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楢山孝介としての「きらら携帯メール小説大賞」思い出話

 入院生活13日目。なんだかもう遺言めいたことでも書き残しておいた方がいいんじゃないかと。いや命に関わる病気ではないのだけれど。

「きらら携帯メール小説大賞」は小学館が発行していた文芸誌「きらら」誌上にて募集されていた掌編小説の賞。当時流行していたいわゆる「ケータイ小説」の賞ではなく、「携帯からメールで応募できる掌編小説の賞」であった。以下ウィキペディア「きらら」文学賞より当該箇所抜粋。

小学館の月刊文芸誌『きらら』で、創刊から5年にわたって続けられた賞。2009年4月20日締め切りの第60回をもって募集終了となった。第59回(2009年3月20日締切)までに寄せられた作品は計21769編。[1]
ジャンルは問わず、字数500から1000の掌編小説を募集していた。毎月締め切りがあり、応募は1か月につき1人1作品までとされた。選考委員は、佐藤正午、盛田隆二、および「きらら」編集部が務めた。

発表は翌月の『きらら』および『WEBきらら』で行われた。月間賞として、毎月の当選作には賞金3万円、佳作10編に1000円分の図書カードが贈られた。また、大賞として1年間の月間賞の中からグランプリが選出され、賞金10万円と記念品が贈られた。

Wikipedia「きらら」携帯メール小説大賞 より

 
 一部間違ってますね。グランプリは半年間に一回の選出でした。

 当時使用していた筆名「楢山孝介」で投稿を始めたのが2007年。初投稿「山下グレコ」で佳作を、その後「最後の海」で月間賞、「鳥男」で月間賞&グランプリを獲得します。noteでの「ピリカグランプリ」受賞作である「『指の綾子 』考」

に出てくる、「うろ覚えの掌編小説『指の綾子』」は、グランプリ受賞後の回で佳作を受けた作品でした。

 グランプリ受賞時に副賞としての三万円分の商品を選べます。当時の「きらら」編集者様と同行して、梅田のヨドバシカメラで炊飯器を購入しました。実家の炊飯器の調子が悪くなっていたので。

 同時に鉄板焼を奢ってもらい「ぜひ長い小説も書いて一緒に本を作りましょう!」などとお声をかけられたのですが、私は長い物を書けることはなく、そのままに。

 普通グランプリを受賞したなら賞への投稿は卒業して、次のステップに進むべきだったのでしょうが、私は性懲りもなく同賞に送り続けました。最終選考、佳作の常連となりましたが、再び月間賞をいただくことは最後までありませんでした。

 当時の受賞作のデータは家にある古い方のパソコンに眠っているかもしれませんが、現在入院中のため発掘はできず。

「山下グレコ」
「最後の海」
「鳥男」
「指の綾子」
「千年樹」
「人の歌声」
「鼠」
「雲の降る日」

 ネットの海から拾えた題名&思い出せたもの、を並べてみましたが、もっともっとあったはず。

 同時期に私は詩誌「詩と思想」へも投稿をしており、そちらでも掲載常連となっていました。

 当時の自分がなぜ認められやすかったかというと、
・1日1編詩を書く
・詩誌向けに3編選んでブラッシュアップ
・「きらら」向けには掌編の原案向きの詩を選んで小説化

 というプロセスを毎月経ていたからと思います。投稿する1編に対して30編の下敷きがありました。「きらら携帯メール小説大賞」はメルマガで選考結果を速報していました。最終選考30編に残れば、一定水準以上のものが書けている、という手応えを感じることができました。自作に対する評価基準というのは、この頃培われたと思います。

 2009年に賞が終了し、その後私も当時の勤め先が潰れたりして生活が不安定になり、名前も捨て、ネット上で繋がりのあった方とも関係が切れてしまうことになります。その節は誠に申し訳ありませんでした。

 私と同時期にグランプリを争った岡部えつさんはその後プロデビューし、現在でも作家として活躍されています。

 賞は毎回300〜500編程度の応募数がありました。今でも当時の名で書き続けられている方や、名前を変えて創作を続けている方もおられると思います。もしもかつての参加者の頭の片隅に「楢山孝介」の名が残っていれば、現在は「泥辺五郎」という名で何かしら書いていますよ、と伝えるために、この文章を記しました。

※当時の縁からnoteで再会したのが、武川蔓緒さんになります。

 家に帰ったら古い原稿を発掘してみようか。
 いつになったら帰れるんだ。

(了)






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