【短編小説】白い紙と黒い絨毯

「で、用を足してすっきりしたところで、紙がないことに気づいたの。どうしようかと思っていたら、外から不気味な声が聞こえてくるんだって。赤い紙がいいかー、青い紙がいいかー……」

「あ、それ知ってる。赤い紙を選んだら全身血まみれになって死んで、青い紙を選んだら体中の血を抜かれて真っ青になって死んじゃう、って話でしょ。有名じゃん」

「だってもう怖い話なんて思いつかないんだもん」

 ふて腐れるミカに、カエコは苦笑を浮かべた。

 そこはキャンプ場だった。もう一人の親友であるエリカと三人で遊びに来ていた。整備され、管理人も常駐する施設なので、女性同士でも安心して来ることができる場所だった。

彼女たちは夕食にバーベキューをして、お腹が膨れたところで誰ともなしに怪談を始めようということになった。各々がいくつか話を披露して、だんだんとネタが尽きてきたところだった。

「じゃあ、そろそろ寝る?」

「それはいいんだけど、遅くない?あの子なにしてんだろ」

 ミカが言うのはエリカのことだ。怪談の途中、お腹が痛いと言って席を外してからずいぶん経っている。

「そういえばそうね」

 スマホで時間を確認してから、

「ちょっと見に行こうか」

 二人は連れ立って歩き出した。

 


キャンプ場の外れにトイレはあった。公園などでよく見かけるタイプの建物だ。男女別で左右に分かれている。二人は右側へと進んだ。

 外観は古いものの中は清掃が行き届いていた。ただ照明が時折息をするように明滅するのが心もとない。

 五つ並んだ個室のいちばん手前の扉の前にスマホが落ちていた。ミカがすぐにそれに気づいた。

「あ。あれエリカのだ」

 近寄り拾い上げると電源が入ったままだった。それどころかカメラのアプリが立ち上がり、動画の撮影中になっている。

 とりあえずミカはボタンをタップして撮影を停止させた。その瞬間、キャッと言ってスマホを取り落としそうになった。

「どうしたの?」

 カエコが問うと、

「スマホに虫が」

「虫?どんな」

「蟻よ、蟻」

「なんだ。蟻の一匹くらいたいしたことないじゃん」

 言いながらカエコはミカの手からスマホを取り上げると、画面を這っていた小さな虫を指先で弾き飛ばした。

「それよりスマホをこんなところに落としたままどこ行っちゃったんだろ」

「エリカー。いるのー?」

 ミカが全ての個室に聞こえるように声をかけた。しかしどこからも返事はない。

 カエコは順に個室の扉を押していく。いちばん手前だけが開かなかった。

「ねぇ。いるの?」

 問いかけても返事はない。

「中で何かあったのかも。管理人さんに連絡しようか」

 言いながら自分のスマホを手に取るミカをカエコが止めた。

「ちょっと待って。その前に、これを確認したほうがいいかも」

 彼女はエリカのスマホに視線を落とすと、

「あの子のいたずらって可能性もあるし」

 電源は入ったままになっていた。その画面をタップし、先ほどまで撮影されていた動画を再生する。

いきなりエリカの顔が大写しになった。

『はーい、ミカにカエコ。なにバカなことやってんのよ。あんたたちのいたずらだってことはバレバレなんだから。そのへたくそなお芝居を、ちゃんと記録してあげるからねー』

 個室の中にいるせいか、ひそひそとした話し方だった。その動画には別の誰かの声も混じっているが、何を言っているのかまではわからない。

 ミカとカエコは首をかしげつつ顔を見合わせた。

「私たちのいたずら?何言ってんだろ」

 スマホに視線を戻すとカメラのアングルが変っていた。扉の隙間から個室の外を撮ろうとしているようだ。しかしそれはうまくいかず、光の筋がピンぼけで映るだけ。それでも音声だけは聞こえてくる。

