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動物問題連続座談会第1回 動物から考える社会運動―なぜわたしたちはハラスメント運動/野宿者支援をしながら動物の運動をするのか? ①動物問題への入り方

大学のハラスメントを看過しない会は、大学におけるハラスメントの問題を発端に2020年に形成された団体ですが、実は立ち上げ当初から、この団体で動物の運動もやることを決めていました。なぜ、ハラスメントなどの人権問題が動物問題とも関係があるのか、その理由なども含め、野宿者支援・労働運動など複数の問題に携わってこられた活動家の生田武志さん・栗田隆子さんをゲストにお呼びし、交差的な運動についての議論を深めていきます。

【参加者】
深沢レナ(大学のハラスメントを看過しない会代表、詩人、ヴィーガン)
生田武志(野宿者ネットワーク代表、文芸評論家、フレキシタリアン)
栗田隆子(フェミニスト、文筆家、「働く女性の全国センター」元代表、ノン・ヴィーガン)
司会:関優花(大学のハラスメントを看過しない会副代表、Be With Ayano Anzai代表、美術家、ノン・ヴィーガン)


それぞれの活動とライフスタイルについて

——(司会:関) では最初に自己紹介から始めていきます。司会を務めます、わたくし関優花といいます。わたしは看過しない会のメンバーで、現代美術家としても活動しており、芸術業界のハラスメントの問題についていろんな運動をしていて、深沢レナさんの支援者でもあります。動物問題においては非ヴィーガンで、今勉強している最中です。

生田 生田といいます。今は主に野宿者支援に関わっています。学生のときに釜ヶ崎のことを知って、学生のときからボランティアで入って、卒業してから釜ヶ崎で日雇い労働者として肉体労働しながら、日雇い労働者や野宿者の支援をしてきました。釜ヶ崎の日雇は減ってきたので今はやめて、いろんなアルバイトをしながら生活支援の活動をしている状態です。主に今はいろんな方の相談を受けて、一緒に生活保護の申請に行くとか、野宿者のところを回る夜まわりなどの活動をやっています。
 動物問題については、10数年前から関心持って、『いのちへの礼儀』という本を書いて、そこでかなりいろんな動物問題を扱ったものを書いています。

 その後は、動物問題の講演とか、あとは「学校で教えたい授業」というところで、獣医のなかのまきこさんと組んで、動物問題のモデル授業をやったり、あとそれの書籍版についてやりながら、動物問題をどうやって子供達とか一般社会に広めていくか、ということを考えているところです。

 食生活でいうと、一言で言うとフレキシタリアンで、家では卵も肉も魚も買わないんですけど、やっぱり外食するとほとんど困難なんですよね。パンは卵が入っているとか、牛乳を使っているとか、出汁が入っているとか。そういうところでかなり中途半端な感じでやっているところではないかと思います。

 なんでもそうですけど、90%とか90数%まではできるけど、あと数%やろうとするとすごく困難で、そこでなかなか実践できないなというところです。だから、ヴィーガンをやっている人はそういう点で本当に根性入ってるな、というのはいつも感じます。

【ベジタリアンの種類】
 ベジタリアン(Vegetarian)という言葉は19世紀のイギリスで生まれた。「vegetus:健全な、新鮮な、元気のある」というラテン語に由来。現在、ベジタリアンの定義は流動的だが、主に畜肉を食べない人を広義のベジタリアンとすることが多い。乳製品は食べる「ラクト・ベジタリアン」、卵は食べる「オボ・ベジタリアン」、魚は食べる「ペスカタリアン」、基本的には菜食だが場合によっては動物性食品を摂取する「フレキシタリアン」など、さまざまな種類がある。
 一方、ヴィーガン(Vegan)は「完全菜食主義」と訳されるが、食事に限らず衣服・日用品・化粧品なども含め、動物を搾取することをできる限り止めようとする人のことを指す。肉・魚介に加え、卵・乳製品・はちみつ等も一切摂取しない。
 2023年の調査では、日本のベジタリアン率は4.5%、ヴィーガン率は2.4%。
*参照 日本ベジタリアン協会HP
【23年1月】日本のベジタリアン・ヴィーガン・フレキシタリアン人口調査

