあります。
端的に申し上げれば、貴女が紡ぎ出す作品は興味深く、私の心を捉える何かがあります。  
面白いと感じました。  
あまりの引き込まれように、気が付けば一気に読み終えていました。  
ライトノベルという、まことに今日的な文学形態を取りながら、独自の勢いを持って物語を展開し、読者をその世界へと誘っています。  
文量も程好く、読む者を疲れさせず、次なる展開への期待を掻き立てている。  
作品は、あらゆるジャンルに手を広げており、転生ものから始まり、不器用な魔族との婚約話にまで及ぶ。  
その不器用な彼が、意外と憎めない存在であるため、主人公もまた、彼を見捨てることができず、徐々にその魅力に引き込まれていく。  
これが所謂、恋愛物語の筋書きであるでしょう。  
そこに領地運営という新たな要素が投じられる。物語は経済や地理、農学の議論を交え、戦争の描写を加えて物語を彩る。
個々の戦いは、いわゆるバトル物のスタイルで描かれ、これが重なることにより、戦記物としての枠組みを作り出しています。  
そして、ファンタジーの枠を超えて科学や宇宙の概念を取り入れる試みもある。これはSF的なアプローチですね。  
世界には宗教の存在もあるため、物語は宗教問題にも触れ、神との対峙や真理の探求に足を踏み入れる。
こうして物語は哲学的な話題にも触れています。  
さらに、日常的な要素も取り入れられており、科学や魔法によって築かれたこの現実は、現代日本のそれと大差のないものとなる。  
そういった現代ドラマのような要体も見受けられます。  
ともあれ、物語は複雑に絡み合い、その構成に一貫性はないと言えます。
読者としては、現代人であり、日本人であり、サブカルチャーに通じていなければ、その奥深さを理解することは難しいでしょう。  
足りないというべきか、そういう条件が前提とされています。  
しかしこれは、良点です。  
この作品は、ライトノベルたる所以を備えている。
それは言葉だけでは伝えきれない何かを持っていると私は感じております。 そして、その内容、勢い、リズム、言葉の紡ぎ方がなにより読者を物語の世界へとさらって行くのです。  
これを素晴らしいと言わずなんと表すのでしょうか。    
そこでひとつ、お尋ねしたいことがございます。  
この作品を通じて、あなたが何を感じ、何を思っているのか。  
あなたがこの作品に込めた意図は、計画的なものでしたか、それとも筆を進めるうちに自然とこの形になったのでしょうか。  
そして、何がどうしても「書けない」のか、その心の内を伺いたいのです。

自著「書かない小説家」より

全く同じ文章です
前者はニュアンスを多分に含んでいて、状況や推察を読者に委ねているのがわかると思います。
対して後者は読者に委ねるべきところを可能な限り排除しています。
これらは同じ「書き言葉」であるというくくりから少しわかりづらいかもしれません。
これが「話し言葉」になるとより顕著に差が生まれます


これさ、なんかね、面白いんだけど、何て言うか、説明しづらいわ。
ライトノベルっていうのはわかるんだけど、なんか、その、どんどん進む話が、気になるっていうか。
で、ジャンルなんかも、めちゃくちゃに広がってるよね。
ファンタジーにいったと思えば、あの、ダメっぽい魔族の男とどうにかこうにかなっちゃって。そう、なんかそういうのがあるんだけど、その男、案外ね、悪くないんだよ。で、主人公も、なんだかんだで悪くないみたいな?
領地の話になるとね、もう、経済やら地理やら何やらかんやらがごっちゃになってて、ちょっと真面目な話も混じるわけ。戦争の話も出てくるし、それがどんどん大きくなっていくし。
それに、ねえ、ファンタジーからいきなり科学や宇宙の話に飛ぶから、ちょっとSFもあるし、宗教の話も混じって、なんかね、神とか真実とか、そういう難しい話も多いよね。でもね、その合間にふとした日常の一コマもあって、それがまた、今みたいで、なんとなくドラマっぽいのかなって。
うーん、でもね、全体的に、言葉でどう表したらいいのか難しいんだよね。なんか、全部混ざってて、読むのは面白いけど、誰にでもおすすめできるかって言われると、その、ちょっとね、サブカル知ってる人じゃないと分かりにくいかもしれない。
まあ、でもさ、それがいいのかもね。ライトノベルって、そういうものかもしれないし。読んでてさ、「あ、これ、なかなか」って思ったわ。
彼女が何を考えてこれを書いたのか、気になるよ。
計画してたのかな、それとも書いてるうちにこの形になったのかな、とか。書けなかったことがあるのかもしれないし。
でもね、好きなんだ、この作品。

これも同じ内容です。
話し言葉というのがいかに曖昧でニュアンスをたぶんに含むか。
それをわかってもらえたでしょうか?

