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世界の動物運動から③カナダ編【ゲスト:アニマル・アライアンス・アジア】

*②の続きです。


批判的動物研究


——では次にかほさん、ヴィーガンになった理由や、活動の経験について教えてください。

かほ わたしは日本の岐阜県で生まれ育って、高校を卒業後にカナダに留学して、それからずっとカナダに住んでいます。ヴィーガンになった大きなきっかけは、学部生のときに社会学を専攻していたんですけど、社会学ではいろんな社会問題を扱うので、人種差別や性差別、資本主義や植民地主義によって作り出される差別、階級格差・経済格差などに関しては自然と問題意識はあったんです。わたしの通っていた大学はブロック大学というのですが、社会学のなかに「批判的動物研究学」のコースがありました。大学1年目のときに、たまたまとったグローバライゼーションの授業のなかで、アメリカの社会学者のDavid Nibertの“Animal Oppression and Human Violence” (邦題『 動物・人間・暴虐史―“飼い貶し”の大罪』井上太一訳)という本を宿題で読む機会があったんですね。

 植民地問題を語る際、ヨーロッパ帝国の発展は現在のグローバルサウスの人たちの労働や土地、自然資源の搾取によってなされた、というのは一般教育でも学ぶことだと思うんですけど、この本の中では、人間の搾取だけではなく、動物の搾取というのも大国の発展に絡み合った大きな要因であった、ということが説いてあります。もともと自然界にいた動物たちを飼い慣らし、家畜として育てることによって、人間たちが動物たちに、食べ物だったり、交通手段だったり、それぞれ人間の道具としての価値をつけていったという歴史があって、帝国の資本と土地の拡大と、動物搾取の規模というのがほぼ比例するような感じで進んでいった、という歴史を辿っている本です。それを読んでいって、わたしは人種差別にも経済格差にも環境破壊にも反対だけど、それらを生み出している要因である動物搾取に加担してしまっていることに気がついたんですね。

 小さい頃からわたしは犬や猫を実家で飼っていたので動物のことは好きだったけど、種差別はしてしまっていて、犬や猫に対する暴力はもちろんダメだと思っていたのに、牛や豚や鶏に関しては考えたことすらなかったということを、2017年の秋にこの本を読んで気がつきました。その頃わたしは留学生で経済的に大変で、すぐにヴィーガンになることはできなかったんですけど、2018年の新年の目標として「ヴィーガンになる」というのを決めて、2018年からヴィーガンとしての生活をできるだけしています。

批評的動物研究(“Critical Animal Studies”)の授業の一環では大学の近くのサンクチュアリを訪ねる

 ヴィーガンになる前から、活動はすぐにはじめました。というのも、わたしの通っていた大学はナイアガラにあるんですが、すでに活発に活動がおこなわれていたので、最初にサークルに入って、抗議活動だったり、キャンパス内でテーブルを使って情報のボードを作って、他の学生たちに「こんな問題があるんだよ、知ってる?」と言いながらヴィーガンのお菓子を配ってアウトリーチをしたりしました。日本に帰国したときは、アニマルライツ中部の人たちとキューブの活動や、路上活動、サーカスの前での抗議活動などいろんな活動をしてきました。

大学のサークルBrock Students for Animal Liberation (BSAL)の、キャンパスでのアウトリーチの様子

 エリーさんと似ていると思うんですけど、わたしもインターセクショナルな視点で動物の問題を理解するための英語の情報にアクセスできるという特権を持っていることに気がついたので、2020年くらいから自分のインスタグラムでAll Animals Japanというアカウントをはじめて、インターセクショナルな視点で動物の問題の情報を広める活動もしています。アニマル・アライアンス・アジアでボランティアをはじめたのも同じ時期で、2022年からプログラムコーディネーターとしての役につき、それからは正式に働いています。

 あともう一つ重要なのは他の活動への参加で、わたしはずっと環境正義運動もやっています。さっきエリーさんが言っていたExtinction Leberionに参加してナイアガラのチャプターを作ったし、今は移民・難民のサポートの仕事もしていて、反貧困など、他の運動でのスキルや知識の行き来をしています。どうやって戦略を作るかとか、どうやって政治家にアプローチするかとか、どうやってビジネスにアプローチするか、というのは、どの運動にも関わってくることなので、いろんな活動に関わることでより知識や経験はつけられると思うので、大変ですが楽しくやっています。

2019年に行ったGlobal Climate Strikeの時の様子。かほさんはExtinction Rebellion Niagaraとして抗議をオーガナイズ。
2019年のGlobal Climate Strikeの様子。かほさんの住むSt. Catharinesは人口140,000と小さな市だが、800人ほどが集まった。



活動家と研究者のコラボレーション


——カナダでの動物の運動の状況はどうですか?

