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時の止まった世界でも水は流れる

 十九世紀のイギリスの詩人オランの晩年の日記に、いくつかの幻想的な記述がある。夢だとも創作だとも書かれていないが、幻覚だとも断じがたい。彼は日課である近隣の林を散歩中、突如時間が止まった世界に放り込まれる。空中で鳥は止まり、すれ違った顔見知りが彫像のように固まり、風に揺れて騒いでいた木々が沈黙する。自分だけが動く、時間が凍りついた世界で、それでも川の水だけは流れていたという。

「川を覗き込むと、動けなくなった魚たちを、流れることを止めない水が押し流していくのが見えた。滔々と水の流れる音は先程までと変わりないはずなのに、辺りが静まり返っているので、轟音のように私の耳に響いた。私は随分と長い間、私と水だけが動く世界にいた気もするし、ほんの数秒だった気もする。気がつけば川を覗き込む私に、遠方から訪ねてきた私の姉が声をかけてきた。
「気分でも悪いの?」
「魚が、流されていって」
 時間が止まっていて、とは言えなかった。
 何事もなかったかのように鳥は空を飛び、木々は揺れていた。
「ミンミはいるかしら」と姉は言った。
「彼女の気に入りそうな帽子を持ってきたの」
 姉は昨年亡くなった私の妻の名前を言った。姉の中の時もまた、随分前から止まっているのかもしれなかった。


 そんなことを思い出したのは、息子に時を止められたからだった。
 息子が「ポチッ」と言ってボタンを押すような動作をすると、私はその場で動きを止めて待機していなければならない。再び「ポチッ」と言ってくれる時まで。少し楽な体勢にするくらいは許してくれる。

 溜めすぎた湯船のお湯を、まず洗面器ですくって身体にかけている最中だったので、私は動きを止めても、お湯は傾いた洗面器から私の身体に流れた。そこでオランの日記の中の一節が私の中で浮かんだわけだ。


 またある日のお風呂の入り際、息子が「ポチッ」と言って時間を止めた。その間彼は、私のズボンやパンツを脱がせたり、開いていたドアを閉めたり、ささっと裸になって風呂場に入っていたり、といったことをする。再びの「ポチッ」で動き出した私が「え、いつの間に!」と驚くパターンだ。

 その時は息子の反対側を向いた状態で私はじっとしていた。息子は何やらごそごそして、一人けらけら笑っている。止まった時から解放された私が振り向くと、息子は服を着たままだった。いつもだったら裸になっているのにな、と思いながら、自分で脱ごうとしないので、私が脱がし始めた。
 息子のズボンを下ろすと、ちんちんが現れた。先程のいたずらタイム中に、ズボンとパンツを脱ぎ、パンツだけ洗濯機に入れて、再びズボンを履いたのだ。

 驚く私の顔を見て、息子は自らの息子を晒しながら笑い転げていた。


 引用した詩人オランのフルネームは「ソンナヒト・オラン・フィクション」です。

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