【ベジタリアン・ヴィーガンと外食の問題】
日本では、和食に鰹出汁が含まれていることが多いほか、店のメニューや商品の包装に「V」などのマークが記載されているところもまだ少なく、ヴィーガンやベジタリアンの人は原材料を自分で調べなくてはならないといった負担を負っている。日本でヴィーガンを実践する方法は、本会記事「日本でヴィーガンがあんまり頑張らずに生き延びる方法〜食事編」などを参照のこと。


栗田 わたしは女性の労働問題とか貧困の問題というのを、自分が就職ができなかった「超氷河期時代」と呼ばれたなかで、しかも大学院卒だったので「既卒」という立場で、仕事が——いわゆる正社員というのが見つからない状態のなかで、最初に仕事をしたのが、派遣会社の派遣社員だったんですけど、「一体自分は今後どうなるんだろう?」という意識のもとに活動していて、自分は絶対貧乏になるというのがその時点で予想がついたので、釜ヶ崎には大学院時代には行ったことがあって、そこで生田さんと知り合ったんですけど、改めて自分が貧しくなるな、という立場のもとで、野宿の現場に行ったら、今度は逆に女性であるということでセクハラのような目にあったりもした中で、運動内のハラスメントとか、あとわたしがキリスト教徒であるということで、教会やキリスト教界隈のハラスメントというのも性暴力・性虐待ともに勃発していて、そういうものにどう向き合うかという問題にも移行せざるを得ないところがありました。

 また最近は、わたしは文筆業としてフリーランスの仕事が増えてきているのですが、フリーランスは労働者性がまだ認められていないので、でもフリーランスは今明らかに厳しい状態に置かれていて、インボイス制度とかもできちゃったりして、フリーランス労働の問題というのにもコミットしている、という、いろいろ手を出す割には、うまく自分のなかでちゃんとやれないな、と中途半端で悩む昨今です。

 動物問題のスタンスというのは、今話したスタンス——どちらかといえば当事者性をもとに動いてきた立場とはちょっと違っているなと思いつつ、きっかけとしては生田さんの『いのちへの礼儀』を読んで「こんなことが起きてるのか」と知ったのが最初です。今はわたしも全然ヴィーガンとはいえず、それこそ大豆ミートや平飼い卵の摂取量を増やしながら、動物問題への勉強をしているといった状態です。

【平飼い卵とケージ卵】
 世界ではケージ飼育自体が廃止に向かっており、平飼いや放牧卵が一般的であるにもかかわらず、いまだに日本ではバタリーケージ(写真上)の使用率が92%。バタリーケージでは一羽に与えられる面積はB5用紙サイズ以下。金網のぎゅうぎゅう詰めで飼育されるため、運動・身動きができず、羽や足を何度も骨折し、餓死・潰されて死んでいく鶏もいる。日本でも少しずつではあるが、平飼い(ケージフリー:写真下)の卵の利用へと移行する企業・飲食店も増えている。

バタリーケージ(写真:アニマルライツセンター)
平飼い(写真:アニマルライツセンター)


深沢
 わたしは詩人で、今は活動家ともいうことにしてるんですけど、自分がセクハラを受けるまではまったく社会運動を考えたこともなかったんです。選挙にも行ったことがなかった。でも2018年にセクハラの告発したことで、いろんなことに興味を持つようになって、告発してからわりとすぐに、生田さんと同じようにフレキシタリアンになりました。で、その頃から、動物問題に携わる団体の勉強会に行ったり、ボランティアをするようになって、その次の年にはヴィーガンになろうと決めて、その後はずっとヴィーガンです。

 本当は、動物の問題についての発信も、看過しない会を立ち上げたときからガンガンやりたかったんですけど、動物のこととなると、詩でも記事でも、何回も書きかけたんだけど全然書けなかったんですよね。それにはまず、自分の受けたハラスメントの被害について正面から戦わないと先に進めなかったんです。

 実際裁判が始まると、物理的に忙しくなるというのもあって、動物のことをやれる余裕もなくなって離れてたんですが、去年の年末クリスマスの頃に、スーパーにブロイラーのお肉がずらーっと並んでいる光景を見て愕然として、「やっぱりわたし動物の問題やらなきゃいけない」と我に返ったという感じですね。