かほ アメリカと似て結構活発です。動物福祉の法律は日本と比べるとマシではあるんですが、刑法に、「“Unnesessary pain”(不必要な痛み)を動物には与えてはいけない」という記載があって、与えると罰せられるのですが、何が「必要」で何が「不必要」かというのは人間の目線で決められてしまう。意図的に蹴ったりするのはもちろん罰されるのですが、動物が食べ物として育てられて殺されるというシステム自体は「必要な痛み」とするような解釈が法でも社会でもされてしまっていますね。

——カナダに住んでみて、日本との違いが見えてきたことはありますか?

かほ やっぱりアクティビストの人が多いというのはもちろんですけど、学者の人と活動家のコラボレーションが日本と違って多いと思います。日本でもないことはなくて、井上太一さん、田上孝一さんといった学者の方も動物の話をされているんですけど、カナダでは「活動をどうするか」というレベルでの学者と活動家のコラボレーションもあったりするので、それは大きな違いかと思います。

研究者と活動家のカンファレンス。David Nibert氏がレクチャー。

生田 日本で動物問題をやっている学者が現実に関わるという例はあんまり聞いたことないですね。動物倫理学やっている方はいるけど、実践にある程度かかわるという話は聞いたことすらない印象です。

かほ わたしの大学にある批判的動物研究学のコースでは、コロナの前はカンファレンスが行われていて、学者と活動家を招いて知識の交換が行われたりしていました。わたしも活動に参加したばっかりのときだったので、それが最初に見た光景だったというのは自分には大きな影響があったと思います。

活動家と研究者が集まったカンファレンス。井上太一さんもスピーカーとして参加。

生田 たびたび井上太一さんの名前が出るんですけど、2022年に僕と井上さん含めて日本哲学会に呼ばれて、「動物倫理における理論と実践の関わり」というワークショップをしたんです。そのとき井上さんが言っていたのは、「日本の研究者が実践にまったく関わっていない」という批判でした。日本では動物倫理についてアカデミズムとアクティビズムの乖離が大きい、たとえば、動物倫理学をやっている人でヴィーガンはほとんどいない、といった問題です。

かほ それ、わたしも太一さんと話したことあります。結構大きな問題かと思います。

生田 なので、理論や知識と実践が、日本ではかなり乖離しているんじゃないかという印象は持っています。

かほ わたしもそう感じます。カナダだと、“Animal Justice”というアニマル弁護士のグループもあって、そういう人たちが学者の人たちのサポートも得ながら動物のために法廷に出たり、ロビーイングをしたりといった活動もしているので、さまざまな知識のある方たちが関わってる運動であるという点は、日本と比べると違うと思いますね。

—— 理論と実践が代理してるっていうのはハラスメントの運動 の方でも感じますね。研究者がなかなか支援してくれない。現実の被害者に対して「我関せず」になっちゃって。抽象的なレベルではまともなことを言ってるんだけど、現実の層では特に何もしない人が多いということを、わたし自身も体験しました。フェミニストはまわりにいっぱいいるけど、いざ近くで性暴力が起こっても何もしない、みたいな。栗田さんみたいな人はたぶんすごい例外です 。



フェミニストでヴィーガンはいるの?


栗田 学者と活動家がいい形でコラボレーションしているという話がでましたが、例えばインターセクショナルという問題意識で言うと、それこそ「フェミニストでヴィーガン」というのは当たり前にいる感じです か?

かほ フェミニストの人はどうなのかな。わたしがよく見るのは、アナキストでヴィーガンの人は多いです。ミューチュアルエイド(相互扶助)をしてる人たちが自然とスープキッチンでヴィーガン食を配ったり、彼ら自身がヴィーガンだったりというのはあったりするんですけど、フェミニストでヴィーガンというのはまだマジョリティではないと思います。環境面からベジタリアンになる人はいるんですけど。牛肉はものすごく環境負担が高いシステムになっているから食べない、といった人はいるんですが、「動物の搾取」という面に繋げられているかというと、それはもうちょっと先なのかなとは感じますね。

栗田 そうですよね。それはすごく気になっています。さっき、ゆうきさんが人身売買や性的搾取の問題に関心があるとおっしゃってましたけど 、古代のギリシャ市民は女性を動物だと考えていたということがあって、「そうじゃない!女は人間だ!」というふうにフェミニストがいう際に、じゃあ動物のことをどう捉えるのか?という理論を、わたし自身はあんまりフェミニストの文脈では読んだことが なくて。

 インターセクショナリティを考える時に、「ジェンダーのことを考えたらエコはどうなのか」とか、「エコロジーやアニマルライツを考えたらジェンダーのことはどう考えたらいいのか」みたいな視点が多分必要なんだろうけれど、そういう発想って今まで日本の文献であまり見たことが なく。英語圏ではそういう文献はありますかね?