『赤い紙がいいか……。青い紙がいいか……、それとも白い紙がいいか……』

 間延びした不気味な声に、カエコは思わず動画を一時停止した。二人は再び顔を見合わせると、

「今の誰?」とカエコ。

「わかんない。エリカのいたずらじゃない?声色を変えているとか」

「そうかな。こんな変な声、出せる?それに個室の外のほうから聞こえてくる感じじゃない?」

「言われてみればそうかも」

 生唾を飲み込んだカエコが一時停止を解除する。

『赤い紙がいいか……。青い紙がいいか……、それとも白い紙がいいか……』

 同じセリフが何度も繰り返される。

「これって、さっき私が話した怖い話と同じよね」

「でも、白い紙って?そんなの話しの中にあった?」

「知らない。私も初めて聞いた」

「じゃあ白い紙を選んだらどうなるんだろ」

 二人して首をひねっていると、

『それなら白い紙をいただこうかしら』

 スマホからエリカの声が聞こえた。カメラは扉と天井の間の空間を撮っている。そこからひらひらと白いティッシュのような紙が舞い込んできた。

 その直後。

『ヒッ』

 何かに怯えたような悲鳴が聞こえたかと思うと、ガラガラという音と共に画面が大きく揺れた。どうやらスマホを床に落としたようだ。うまい具合にカメラが上向きになったおかげで、足元から見上げるような角度でエリカの姿が映し出された。

 なぜか彼女は慌てた様子で体中をばたばたと叩いていた。まるで何かを払い落とそうとでもするように。

「なにしてんだろ」

「さあ」

 二人とも怪訝な顔で画面を見つめる。

 当初エリカはしきりに顔や手の甲をさすりながら『痒い痒い』と口にしていた。しかし次第にそのセリフは『痛い痛い』へと変化する。

 彼女は必死の形相でトイレの扉を開けようとした。ところがガタガタと音がするばかりで一向に開かない。

 やがてエリカは気でも狂ったかのように全身をかきむしり始めた。かきむしりながらドアに何度も体当たりをするが、それでも開かない。

 そうするうちに彼女は力尽きたのか、泣きながらその場に崩れ落ちた。うずくまるエリカの背後には黒い壁が見える。気のせいかその壁は動いて見えた。

「ねえ。なにこれ」

「わかんないわよ」

 短く会話した彼女らの視線は画面に釘付けになったまま。その表情は徐々に険しくなっていく。

 エリカは駄々をこねるように手足をばたつかせていた。その音に混じり、彼女のもがき苦しむ声も聞こえてくる。

 唐突に映像が激しく回転した。数秒後に動きが止まった画面にエリカの姿はなく、天井で明滅する照明だけが映っている。どうやらスマホは扉と床の隙間から個室の外に出たようだ。恐らく彼女が振り回していた手足のどこかがあたり、弾き飛ばされたのだろう。

『ドンドンドン』

 スピーカーから激しくドアを叩く音が聞こえた。

『誰か助けて!』

 エリカの悲痛な叫び声だった。

『助け……』

 再び叫ぼうとしたのだろうが、それはもごもごと口内が何かで満たされたような感じで掻き消えた。

『ンー……ンー……』

 漏れてくるうめき声は次第に薄れ、ついには聞こえなくなった。

「やだ。どうなってんの、これ」

「いたずら……じゃないよね?」

「それなら手が込みすぎでしょ」

「だったらなに?」

「わかんないわよ」

 ミカとカエコが見つめる小さな画面には、依然として天井の照明が映し出されていた。それを捉えていたカメラのレンズの上を何かが通り過ぎた。だが近すぎて焦点は合っていない。