【ブロイラー(肉養鶏)】
 食用とされる肉養鶏の圧倒的多数はアメリカで生まれた交雑種のブロイラーが占める。本来ブロイラーは4〜5ヶ月(150日ほど)かけて大きくなるが、いまでは40〜50日で大きくなるように過激な品種改良がされている。日本ではとくに過密飼育がひどく、EUの1.78倍過密。EUでは1㎡あたりのkg数が法的に決められているが、日本にはそのような規制がない。

過密飼育されるブロイラー(写真:アニマルライツセンター)


 栗田さんには去年インタビューをさせてもらって、今年公開しましたけど、そのときにフェミニズムとヴィーガニズムの話や、交差的な運動、マルチイシューの話をしました。生田さんの著書は前から読んでいたのですが、栗田さんとお話ししたときにお二人が『フリーターズフリー』で一緒に活動されていたということも知り、次は生田さんとお話ししたいな、とずっと思っていて、やっと今回実現したという感じです。



肉食主義(カーニズム)や動物性の食品を摂ることについて


——みなさんは、肉食主義(カーニズム)や動物性の食品を摂ることについて、小さい頃からどういうふうに感じてきましたか?

【肉食主義(carnism:カーニズム)】
人間に特定の種の動物を食べることを条件づける信念体系ないし思想のこと。2001年に社会心理学者のメラニー・ジョイが作った言葉。たとえば、わたしたちは牛や豚や鶏の肉を食べることは「普通」だとみなしているが、美味しいシチューを食べているときにその肉が実はゴールデンレトリバーでできていると聞いたら、多くの人は食べる手を止めるだろう。ジョイは、このように人間が特定の種の動物に対してその肉の消費を「正常・自然・必要(normal, natural, necessary)」なものとみなしている事実を指摘し、「正当化の3N」という考えを提示した。なおその後、心理学者のジャレド・ピアッツァの研究チームにより、4つめのN=「美味しい(nice)」が加えられた。

深沢 実はわたしは小学校の頃から牛肉が食べられなくて、たぶんきっかけは、小学校のときに狂牛病の事件があったんですよね。テレビで、牛たちが大量に処分されるという報道をみて、わたしは感情が麻痺してるので特に何も感じなかったんですけど、それ以来、牛肉を食べると自動的に意識を失くして倒れるようになっちゃったんです。アレルギーの検査をしても何にも引っ掛からなくて原因不明だったんですけど、でも食べ物に牛肉が入っているとまったく受け付けない。そういう体になってしまって、それからはめんどくさいので「牛肉アレルギーです」と周囲には言って生きてきました。

深沢 でもそれは別に「牛が可哀想だ」という意識からではまったくなかった。わたしは食べることがすごく好きだったので、飲食店でも働いてたし、おいしいものを食べたいということばかり考えていて、魚もチーズも牛乳も卵も大好きでした。たまに「家畜ってかわいそうじゃないかな」と考える機会があっても、「だって栄養必要じゃん」「これは普通のことなんだ」と思って思考停止してた。

 それと、「スーパーとかお店で普通に商品として売られてるんだからちゃんとしたものでしょ?」という思いがあった。現代これだけ技術も発達してるんだから動物だって最大限苦痛を感じないように配慮されているだろうという、漠然としたシステムへの信頼のようなものがあって、それ以上考えなかったんです。あとは、「国内産のものは安全だ」という神話も信じてました。「実はお肉はヤバいんだよ」という話を聞いても、海外の話だと思ってて、日本のものは絶対安全という根拠のない神話を信じてましたね。

【「国内産は安全」神話】
日本政策金融公庫が昨2021年7月に実施した消費者動向調査では、日本人の3人に2人(68.3%)が食料品を購入する時に国産品かどうかを「気にかける」と答えており、国産食品の安全性についての質問では、「安全である」と思う人は68.9%、「安全面に問題がある」と思う人は2.8%と、多くの日本人が「国産は安全」と考えている。しかし、World Animal Protectionによる動物保護指数によると日本の畜産動物の扱いは世界最低ランクのGランクであるにもかかわらず、食の安全の指標ともなるアニマルウェルフェアのレベルが非常に低いことはあまり知られていない。

*以下記事参照


栗田
 わたしは逆に野菜が食べられない子供で、お肉とか魚の方が食べれてしまった、ということがまずあったんですよね。逆に小さい頃に「ヴィーガンになれ」といわれてもすごく難しくて、豆くらいしか食べられなかったんじゃないかな。わたしはあの頃ピーナッツとかも苦手で、肉くらいしか食べられない。とはいえこれが「殺してるものだ」ということはわかってたんですけど、思考停止というよりも、「生きるためにこれを食べないといけないんだ」というか、「大人になるためにはこれを克服しないといけないんだ」「殺さないといけない」という課題みたいな——今思うと「戦争じゃないんだから」と思うんですけど。