かほ はい、ありますね。研究者にはそういうの書いてる人はたくさん いて、1番有名なのはキャロル・アダムスの“Sexual Politics of Meats”(邦題『肉食という性の政治学』鶴田静訳)。女性の客体化と動物の客体化を比較して、動物の搾取と女性の性の搾取には似ているところがたくさんあるというのを解いてる本があるんですが、他にもたくさんいます。


大学の図書館にはCritical Animal Studiesの本がたくさん置いてある


アニマライゼーション——人間の動物化


生田 批判的動物研究では、フェミニズムの問題と動物の問題のリンクというのが大きなテーマの1つですよね。

かほ そうですね。それだけの授業があるぐらいなので、大きなテーマの1つでもありますが、こっちでは人種差別との問題ともリンクされることもよくあります。アメリカやカナダはアフリカ人を奴隷として使っていた歴史があるんですけど、奴隷を正当化 するツールとして使われたのが「Animalization=人間の動物化」なんですね。肌が黒ければ黒いほど、動物と近い存在=削除されてもいい存在とされる、そのロジックというのは植民地主義の中で使われてきたツールでもあるので、植民地主義を批判することと人種差別を批判することは繋がっているというのはわたしの大学の授業では強調されていました。

栗田 なかなか日本だとそれをやってる人はすごい少ない……というか聞いたことがない。もしや、レナさんや関さんやわたしが最初なのか、くらいの状態かというのが正直なところですね。

 「動物化」させるということについては、このあいだイスラエルがパレスチナ人を「動物みたいな人間」と言っていて、あれがどう問題なのかというのが重要な話になってくると思うんですけれど。

 前に生田さんが言ってた『ワタシタチハニンゲンダ』という映画があって、あれは朝鮮半島ルーツの植民地差別に対して抵抗する言葉として「私たちは人間だ」って言っているんですが、「あなたたちは動物みたいだ」と言わるからこそ、「私たちは人間だ」って言わなきゃいけないんだけど、でもなんでそこまで「人間だ」って言わないといけないのか。やっぱり差別の運動をやっていると、人間中心主義から逃れるのが難しい、というのが出てきてしまう。

 イスラエルはヴィーガンのものを結構作ってるのに、いざとなったら「動物みたいな人間たち」みたいな形で攻撃を正当化しまっているので、そこは根深いんだなと感じます。

 そして日本はまだその問題すらなかなか共有されてない状況で、正直、わたしの知り合いのフェミニストでヴィーガンっていない。わたしだって全然ヴィーガンになりきれてなくて、確かにアナキストというか昔のヒッピームーブメントの中で、ウィーガンってよりベジタリアンぐらいな感じの人はいなくもない、という感じです。

 インターセク ショナリティは、わたしもずっと重要だと思っているんだけど、でもその中でも、動物というのは攻撃して当然であるような立場として言われている状況が、日本でもまだある。悲しいのが、社会問題とか全然関心ない人がそうならまだ分かるんだけど、社会運動に関心ある人でも、動物の問題はハードルが高い、ということを、皆さんと一緒に変えていきたいなとは思います。



ヴィーガンウォッシュ——絡み合った問題を解きほぐす


かほ クレア・ジン・キムの“Dangerous Crossing”という本があって、その本の1番最後の章で、“We are all animals but we are not all animals”(私たちは動物だけど動物ではない)ということをキムが言っているのですが、今言われたように、もちろん人間は動物の一種ではあるんだけど、じゃあ動物と同じような扱いをされているかって言ったらそうじゃないっていう部分もある。

 さっきも言ったように、なんで「私たちは人間だ」ということを言わなきゃいけないのかというのも、人間至上主義と種差別 は、同じようにヒエラルキーでできているんだけど違ったロジックがあって、それが複雑に絡み合ってしまってるからこそ、そういうこと言わなきゃいけなくなっている。そういうことがあるから、ヴィーガンであることが優越的なものだ、という考えも出ちゃうのかなということも考えてて。イスラエルがヴィーガンウォッシュ——「ヴィーガン」という言葉を使って「自分 たちは“いいこと”をしてるぞ」というアピールができるというのも、それは他の差別が動物差別と繋がってるかをちゃんと理解しきれてないからだと思うんですよね。

 だから、今栗田さんが言われたように、いろんな問題がどう絡み合ってるかというのを、ちゃんと理解していかないと、単純に聞こえるような言葉——それこそ「自分は人間だ」という言葉ですら、他の差別を強化しちゃうことにも繋がっちゃうのかなと思いました。

栗田 わたし今ふと、ぎょっとするようなことを考えちゃったのが、日本の状況だと本当に動物に嫉妬しかねないよね 。要するに、日本人は自分たちが酷い目にあっていて、大事にされてないという感覚が強くなっちゃっているし、みんな被害者というか。人権というものが揺らいじゃっているから、そんな状況で「動物の権利」とか言われると、嫉妬でもしちゃうんじゃないだろうか、と思いました。

——それ、わたしも感じますね。みんなが自分のことを「被害者」と思っているというか、実際みんな「被害者」なんだろうと思うんですよね。何かしらの被害者じゃない人がほとんどいないというか、みんな苦しんでいて、本当に余裕がなくなってしまっていると感じます。



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