時の止まった世界でも水は流れる
十九世紀のイギリスの詩人オランの晩年の日記に、いくつかの幻想的な記述がある。夢だとも創作だとも書かれていないが、幻覚だとも断じがたい。彼は日課である近隣の林を散歩中、突如時間が止まった世界に放り込まれる。空中で鳥は止まり、すれ違った顔見知りが彫像のように固まり、風に揺れて騒いでいた木々が沈黙する。自分だけが動く、時間が凍りついた世界で、それでも川の水だけは流れていたという。
そんなことを思い出したのは、息子に時を止められたからだった。
息子が「ポチッ」と言ってボタンを押すような動作をすると、私はその場で動きを止めて待機していなければならない。再び「ポチッ」と言ってくれる時まで。少し楽な体勢にするくらいは許してくれる。
溜めすぎた湯船のお湯を、まず洗面器ですくって身体にかけている最中だったので、私は動きを止めても、お湯は傾いた洗面器から私の身体に流れた。そこでオランの日記の中の一節が私の中で浮かんだわけだ。
またある日のお風呂の入り際、息子が「ポチッ」と言って時間を止めた。その間彼は、私のズボンやパンツを脱がせたり、開いていたドアを閉めたり、ささっと裸になって風呂場に入っていたり、といったことをする。再びの「ポチッ」で動き出した私が「え、いつの間に!」と驚くパターンだ。
その時は息子の反対側を向いた状態で私はじっとしていた。息子は何やらごそごそして、一人けらけら笑っている。止まった時から解放された私が振り向くと、息子は服を着たままだった。いつもだったら裸になっているのにな、と思いながら、自分で脱ごうとしないので、私が脱がし始めた。
息子のズボンを下ろすと、ちんちんが現れた。先程のいたずらタイム中に、ズボンとパンツを脱ぎ、パンツだけ洗濯機に入れて、再びズボンを履いたのだ。
驚く私の顔を見て、息子は自らの息子を晒しながら笑い転げていた。
引用した詩人オランのフルネームは「ソンナヒト・オラン・フィクション」です。
入院費用にあてさせていただきます。