 それってジェンダーのことにも通じる部分があると思って。ある種の加害的なふるまいも、たとえば男性性の名のもとに「男性なんだからこうしなきゃいけないんだ」と納得するようなプロセスにちょっと似てたような気がして、しかも、野菜が嫌いなもんだから、余計そうやって自分に言い聞かせるようなところがあったな、と思うんですよね。自分で言い聞かせて「おいしいんだし」とか理由をなんとかつけて、その問いをずっと沈めていたな。それが、生田さんの本を読んだり、レナさんと話したりして、「そんなに思い込まなくていいんじゃないか」ということを考え出した、というのが現時点ですね。

生田 ぼくも小さいときは普通に肉とか食べていたと思うんですが、小学生のときにデパートで鶏の丸焼きを、本当に死体そのものが機械でぐるぐる回っているのを見て、それでショックを受けて、それからかなり長い間鶏が食べられなくなったのをよく覚えてます。あとで話になると思うけど、伝統的な畜産と工業畜産の違いはあると思うんですよ。僕が見たのも機械でぐるぐるまわっていて、物体として扱われているというか、工業産業として扱われているのを見てショックがあったんだと思うんですね。

 たとえば田舎に行くと、熊本のおじさんが「山で猪をとってきたからボタン鍋だ」といって食べさせてくれたんですけど、それはショックを受けなかったんですよ。そういう生活もあるんだろうな、という感じで。ただ、デパートで売られている工場畜産の鶏は、小学生のときはショックでしたね。その奥には当然、大量屠殺とか、工場的な育て方があるはずですから。なので、そういうのはあったんですけど、結局、給食ではばんばん肉が出てくるし、普段も食べていたんだけど、個人的には「肉食べるよりはパンが好き」という嗜好になりましたね。もちろんパンにもバターが使われているんだけど、肉を食べなくなるのにはそんなに抵抗がなかったと思います。

【工場(式)畜産・集約畜産】
機械化された巨大施設で動物たちを集団管理する畜産形態。第二次世界大戦後の欧米圏における農学の発達を背景に主流となった。安い畜産物を効率的に生産するために、大量の動物を最小限のコストで飼育する工場式畜産は、世話の簡素化を招き、動物たちに苦しみを生むことになった。また、近年では畜産とともに養殖業も同様の問題を抱えている。
*参照 井上太一『動物倫理の最前線 批判的動物研究とは何か』(人文書院、2022)




動物問題に興味を持ったきっかけ


——みなさんが動物問題に興味をもったきっかけ、あるいはもたなかった理由はなんですか?

栗田 持たなかった理由は、さっき話の続きになってくるんですけど、「それを食べないと大人になれない」とか「生きていけない」と思おうとしていたというのが、動物問題に興味を持たなかった大きな要因なのかなと思っています。

 あと、動物愛護運動のなかでも過激なものばっかり流れてきたりね。そういうのを見ると、「なんかちょっと違う」みたいに思うこともあったんですが、大きなきっかけは、わたしは生田さんの『いのちへの礼儀』。ピーター・シンガーの本は読んだことがあったんですけど、生田さんの本はピーター・シンガーよりももっと工場畜産の話を具体的に書いてあったので、すごくはっとさせられた。それでわたしも生田さんにインタビューする企画を立てたときに、改めてNetflixで畜産の問題を扱っているドキュメンタリーを見たり、『Dominion』という、畜産の工場をこっそり映してるのかなみたいなところでドキュメントしている画像とか、どうやって卵が作られているかや、そのときひよこはどうなっちゃっているのか、などを見て、今生田さんがおっしゃっていたみたいに「工場畜産とはなんなんだ」という問題意識が生まれた。

 だから、問題意識を持ったのは、つい最近——生田さんの本が2019年に出ているので、それ以降と言っていいと思います。しかもまだヴィーガンには全然なりきれていない。昨日も家族で、両親の「結婚記念日」は焼肉屋さんで行なって、家族には動物の福祉や権利の話もまだできず…どうやって今後動物とのつきあい方というか、食べるものとの向き合い方を作っていこうかな、と今はまだ試行錯誤している状況です。

