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私服の変化と年齢と心

 私の私服はアメリカンカジュアル(通称:アメカジ)一辺倒でした。

 “ファッションとは我慢だ!”と、誰かが言っていた気がします。その受け売りで私の私服は常に我慢と隣り合わせでした。ガチガチのデニムや、肩が凝るほど重たいレザージャケットなどなど、通が見れば思わず唸るヴィンテージや逆輸入の衣服を常に身につけていました。しかし、興味が無い人間が着るとあまりの重量や生地の硬さに違う意味で“う〜ん……。”と唸るようなそんな衣服ばかりだったのです。

 身につける衣類というのは年齢を取るにつれ、色合いが大人しくなり、地味になっていくのがセオリーです。しかし、私を含めたアメカジファンというのは数十年と、同じ硬いデニムに硬いワークシャツやネルシャツ、重たいレザージャケットを着ているイメージがあります。アメカジの利点というのは、世代や年齢という壁を超えても楽しめるという部分にあると私は思うのです。

 また、私はアラサーを迎えて感じつつある“老い”に対抗したいという気持ちもありまます。この位の年齢になってくると“私も大人になったからさ…。”だとか“少し落ち着こうと思ってさ。”などと、今まで散々尖った私服だった友人知人達が、揃ってファストファッションを身につけるようになってくるのです。しかし、歳を取ったからといって、自己表現の一部でもあるファッションを地味にする理由になるのでしょうか?私はどうもそれが理解出来ない部分があったのです。


 そんな私ですが、先日パートナーに服を買って貰うという機会がありました。

 “少し大人っぽい格好をしてみたら?”と言われたのが事の発端です。しかし、先述した通り、アメカジというのは老若を超えて着れるのが魅力だと私は思います。従って、この先の人生数十年を、アメカジで生きて抜こうとと思っていた私は、今でも十分大人じゃ無かろうか、今の服装はまだ過度期だぞと、全くパートナーの言うことがピンと来ませんでした。

 しかし、物は試しです。頭の先からつま先までパートナーの思う“大人っぽい服”をチョイスして見繕ってもらう事にしました。

 私の私服は頭は普段からNEW ERAに代表されるようなフラットキャップを着用していました。ハードワックスで髪を整えて貰いました。

 私の私服のアウターは常に重たいレザージャケットや、頑丈なミリタリーモデルでした。スラリと細身のシルエットのロングコートになりました。

 私の私服のインナーは決まって、ワークシャツや厚手のチェックシャツ、或いはフーディーでした。タートルネックのセーターになりました。 

 私の私服のボトムスは、デニム一択でした。ストレッチ素材でスリムのスラックスになりました。

 私の私服のシューズはレザーブーツかコンバースでした。アウトドアを感じさせる高機能ハイカットスニーカーになりました。  

 文字通り頭の先から爪先まで、私が今まで見向きもしないような服になったのです。


 本音を言えば気に食わない部分だらけでした。タートルネックのセーターは首元がチクチクするし、スリムのスラックスなんて足が締め付けられるようで、早く脱ぎたくて仕方がありませんでした。ヘアーセットは面倒だし、靴もなんだか足が気持ち悪くて、今自分が土の上なのかコンクリートの上なのかが伝わってきませんし、何よりも鏡に映った自分は“如何にもミドルに足を突っ込みました!”って感じがして“老い”を現実に如実に感じさせるのです。

 しかし、なんでしょうか?この“楽さ”“シックリ感”は。

 衣服が軽くなったからとか、生地が柔らかくなったとか、それだけの問題ではなさそうです。理由は分かりませんが、没個性というのは、非常に精神的に楽なのです。

 そしてどうやら、こういった落ち着く没個性的なファッションというのはパートナーのみならず、基本的に他人からもウケがいいようで、友人や知人からも“イメチェンしたの?そっちの方が似合ってて良いね”なんて言われる始末です。

 私はアメリカ文化が幼い頃から好きで、その一環でアメカジというファッションが好きです。私はアメカジファッションを通して自己表現や、自己顕示欲を満たしていたのだと思います。しかし、それは気付かない内にどこかでファッションという我慢を積み重ねていて、精神を少しずつすり減らしていたのかも知れません。

 “若い内”・“若気の至り”という表現は悔しくて使いたくは無いのですが、アラサーを迎えて会社でも中間管理職となり、日々板挟みのストレスの日々です。思い返せば“良い歳だからさ…。”だとか“落ち着きたくて…。”と言って、先に没個性的なファストファッションに行き着いた友人知人達も私と同様に役職が付いたり、独立した人でした。久々に会えば、仕事の愚痴が2、3言目には飛び出すので、私と同様に恐らくは毎日がストレスやプレッシャーとの戦いの日々だろうなと察します。

 そう考えると、没個性に埋もれるというのは、ある種の“自己防衛”と言えるでしょう。会社では責任を持たされ、ある種上からも下からも目立つポジションになった私たちは、休日は目立たない服装になる事で“普通を纏って”平静を得たいのかも知れません。"擬態"のようにも思えます。

 気がつけば、私の私服は地味なものばかりになりました。やはりリラックスします。具体的に表現するのが難しいのですが確かにそこには“安心感”があるのです。

 衣服と潜在意識というのは関わりが深いと何かで読んだことがあります。難しい事を考えて今日着る服を選んでいるつもりはありませんが、少なからず地味な服を選ぶようになったのは単純な“趣味嗜好の変化”だけでは無いと、アメカジ一辺倒だった私は気付かされてしまったのです。


 しかし、この変化楽さを享受するだけではいつか本当に外見も内面も年寄りになってしまいます。

 いつまでも若くありたいというのは、誰しも願うものではありますが、老いへの対抗というのは外見の取り繕いや、若作りでは抗えないものであり、それが年齢を重ねていく上で自然な流れだとも私は感じました。しかし、私にとってファッションとは自己表現の一部です。

 ただ老いるのでは無く、品良く個性的にこれからを生きていく為に、この年齢を重ねて生まれる様々な変化に抗いたいなとクローゼットにガチガチの固いデニムや重たいレザーのスタジャンを収納しながら私は思ったのです。

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