動員型国家の超克

動員型国家の超克

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  • リベラリズムの行き先

    リベラリズムやメリトクラシーへの「反感」をどのようにすれば制御できるのか?

  • 認知科学と分析哲学

    認知の不思議さと分析哲学にまたがるアジェンダについて話していきます

  • 経済の有り様について考える

    日本経済のあり方が末期症状を見せる中で、何とか「その先」に行く方策について考えたいと思っています。

  • 歴史書を読んで考える

    歴史に関する書籍を読んで、思いついたことを徒然に書き連ねています。

  • AIの倫理、AIの経済性

    AIの技術的な面ではなく、社会実装面での問題や、その限界について、徒然に書いていこうと思います。

最近の記事

「生政治」に対抗する「くじ引き」

 「生政治」、つまり、死なせないためにコントロールする政治は、人気投票による選挙制議会が生み出している。多数派の「鋳型」に閉じ込めて、死なせないようにする。同時に、このメカニズムに、人気投票で選ばれた当人たちも絡めとられていく。    また、専門知=試験にる選抜機構も、この「絡み」を打破する方向に、結局は作用しなかった。むしろ、メリトクラティックな選抜によって、部分社会は同質化し、強化されていった。  では、突破口として、「くじ引き」は作用するか?  組織や部分社会の「ふち

    • 「平均的な子ども」は存在しない~「平均(時代、思想)の終焉」

      「ハーバードの個性学入門」という翻訳本があります。この本の原題は、「The End of Average」で、「平均(時代、思想)の終焉」と訳せますが、この原題の方が、この本の雰囲気をうまく表現していると思います。   目次平均的なパイロットなんて、いなかった! 平均に合わせた保育は、全員に不適合 個性に関する3つの原理 平均的なパイロットなんて、いなかった!  さて、この本は、次のような、とても印象的なエピソードから始まっています。  昔、飛行機のコクピットの寸法が

      • 保育「領域」の実在性を統計学的、分析哲学的に考えてみると

        領域と因子分析 「保育」という活動分野において、目標とされているのは、子どもの安全で健康的な生活の確保となる「子どもの充足」(いわゆる療育)と子どもの成長をサポートする「子どもの発達」(いわゆる教育)ということになる。  後者の「子どもの発達」を、21世紀の20年代において、ある程度、科学的、「客観的」(これは、エピソード記録の賞揚の背後にある現象学的に発達を記述しようとする性向とは異なるという意味合いを含んでいる)に把握する場合には、「尺度」を用いた技法となるであろう。  

        • 哲学系と心理科学系の感情論

           感情を考える学問分野としては、哲学系と心理科学系の2方向が存在していると言えるだろう。  哲学系で考えるとは、基本的には、特に分析哲学的に「感情」という概念を磨き上げるということである。直感的に把握している「感情」言葉には、その含意を詳細に検討すると、矛盾する部分が多く含まれている。そういった矛盾を発見し、無矛盾の概念体系を彫琢していくのが、哲学系の感情論となる。その結果、従来の感情というものに帰属していた属性が大きく見直されることもある。というよりも、それが哲学系感情論の

        「生政治」に対抗する「くじ引き」

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          12本
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          6本
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          8本
        • 国際経済の中で生き残る日本
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        記事

          労働者協同組合とDAO

           労働者協同組合は、DAOと親和性が高いのではないかと漠然と考えていた。  しかし、経営と労働従事を極力近づける仕組みであるから、関係性の広がりを志向するDAOとは、実はあまり相性が良くないのかもと思い直した。 労働者協同組合とDAOが「噛み合う」のは、 ・意思決定サイクルがものすごく短い場合で、少人数でも対面の合意形成が難しい場合 ・事業、業務の内容がスマートコントラクトによる自動実行の面が強い 場合 という場合かなと思う。 また、労働者協同組合法では、投票

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          「理不尽な進化」とグレゴリー型生物である人間

           吉川浩満氏の論じる「理不尽な進化」「理不尽な絶滅」という進化メカニズムの実相と、デネットのいうグレゴリー型の生物として、パーツを複合した道具に依存した機械文明環境に過剰適応した人間という存在様式を重ね合わせると、機械文明を構成する物的リソースが使えなくなった時に、人間という存在は「理不尽な絶滅」に見舞われるということになろう。  ある環境条件に最適応した存在は、その環境がある時、偶然に壊れてしまえば、その環境とともに退場するしかない。要は、99.9%の種は消滅してきたのであ

          「理不尽な進化」とグレゴリー型生物である人間

          宮崎史学から見た日本史の時代区分

           宮崎市定は、「古代」の特徴を都市国家又はその連合体に、「中世」の特徴を貴族制という地方の面的社会支配の優越に見出した。では、日本史における「古代」とは、どう位置づけられるのだろうか?  平安後期は貴族制の全盛期とされるが、宮崎史学のフレームワークからは、「中世」ということになる。そして、それが院政期を挟んで、少なくとも戦国期まで継続しているということになる。院政期、すなわち11世紀からを日本の中世と考える枠組みも大分、普及しているので、それを藤原摂関時代という貴族制期にまで