生田 僕が動物問題に関心を持ったきっかけは、小学校のときに家族と鳥取砂丘に行ったんですね。あそこには遊覧用のラクダがいて、子供とか乗せて先を歩くんですけど、そのラクダ、動きが鈍くて、飼い主の業者からムチでバシバシ叩かれてたんですよ。

 涎を垂らして歩くラクダが叩かれているのを見て、かわいそうで仕方なかったんですね。あとで調べたらね、「あれかわいそうじゃないか」という意見が結構出てて、やっぱり同じこと思う人がいるんだと思ったんだけど。でも、可哀想と思っている僕自身は、叩かれて歩くラクダに乗って観光してるんですよ。だから、これは工場畜産で育てられている動物を食べている自分と重なるんですけど、小学校のときの僕はラクダに乗りながら胸が苦しくなって、「将来動物のために何かする人間になろう」と思ったんです。

 それがあったんだけど、現実的には大学生のときに釜ヶ崎に行って、野宿や貧困状態の人の支援活動にいった、ということになります。で、野宿や貧困の問題と動物の問題って、関係ないっちゃないんですけど、でも重なるところもあると思っていて、たとえば、野宿者の襲撃事件ってひどいんですよ。多くの人から差別を受けて、暴行されて、時には殺されて。その背景には、構造的な暴力があるんだけど、これって動物に対する工業畜産とかなり重なるんじゃないかな、というのを一つ思いましたね。

 で、『あしがらさん』とか『犬と猫と人間と』という映画をとっている飯田さんという人の事務所、ローポジションというんですけど、これ、「低いポジションから社会を見る」って意味でつけたんだって。

 結局、野宿の人とか、動物たちって、社会の中で一番下にいるのかもしれなくて、もちろん外国人とか、女性、セクマイとかそれぞれ問題抱えてるんですけど、僕にとっては野宿の問題と動物の問題が特にひっかかったということですね。



ハラスメントも動物問題も構造的な暴力


深沢
 わたしは動物の問題については、子供のときから犬と暮らしてたから、犬猫の殺処分のことには心痛めてて、犬のために何かをしたいということはずっと考えてたんです。それで大学院のときに、動物の団体のSNSをフォローしてたんだけど、Twitterで流れてきたアンゴラウサギの動画をたまたまみて、めちゃくちゃショックを受けたんです。

* PETA ”The Truth Behind Angora Fur"より悲鳴をあげるアンゴラウサギ

 アンゴラウサギって生きたまま毛を剥がされるわけですけど、「こんな残酷なことが現代に行われるの?」って衝撃を受けて、ショックでまわりの友達に話したんだけど、「そういう話やめません?」と言われたり、仲のいい友達に話しても、わたしの精神状態を心配されて「今度気分転換に行こうね!」といった反応をされてしまって、「え、こんなことが起こってるなんておかしいよね?」という気持ちを誰とも分かち合えなかったんです。

 でも結局、わたしはこの現状に対して、自分がどうしたらいいのかわからかなかったし、当時は修論やるのに忙しくて、考える暇がなかった。でもそれは同時に、それ以上知ることが怖くもあったんだと思う。でもこの出来事は、世界や制度への漠然とした信頼みたいなものが揺らいだ大きなきっかけになりました。

 それから次の年に自分のハラスメント被害の告発をして、それはもう、自分のそれまでの価値観が完全に覆されることになった。いかに人が簡単に暴力に加担するのか、ということを身をもって知るようになったんですよね。セクハラって加害者だけの問題ではなくて、加害者を長年許容してきた周囲の教員とか業界とか、それを隠蔽しようとする人たちがいるから成り立っている。しかもそういう完全に加害者サイドの人だけでなくて、大学に所属している人だったら安全配慮義務というものがあって、学生が安全に学べる場をつくる義務があるのに、そういう義務を自分たちは果たさなくちゃいけないという意識が欠落していて、だいたいみんな、学生がハラスメント被害を受けても、その場しのぎで対応してしまう。窓口の人も、上層部の人たちも、忙しいから、めんどくさいから、大学の規則でそうなってるから、とか、あまり深く考えずに行動したことの皺寄せが、全部被害者、一番声をきいてもらえないところにいくということを体感して、「ああ、これって構造的な問題なんだな」と学んだ。それと同時に、「わたしは彼らと同じになりたくない」と思ったんです。

