古文漢文不要論について誰も言わない観点から。現代文の頼りなさ。

「古文漢文なんて誰も話さないのだから不要だ」という議論が久しくなされているが未だに受験科目としてはなくならない。今の時代にもっと必要なことを勉強すべきだと言われる。例えばひろゆきさんは金融リテラシーや生活保護などの社会制度について学べと言う。これに対して必要性を主張する人たちは「古典文学の素養は現代を生きる我々にも必要で、人生は実用的なものだけでは豊かにならない」うんぬんといった反論をしている。古典文学の素養を無価値とは言わないが、積極的で説得力ある有用性が古典必要論者から呈示されているとは思えない。何を学習させるかは有限な時間の中での優先順位の話であり、この反論に説得力はありそうにない。社会に出て必要なことなのに全く学校教育では触れられないことがいろいろとあるように思う。そんな状態で子供たちを社会に出すことは現代の日本の学校教育が抱える欠陥だ。
古典に関わる人たちが職を失うことが理由だというならふざけた話で当然論外だ。子供たちの時間を何だと思っているのか。私とて古典の知識が社会から消えるのはまずいと思う。それならせめて選択科目にするなどして、もし選択する人を増やしたければ古典の魅力や必要性を訴える努力をしてほしい。例えば歴史研究の一次資料となるとか言語の変遷の研究材料になるなどの必要性はあるはずだ。
そして古典に限らず入試制度を改善しようとするとき、学歴システムの中でいいポジョンを得たり自尊心を得たりした者は自分が脅かされるように感じるのかやはり無理筋の論を展開してたりする。例えば推薦やAO入試での入学者の方が一般入試入学者よりも入学後の成績や意欲が高いというエビデンスが出たとしても一般入試の方が「実力」なんだと言ってたりする。そんなことを言う方がよほど「知性」を疑われると思うが…。既得権者の「感情」はどこでも似たようなもののようで、これが必要な改革を阻害する。

さて古典が入試に出題されることについての私の見解だが、意外に思われるかもしれないが私はあってもよいと思っている。
なぜかというと国語全体の試験をバランスよくするためだ。もっとはっきり言うと現代文が国語力を問う試験として頼りないからだ。
よく「どの教科の勉強も国語力が基本だ」と言われるが、そこで言われるところの国語力とは果たして現代文の得意不得意と親近性があるだろうか。他科目を勉強する力をつけるために現代文の問題集を解いて国語力をあげようとするだろうか。何か違う能力だと感じるのではないか。
他科目を勉強するのに必要な国語力とは、現代文のような、もってまわったような言い回しを「解読」することではないように思う。より具体的な情報を整理したり、まとめて要約したり、違う表現で同じ内容に言い換えたり、逆にそのように言い換えられたものも論理的には同じ内容だと気づいたりする能力だろう。特に思想性のない、言うなれば「ドライ」な国語力を指すだろう。
それに比べて現代文はいろいろと「ウェット」だ。
よく日本の国語教育は鑑賞教育だと言われる。論理的に情報を整理するよりも、筆者や登場人物の「気持ち」を考える、「感想」を発表しあうなどといったことが小学校から求められてきた。それはそれでいいところがあると思う。高校現代文を評論文と小説に分けた場合、これは小説の方の話に聞こえるが実際には評論文もこれに近い。
現代文特有の約束事やら常識やらを頭に入れておけば何となく話の流れがつかめるなどと受験指導者から言われることがある。評論文の筆者は多くが文系の学者であり、文章は高校生向けに書いたものではなく、哲学や文学、社会学などの研究者界隈に向けたものの中で、そこまで専門性が高くないものが選ばれている。あるテーマの論文集があったとして、その中身が専門的でマニアックだとすれば、評論文に採用される文章はその論文集の「あとがき」のような文章で、そのテーマについての現代における問題設定やその界隈の人間なら誰もが常識として理解できる話をお行儀よくしたもので、専門性を取り除いた抽象論が多い。「悟性」だの「統覚」だのといった専門用語の定義を知らないと論じられないような内容ではなく、例えば「近代の規律権力は、マジックミラーからいつこちらを監視しているかがわからないような形で行使されることで、市民は常に自ら権力に従うように駆動され、さらにはその態度を内面化するようになる」というような、前提知識がなくても一応理解できるものが出題される。これらもカントやミシェルフーコーを知っていればもちろん有利だし、それ以上に学者界隈の理解や問題意識に沿って、もしくはそれに少し付け足す形で予定調和的な議論が文中では進んでいるのだ。文系の大学院まで行って哲学や文学研究をしていた人たちの感性がどのようなものかはわからないが、その文章にはかなり特殊でウェットな知のレイヤーが織り成されているのだ。現代文も論理が大事と言われるが、数学や物理の論理とはかなり違うのはもちろん、そのようなお約束ごとがあるためになかなか国語力としての論理的読解なるものが見えにくいのだ。最上位の受験生でも現代文だけは最後まで攻略できなかったと言う人は多い。彼らでさえできないのだからそれはまっとうな方法論を誰も提示できていないということなのだ。思想性、党派性のないドライな形での論理やパラフレーズ能力が問われるなら現代文が「密教」であるはずはないだろう。
それに対して古文漢文は、敬語や助動詞、活用から「論理的に」主語や目的語がわかったり、句形から論の構図が確定したりする。内容も単純で、ドライな国語力を問うのにちょうどよいレベルだ。
しかし、それを言うなら外国語でも同じ役割を果たせそうだ。内容要約やパラグラフの並べ替えをさせたり、小説や雑誌記事など多様な文章から出題するなどしてもよい。これでも充分に国語力を問えるはずだ。
ちなみに東大は理系でも2次試験まで古文漢文の記述が出題される。「口語訳せよ」とか「ざっくり内容を説明しろ」程度の出題だ。私の勝手な憶測だが、これは東大側が古典が大事だから一生懸命やってほしいと思っているということではなく、むしろ逆にほとんど対策しない中で最小限の知識を基に文を読み解き、ポイントをまとめた記述ができるかなどのドライな国語力や処理能力を見たいのではないかと思う。せいぜい10点程度の点差がそこで勝手につけばよいと考えているのではないかと推測している。ほぼ無対策の分野で国語力による点差をつけられるというのが、がっつり対策されてしまう外国語との違いなのだ。

それにしても不要論者、必要論者とも高校の教科教育の目標をどこに置いているのだろう。論理的、概念的にものを真っ当に考える、効率よく情報をまとめたり、伝えたりする、そういった基本的な知的能力を涵養することだと思うのだが違うだろうか。実用も大事だが、高校段階で本当に必要なものなのかどうかは考えるべきだ。ただし、どの段階でもやらないまま社会に出されるのも問題なのだが。

基本的な知的能力を身に付けないと大学には入れないと思わされるような出題を各大学はしているのか。教科をきちんと習得できた者が「さすがは考える能力があるなあ」と知的にリスペクトを受けない限り、「こんな役に立たない知識を詰め込むために時間を浪費している。それなら実用的なことをやれ」という論に説得力が生まれてしまう。ひろゆきさんを皮相的だの無教養だのと言うことはできない。これはどの教科もそうだ。たかが学校の勉強だが、どうせ時間を使うのなら身のあることをすべきだ。教科指導者や出題者は学生たちにそれぞれの教科がもつ思考のエッセンスや面白さを伝えられるようにプライドをもって努力すべきだ。さもないと最後は「全科目不要論」に行き着いてしまうだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?