「今の、なにかしら」

 カエコは左右に首を振って見せるが、その表情には何か心当たりがありそうだった。

「なに。どうかしたの?」

「これって……」

 カエコが言いかけたところで、スマホのスピーカーから足音が聞こえてきた。それに続いて、

『あ。あれエリカのだ』

 それはミカの声だった。

 足音が近づき、スマホを掴もうとする手が映りこんだ。

 画面が大きく揺れたあと、トイレの床が見え、そこで動画は終わった。

「やだ。これって、ついさっきのことじゃない」

「ドアが開く音は聞こえなかったわよね?ということは、エリカはまだこの中にいるってことよ」

「ちょっとエリカ!」

 ミカは開かない扉をドンドン叩いてから、

「いたずらなら大成功よ。だからもう出てきて」

 しかし応答はない。

「ちょっと手を貸して」

 言いながらカエコが扉の前に立った。

「なにするの?」

「上から中を見てみるの」

 カエコは扉の上端に手をかけると、ミカに支えてもらいながら身体を引っ張り上げた。両脇で扉を挟むようにして上半身を固定すると、恐る恐る個室の床に視線を落とす。

 和式便器の横で何かがうずくまっていた。人の形に見えるが、表面が影のように真っ黒で、その正体は判然としない。スマホの動画を思い出してみれば、位置的にはそれがエリカのはずなのだが。

「エリカ!」

 カエコが呼んでもなんの反応もない。

 彼女は目を凝らした。

 なぜだろう。それ自体は動いていないのに不思議と動いて見える。

 スマホを片手に握り、そのライトを点けた。

 ぼんやりとした丸い光に黒い物体が照らし出される。

 その正体を目にした瞬間、背中に怖気が走った。

 声にならない声を漏らし、カエコは身をのけぞらせる。

 そのせいでバランスを崩し、床に転げ落ちた。

「ちょっと危ない。どうしたのよ」

 尻餅をついた状態のカエコはそのままの体勢で後退りをする。

ミカは手を差し伸べようとするのだが、その表情を見て身を強張らせた。

「え?なにがあったの?エリカはいたの?」

 カエコは無言のまま、ぶるぶると首を振った。そして、今見たばかりの個室を指差す。

 ミカが怪訝な顔でゆっくりと振り向いた。

 扉と床の僅かな隙間。

 そこから何かが這い出てきた。

 うねうねと動く真っ黒な何か。

 大きな軟体動物のように見える。

 だがすぐにそれは小さな生き物の集合体だとわかった。

 蟻だ。

 わらわらと蟻は群れを成して個室からあふれ出してきた。

 一匹なら足音など聞こえるはずもないのに、これほど大量の蟻が行進するとガサガサガサと耳障りな音が辺りに響く。

 ミカとカエコは抱き合うようにしながらトイレの建物から転げ出た。

 蟻の大群は真っ黒な絨毯となって、二人の横を通り過ぎていく。

 彼女らは自分たちに被害が及ばぬよう、ただ息を殺してじっとするしかなかった。

 


 どれほどそうしていただろう。

 いつの間にかあたりは静かになっていた。

 蟻の大群は暗闇へと姿を消していた。

 それでも二人はしっかりと抱き合ったままだった。

 カエコが管理人を呼んだ。彼女らの父親ほどの年齢の男がやって来た。

 夜更けに呼び出されたせいで、二人の話を聞く間も終始不機嫌だった。

 トイレの扉を開けてくれと懇願してもなかなか首を縦にはふらなかった。そもそも彼女らの話を信用していない節があった。

 それでも二人が引き下がらないものだから、男はしぶしぶという風に個室の上から中を覗き込んだ。それでその態度は一転した。

 男は大慌てで管理事務所に帰り、バールを手に戻ってきた。

 扉をこじ開けると、奥の壁にもたれかかるようにして骸骨がうずくまっていた。

 それはエリカの服を纏っていた。

 その頭骨に一匹の蟻がたかっている。

 蟻は僅かに残った肉片にかじりついていた。

「どうしてこんなことに……」

 狼狽する男の後ろで、ミカとカエコが呟いた。

「白い紙を選ぶと、」

「白骨化して死んじゃうのね……」

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