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リラックスを侮らないで

何か嫌なことがあった時、何かがうまくいかない時、「なんで?」「どうして?」と考えることは、誰しもあるんじゃないでしょうか。

「なんで?」「どうして?」が、周りの人や会社、社会など自分の外側の「環境」に向かうケースもあれば、自分の内側という「個」に向かうケースもあるでしょうが、どちらにしてもつい考えてしまう裏には、原因を知りたいという気持ちがあるように思います。

なぜ原因を知りたいかというと、おそらく、何かしらの納得がほしいか、あるいは改善のための対策を練りたいか。

人はよくわからないことに不安を感じるので、因果関係を整理できれば安心できますし、良い対処法も思い浮かびそうな気がします。

でも、実際には、原因を突き止めて何かしようと懸命になることが、結果的に本人を苦しめているように見えることも少なくありません。

そもそも、動作学的に見たら、原因なんてまずわかりようがないのに…。

出来事を起こす要因は一つじゃない

たとえば、恋人と喧嘩したという出来事を見てみます。

その喧嘩が起こったのは

「自分」×「環境」
   ×
「恋人」×「環境」

というふうに、それぞれの掛け合わせがさらに掛け合わさった結果です。

「自分」の中には、お腹が空いていたとか、疲れていたというようなさまざまな要素がありますし、自分を取り巻く「環境」にも、室内が暑かったとか、着ている服の肌触りが不快だったとか数えきれない要素があります。

「恋人」についても同様に「個」の要素と、「環境」の要素があります。

そういういろんな要素が複雑に細かく相互に作用して喧嘩という出来事が起こった…というふうに見てみると、極端な話、自分が朝ご飯を食べていたら喧嘩は起きなかった可能性も出てくるんですよね。

もちろん、考え方の癖など、深く探っていく価値のある要素があることも確かなのですが、一方で、朝ご飯を食べていたら起こらなかった程度のことだったかもしれない、という見方もできると、ちょっと肩の力が抜けると思うんです。

生命のシステムは、肩の力が抜けている時に(=安心安全を感じている時に)、本来持っているパワーを進化成長する方へとより使えるようになりますから、何か大きな物事に向き合いたい時ほど、原因探しで自分を追い詰めず、「まあ、いろんなことが重なってこうなったんだわね」と大らかに構えて自分を心地よい状態にしておくということが、つい忘れがちだけど大事なことじゃないかと思うんです。

嫌なこと=悪いこと、ではない

もう一つ、原因探しが苦しそうに見える理由は、原因を探すことが、ともすると「起こった出来事は良くないことである」「何か正さなきゃいけないことがある」という考えとセットになりがちだからでしょう。

恋人と喧嘩した、それは不愉快なことだし、できればまた起こしたくはないことかもしれないけれど、だからって喧嘩が悪いことかというと、それは捉え方次第なんですよね。

起こったことを悪いことだと捉えていると、悪いことが起こっている前提だから、生命のシステムが行うインプット・プロセス・アウトプットもその前提で行われることになって、結果として出てくるアウトプットも悪いことが起こっている延長になっちゃうんです。

もちろん、嫌なことが起こるのは嫌なことで、嫌な気分になって当然だし、嫌な気分になっているのにそれを良いことだったと思おうとするのは無理があります。

じゃあ、何をするかというと、「その出来事が良いことだったとしたら」という視点で、もう一度その出来事を見直してみるんです。

言い変えると、インプットの質をポジティブにする、ということです。

最初はちょっと難しけれど、「これが良いことだとしたら」という視点で見直してみると、「なんで?」「どうして?」と混乱していた状態から、少し落ち着いた状態に変わることをすぐに感じられると思います。

あくまで理屈上ではですが、何か根本的な対処が必要な場合は、生命のシステムが感性の囁きとしてやるべきことを訴えてくるはずなんです。

とすると、囁きがちゃんと出てくる状態、その囁きをちゃんと受け取れる状態に自分をしておくことこそ重要で、リラックスは侮れません。

リラックスした心地よい状態から、「どうありたいか」のゴールを再確認すれば、生命のシステムはもうそこに向かいはじめる…その仕組みとプロセスをもっと信頼していいんじゃないかな、と改めて思っています。