見出し画像

【ふしぎ旅】弥彦神社のアラハバキ門

 以前、アラハバキ神を調べていたら、越後一之宮である弥彦神社にかつて”アラハバキ門”があったという伝承が残っているという記事があった。
 実際、江戸時代の文書には、その存在があったものらしい。

 さて、この弥彦神社に、多数ある末社の1つに「祭神不詳」の神社がある。
 名もわからず某神社などと紹介されている。
 とにかく謎が多く、荒ぶる神の鎮魂のための神社や墳墓などと言われている。
 先のアラハバキ門の記事とあわせ、この祠こそがアラハバキを祀るものではないかとしているところが多い。

しかし、どうしても引っかかるところが多いため、実際に訪れてみた。

画像1

 訪れた感じでは確かに塚っぽいなと思いつつ、もっと神聖な意味合いがあるのではと感じた。
 摂社(祭神、伊夜日子大神の子孫を祀る社)のご神廟(墳墓)にも見えないことは無いが、それに対する由来が不明と言うのもおかしな話だ。
 仮にアラハバキ神だとして、客神に対して、そのような扱いをして、同格に並べるものだろうか。

画像2

 では某神社は何かというと、富士塚のようなものではないかと思う。
 富士塚とは、富士山信仰から生まれ、富士山に模して作られた人工の山や塚だが、これの弥彦山バージョンではないかと。

 弥彦神社がある弥彦山の隣の国上山の国上寺には、やはり岩がごつごつしている山のところに祠があり、そこは”あまのかぐやま”と言われている。

画像3

 山の中に、天香山があるというのもおかしな話だが、このようなものが近くにあるということは、同じような形体のものがあっても不思議なことではないだろう。
 弥彦山山頂のご神廟まで登山できないものが、代わりにこの祠を参っていたのではないだろうか?

 さて、それではアラハバキ門はどこにあるのであろうか。

 そこで考えたいのは、アラハバキ神についてである。
 そもそもアラハバキは、製鉄の神とか、その関連で一つ目として語られることが多いのだが、蛇神として語られることも多い。

そのために、祭神に対し、蛇に関係がある巳(南南東)もしくは辰巳(南東)の方角に置かれることが多い。
 現在の社殿ではなく、昔の社殿は現在の宝物殿のあたりにあったので、そこら見ると 辰巳の方角にあるのは祓戸神社がある。

画像4

 境外末社であるが、弥彦神社に入ろうとする悪霊などを祓うと言われている。
 また以前は、街道沿いの入り口にあったとされているので、塞の神としての意味合いが強いアラハバキ神があってもおかしくない。

 某神社は多少甘く見ても裏鬼門(南西)の方角であるので、大きく外れている。

 ちなみに、鬼門の方向である北東には、境外末社としても扱われていない大己貴神があった。

画像5

 そもそも、境内社の十柱神社はもともと大己貴神であるのだし、位置的にもまさに弥彦神社への入口にあり(弥彦岩室口交差点)何らかの意図は感じるのだが、いかんせん由来が分からないので何とも言えない。

 一つ、あまりにも短絡的であるのだが、現在の一の鳥居が”アラハバキ門”ではないかとも思っている。

画像6

 一の鳥居は慶長年間に弘前城主の津軽氏が奉納したと言われる大鳥居である。
 しかし、よく考えると、キリシタンでもあったという津軽氏と弥彦の神の関係がよく分からないのだ。
 記録には残されているのだが、それも弥彦神社側のみで、津軽藩には残されていない。
 とすると実は、津軽氏による奉納とは象徴としての津軽ではないか?と考えられる。
 つまり、最初にアラハバキ門と呼ばれるところがあり、アラハバキ神は、東北の方の神だから、東北の藩である津軽氏が弥彦明神に敬意を感じてますよ的な意味合いで作られたのではないか、と。
 かなり、こじつけのようで、さすがに無理があるだろうと思うが。

 通常で考えると、その役割や位置から、アラハバキ門とは祓戸神社からの入口がそう呼ばれていたあったと考えるのが普通であろうと思う。
 
 とは言え、詳しい資料が見つかっていない現在、色々と想像を膨らませてもよいだろう。

お読みいただきありがとうございます。 よろしければ、感想などいただけるとありがたいです。