6. noteやSNSでの文章の特性と変化


noteやSNSでの文章は、その即時性と手軽さから、話し言葉に近い形で書かれることが多いです。
何しろ時間と余裕がなく、情報に溢れいているインターネット社会。
これらのプラットフォームでは、現代文よりも手軽で短い文章が好まれる傾向にあります。

これは、書き言葉に比べてより瞬間的で刹那的なものであり、消費されるスピードも早いです。
かつての何万倍もの速度で発信、消化、淘汰、消失していきます。

そして、より直感的、感覚的に五感を使って理解をできる動画が台等しはじめます。
なにしろ動画であれば表情、身振り手振りといった行動での表現が加算されるのですから。
YouTube、InstagramやTikTokがわかりやすい例でしょう。

そのため文章はそれに追いつくために、より簡潔に、より即時性をもつ形に特化していきます。
これは流行語を見ればわかりやすいと思います。
平成の「ヤバい」に始まり、現代でも文章のやりとり、LINEのやりとりが馴染み深いでしょうか。
「チルい」「エモい」などもそれにあたるでしょう。
しかしこのたかだか三文字を正確に文章として表現したとき、一体どれほどの文量になるでしょうか
アスキーアートから始まった文化、絵文字やスタンプもそれを後押ししていく結果となっています。

これらはデジタルコミュニケーションの特徴と言えます。

7.現代社会における文章の氾濫とコミュニケーションの変容



現代社会は情報の氾濫と、個人主義の台頭による社会的な分断が進行しています。
この背景には、インターネットとデジタルメディアの普及が大きく影響しています。
文字情報が容易にアクセス可能で、個々人が自分の意見や感情を素早く大量に発信できるようになりました。
これにより、情報は爆発的に増加していますが、同時に情報の質や対話の深さは必ずしも向上しているわけではありません

この文化的な変化は、リアルな対面でのコミュニケーションの減少をもたらしています
人々がオンラインでのやり取りに慣れ親しむ一方で、直接的な対話の機会は減少し、それによって社会的なつながりが希薄化しているのです。
この現象は、さらに個々人が自己中心的な思考に傾くことを助長し、結果として社会全体の分断を深めています。

また、デジタルコミュニケーションの即時性と便利さは、深い思考や感情の共有を阻害する場合があります。
一方で、対面でのコミュニケーションは、相手の表情や声のトーン、身体言語といった非言語的要素を通じて、より豊かな情報を交換することができます。
このようなリアルなやり取りが減ることは、個人間の理解や共感を損なうことにもつながります。

一時期、インターネット黎明期のことです。
啓蒙と冗談の間のような言葉でよく目にするものがありました。

「画面の向こうにいるのは、同じ”人”だ」

それもめっきり目にすることがなくなりました。


8. コミュニケーションの即時性と影響力


つまり、私達は即時性をもったコミュニケーションに飢えているわけです。

画面の向こう側にいるのが同じ人間だと認識しづらくなっているのも要因のひとつでしょう。
情報が少なかった時代、インターネットが台等する前などは物事にはすべて人が関わっているという感覚は今より顕著に感じていたと思います。
それですら、60年代、70年代と比べればその感覚は薄れていたとも感じます。
現代において、その感覚はより顕著になくなってしまいました


画面の向こうにいるのは果たして同じ人なのか
その考えは当たり前すぎて誰もが考えないものになりました

忘れてはならないのは、会話によるコミュニケーションは、洗練された文章よりも、現在の感情や思想を強烈に伝える力を持っているということです。
対面でのやり取りが持つ直接性と、相手の反応を即座に得られる利点は計り知れません。
このような対話は、生きる上での幸福感や生活の快適さに直接繋がります

例えば、これを読んでいるあなたが思っていること、書いたこと、それを面と向かって話せる人はいるでしょうか
話したとき、真剣な話には真剣な顔、嬉しかったことには嬉しそうな笑顔、悲しい話には同じく悲痛な表情で抱きしめてくれる人はいますか

親であれ、友人であれ、恋人であれ、なんであれそういう人と現実で関われるというのは私は幸福だと思います
それはデジタルコミュニケーションでは実現し得ない事実である、と私は思っています。



9. 文章の力と影響範囲


一方で、文章はその書かれた内容が広範囲にわたる影響を及ぼす力を持っています。
教室で使われる現代文は、多くの人々に影響を与え続けており、その内容が持つ教育的な価値は計り知れません
文章は、情報、歴史、文化、表現、思考力、読解力などを育むのに適した手段です。

そしてnoteというのも同じ価値を持っています。
言葉が心を打つ、というのは、芸術がその目に止まることと同じ意味を持つと考えます。

では、芸術はなんのために行うのでしょうか
芸術家たちはなんのために絵画を描くのでしょうか
小説家たちはなんのために小説を書くのでしょうか
表現者は、なんのために表現するのでしょうか

虚栄心。自己肯定感。温もり、繋がりを求めて。
仕事。金稼ぎ。詐欺。悪意。発散。
伝えたいことがあるのかもしれませんし、ただのメモかもしれません

書かずにはいられない衝動はどこからくるのか
書き手によって様々な意図があります
そしてそれを確実に遂行するためのテクニックも横行します。
それを利用したビジネスも

私達は果たしてそれで良いのでしょうか


10.最後に


この記事も、電子の海に埋もれていくでしょう
しかし、私のこの思想と想いは私に触れた人に伝播していきます。
私の友人、家族、心強い仲間、そしてこの記事を読んでくださったあなたにも。

心に留めてほしい、とは思いません。
私が、きっかけをもらったように、何かのきっかけになれば幸いです。
長い人生のなか、いつか思い出してもらえたら、幸いです。

日本語という強い特性と表現の豊かさ、独特さをもった話者として、私たちの生き方を考えるきっかけになれば、これ以上ない至福です。

曇戸晴維でした。


最後に、引用元である私の書いた小説、「書かない小説家」をご紹介します。


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