 あと、文学の業界で起こった事件だったから、文学というものに失望してしまった。どんだけ口で綺麗な事語っていても、いざ目の前で誰かの人権が侵害されるようなことが起こったときに、行動力がまったくないのを見てがっかりしたんですよね。議論はするけど行動はしない、みたいな。それで文学に価値が見出せなくなり、社会運動に興味を持つようになって、わたしの場合は特に動物問題に関心を持った。それで勉強会にいって、すぐに工場畜産の問題を知って、牧歌的な「牛さん、豚さん、鶏さん」みたいな、家畜が牧場でのんびり生きてるようなイメージは、現実とかけ離れていて、今の日本でも動物たちは苦痛にまみれているんだ、むしろ世界水準からするとめちゃくちゃ遅れてることを知りました。

乳牛の牧歌的なイメージ
現実の日本の乳牛(写真:アニマルライツセンター)
豚の牧歌的イメージ
現実の豚の飼育(写真:アニマルライツセンター)

 肉でも牛乳でも卵でも、以前は「お店に並んでるんだから大丈夫でしょ」と信頼してたから最初は「騙された」と思ったんですけど、でも、わたしは消費者としてその商品を選択して、買って、消費しているのだから、動物たちからしたら確実に加害者だよなって。これは「知らなかった」じゃすまないと思って、それでまずは肉を食べることをボイコットすることからはじめようと思ったんです。

 それとセクハラを告発してから、しばらくジブリ関係のDVDしか見れない時期があって、そのときに、NHKスペシャルの『人間は何を食べてきたか』という、ジブリがDVD化している番組をみたんです。そこで、ドイツでソーセージというものがどのように作られるようになったのかをやっていて、ドイツだと豚を丸ごと全部利用して、一滴も血を残さないでソーセージにするんですけど、それは冬に作物がなくなって、何も食べるものがない、豚しかない、というときの、文字通り生き延びるための最後の手段だった。それを見て、今ではわたしたち、「肉、食いてー!肉、うめー!」といった感覚は自分の中から自然と生まれてくる欲求だと捉えていると思うんですが、そういう欲求自体が資本主義によって作られたものなんじゃないか、と考えるようになったんです。

 それで最初ヴィーガンになるというときに、何を食べていいのかわからなかったから、マクロビ(玄米菜食)の料理教室にいって勉強して実践していくと、実際に体が作りかえられていくんですよね。マクロビって深入りすると危険思想的なところもあるんですけど、実際に菜食を実践していくと、たとえばヴィーガンになると嗅覚が鋭くなる人が多いんです。魚売り場とか臭いが強すぎて歩けなくなったりするし、わたしは甘党で白砂糖中毒だったんですけど、それまで食べてたスイーツもあまり食べたいと思わなくなってくる。そういう欲求やそれに伴う行動って、食べ物で形成される部分が多いんだなということを実感した。そういうふうにして、日々の食事を意識的に選ぶというところから自分が何に加担をしているのか自覚する練習になると気づいていった感じです。

【マクロビオティック(microbiotics)】
マクロビオティックは、桜沢如一(1893~1966)が、石塚左玄の「食物養生法」の考え方と、東洋思想のベースとなる中国の「易」の陰陽を組み合わせた「玄米菜食」という食事法を提唱したことからはじまった。1950年以降は久司道夫によって体系化され、ニュー・エイジ運動に影響を与えるなど欧米を中心に敷衍。近年になって日本に逆輸入され、動物性食品や精製された食品を控え、「身土不二(暮らす土地の旬のものを食べる)」「一物全体(ひとつのものを丸ごと食べる)」という原則に従う食事法が中心となって流通しているが、マクロビオティックはある種の思想であり、日本の伝統的食文化こそを「正食」とみなすため、ナショナリズムにつながる傾向もある。
*参照 CHAYA macrobiotics HP

* プラントベースの食事および肉食と身体の影響については『ゲームチェンジャー』『フォークスオーバーナイフズ』などに詳しい。


* 上述のメラニー・ジョイによる「肉食主義」の説明はこちらのTedでの講演が有名。




②動物問題の語られ方——『いのちへの礼儀』をめぐって へ



(構成 深沢レナ)


※2023/10/25 一部文章を修正しました。



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