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日本人を拘束し破滅させえる「空気」の研究

空気を読まないと非国民扱いされる日本で,皆が空気を読んで責任を空気に押し付けて,空気に支配された自分は免責されて当然と考える.誰も責任を取らない.それで敗戦もしたわけだが日本人は懲りていないし学んでもいない.

「空気」の研究
山本七平,文藝春秋,2018

戦艦大和の沖縄戦特攻出撃の決定に関与した誰もが無謀な負け戦だと知りながら,実際サイパン陥落時には合理的判断にて出撃させなかったにもかかわらず,なぜ戦艦大和を沖縄戦に出撃させたのか.それは,サイパンのときにはなく沖縄のときには生じていた「空気」によるものだという.

「全般の空気よりして,当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」
(軍令部次長・小沢治三郎中将)

ここにはデータも根拠も何もない.あるのは「空気」だけだ.では,その「空気」とは一体全体何なのか.それが本書で山本七平が問うていることだ.

日本人を強烈に拘束する「空気」の正体を把握して対処しなければ,日本は同じ過ちを繰り返す.だから,「空気」の研究が不可欠だというわけだ.

この「空気」が強烈に日本人を支配するようになったのはそれほど昔のことではないという.

徳川時代と明治時代には,少なくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われる.・・・ところが昭和期に入るとともに「空気」の拘束力はしだいに強くなり,いつしか「その場の空気」「あの時代の空気」を,一種の不可抗力的拘束と考えるようになり,同時にそれに拘束されたことの証明が,個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った.

そして,形を変えていつでもどこでも現れる「空気」を醸成するのは,対象の臨在感的把握であると指摘している.臨在感的把握は感情移入の絶対化である.

日本人は「情況を臨在感的に把握し,それによってその情況に逆に支配されることによって動き,これが起る以前にその情況の到来を論理的体系的に論証してもそれでは動かないが,瞬間的に情況に対応できる点では天才的」

一度物事を臨在感的に把握すると,つまり「空気」に拘束されると,もはや論理など何の役にも立たない.

戦艦大和の例に限らず,数多の事例がそれを物語っている.そして,日本人が「空気」に支配されて行動するのは戦前戦中にかぎったことではない.今もだ.

言葉による科学的論証は,臨在感的把握の前に無力であったし,今も無力である.戦時中もそうであったが,このことは戦後も変っていない.

人は,論理的説得では心的態度を変えない.特に画像,映像,言葉の映像化による対象の臨在感的把握が絶対化される日本においては,それは不可能と言ってよい.・・・この無力を知るとき,人はその臨在感的「空気」に対抗するために通常性的「水」をさす.

この強力な「空気」に対抗するための手段として,通常性的に「水」をさすことが挙げられる.これ,つまり「水=通常性」の研究が本書のふたつ目のテーマである.

本書「「空気」の研究」の単行本が出版されたのが1977年.もう50年近く前になる.このため,本書で挙げられている事例は古く,ピンとこないものも多い.そういう意味でわかりにくく感じるところも多い.それでも,日本人を拘束し日本を破滅させかねない「空気」の正体を明らかにしようとした本書は凄く,誰しも「KY」などという言葉を使うのなら「空気」とは何かについて考えた方がいいだろう.

日本人の特徴として,以下のようなことも書かれていた.天皇が人間宣言を行う前,
1)人類の,そして日本人の祖先は猿である.
2)天皇は現人神である.神が人の姿をしてこの世に現れたものである.
という2つのことを日本人は平然と受け入れていた.しかし,この2つから導かれるのは,「現人神は猿の子孫」ということである.そのようなことがあっていいのか.これはおかしいと考えるのが合理的であるなら,進化論か現人神を否定しなければならない.ところが,日本で進化論は拒否されなかった.アメリカのように裁判にもなっていない.なぜか.

二重人格なのだろうか.ある意味そうなのだろう.

宣教師を尋問した新井白石は,西洋の知識と認識を賢とし,キリシタンの教えを愚とした.その賢の部分だけを日本に導入し,愚の部分は排斥しようとしたのが,白石そして明治以降の和魂洋才である.

本書のあとがきにて,山本七平はこう書いている.

われわれは戦後,自らの内なる儒教的精神的体系を「伝統的な愚の部分」としてすでに表面的には一掃したから,残っているのは「空気」だけ.「現人神と進化論」といった形で自己を検証することはできず,そのため,自らが従っている規範がいかなる伝統に基づいているかさえ把握できない.従ってそれが現実にわれわれにどう作用し,どう拘束しているかさえ,明らかでないから,何かに拘束されてもその対象は空気の如くに捉え得ず,あるときはまるで「本能」のように各人の身についているという形で人びとを拘束している.これは公害問題などで,「科学上の問題」の最終的決定が別の基準で決定されていることにも表れているであろう.

いかにしてその呪縛を解き,それから脱却するか.それにはそれを再把握すること.それだけが,それからの脱却の道である.・・・人が「空気」を本当に把握し得たとき,その人は空気の拘束から脱却している.

人間の進歩は常にこのように遅々たる一歩の積み重ねであり,それ以外に進歩はあり得ない.本書によって人びとが自己を拘束している「空気」を把握し得,それによってその拘束から脱却し得たならば,,この奇妙な研究の目的への第一歩が踏み出されたわけである.

空気を読むことも処世術として大切なのかもしれないが,空気に支配されてしまわないために,「空気」が何であるかを知る努力は必要だろう.

結局,日本人は変わらないし,変われない.そうだとしたら,あわれだ.

© 2024 Manabu KANO.

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