          宮崎史学から見た日本史の時代区分

          都市社会学、都市認識における空間論的転回

           社会現象が都市空間の特定の箇所という物理的な客体と相互に紐づけて認識されるようになったのが空間論的転回。  それまでの「都市という社会のなかで起こっている現象を理解する」ことが目指されていた視座では、その現象の理解のために主体と構造に着眼点が置かれており、もろもろの社会現象の舞台としての都市は、いわば自明視されていた。  しかし、その自明視に対し、都市という空間が社会的な現象を発生させ、また、社会が都市という空間を生産、破壊しているという、社会と空間の相互作用に着目して

          都市社会学、都市認識における空間論的転回

          上野千鶴子「近代家族の成立と終焉」

          上野千鶴子の「家父長制と資本制」は、新生児80万人割れという、日本社会の再生産の危機において、まずは繙くべき書だと思う(といって、出産が個人の意志決定であることは論を待たない)。 その次に読むのであれば、「近代家族の成立と終焉」だろう。各方面の社会科学の研究によって、「伝統的」という言葉がどれほど根拠のないものであるか、社会構造や生活様式がどれほど短時間で変化するかが立証されているが、本書も、現在の各種の制度の前提となっている「家族」像が、いかに短期間の通用性しかなかったか

          上野千鶴子「近代家族の成立と終焉」

          政治参加意欲の相移転を目指して

          政治が実施する政策を、何とかして、リバタリアン的性質の強い状態から、地に足のついたリベラルや地球規模の環境制約をも意識したコミュニタリアイズムにもっていく行くことを目指している。 代表制民主議をある程度認めても、行政執行をコントロール・統制する必要がある。くじ引き民主主義の場合でも、それは同じ。 となれば、行政執行をコントロールする組織体の基盤が、広く厚いものでなかればならない。そのために、市民全体の政治参加が向上しなければならない。なんとなれば、行政執行の監視には、コスト

          政治参加意欲の相移転を目指して

          因果を知りたがる統計分析と予測したがる機械学習

          統計的手法としての機械学習 AIとか機械学習という言葉がニュースなどを通じて、耳目に達することが多くなっている。とはいえ、AI、人工知能、機械学習というと、グーグルのような最先端の大企業での遠い話、あるいは、むしろうさん臭いSFのような話で、眉に唾して話しを聞かないといけないというイメージを持たっている方も多いであろう。過去に何度か人工知能ブームというものがあったものの、ものにならなかった歴史があるのも事実であり、そのような感想を持つのは、ある意味では健全であると言えよう。

          因果を知りたがる統計分析と予測したがる機械学習

          デュケームから嫌リベラリズムを考えると。。

          「交換価値」とは、使用価値(財の個別性)を捨象して、共通性として、「交換できる」という属性だけをくくりだし、形式的に統一価値を概念したもの。そこに「人」を適用すれば、人の個体としての意味や意義を捨象して、高価価値を生み出すという属性から交換性を見出す「労働力」という共通性だけで位置づけることになる。 社会学者のデュルケームは、このような展開を近代化のポジティブな側面として考えた。人は人であるという共通性のみで概念化することができ、つまり「人である」という属性=人格(保有性)

          デュケームから嫌リベラリズムを考えると。。

          所詮、制度は制度でしかない

          リバタリアンのような所有権絶対というのは、普遍的なものではなく、イデオロギー、あえて選択された前提条件の主張でしかない。 所有権「制度」とは、所詮、制度であって、インセンティブメカニズムとして、特定の条件の元で有効であると評価できるだけ。 よって、必要に応じて制度の内容は修正されるべき。 要すれば、帰結主義に沿って所有権制度も考えるべきなのであり、これが、日本国憲法の「公共の福祉」という文言に忠実な思考だと思う。

          所詮、制度は制度でしかない

          文化資本への対抗方略とは?

          文化資本に基づく「闘争」に対する対抗方略として、「歴史を知れ」があり、これは納得できる。端的に言えば、これはフーコーが提唱した「脱構築」「知の考古学」によって、文化資本の価値が象徴的に受容されている状態を相対化するべしということになる。 しかし、序列化への対抗方略は、いわば複数の「界」を作ればよいといっているだけにも思える。この点で、2つ疑問がある。 ①そもそも、界は、どのように生み出せるのか? ②新しい界の中で、新しい序列化が生じるのでは? 「歴史を知る」ことで

          文化資本への対抗方略とは?

          隠ぺいされてこその「文化資本」

          ブルデューの文化資本には、操作的定義がなく、具体的な計測方法、つまり個別要素を積み上げた総量を個人間で比較する方法が明確に定められていないので、「使えない概念」なのではないかと思っていた。 しかし、ブルデューは、これらの資本は象徴化され、それが存在していることを認識されない形で知覚されていることに価値があると考えていた。「隠ぺいされている」が故に、意味があるのであり、「あからさま」に計測された瞬間に階級を構成する威信として作用しなくなる。文化資本とは、一種の「オーラ」(ベンヤ

          隠ぺいされてこその「文化資本」

          大学教育への公的支出の増加の是非

           大学教育が、当該者の生涯所得を向上させるという計量的結果から、当該者の大学学費よりも多い税収をもたらすので、合理的であるという議論がある。  この際に注意しなければならないのは、その生涯所得の向上が、マクロ経済の向上とつながっているのかという問題だ。大卒者の所得が増加したとして、その増分がどこから来たのかによって、議論の方向が全く異なってくる。 1:実際には、ゼロサムゲームで、マクロ経済の増加が生じているのではなく、大卒者に有利な配分がなされるようなルールとなっているだけ

          大学教育への公的支出の増加の是非