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隠し子の叫びー半世紀後の父との再会物語#2 少女時代

  私の両親は幼少の頃離婚し、私は母方の家族に育てられた。父親が不在となってからの我が家は様々な事情も重なり、生活が困窮し、一家心中を企図したこともあったほどの苦労をしたと聞かされている。シングルマザーとして忙しく働かなければならなかった母に代わって私を育ててくれたのは祖父母であった。祖父母は熱心な新宗教信者で、特に祖母は布教師であったため、母親代わりであった祖母から受けた精神的、道徳的、思想的影響は私にとってかなり強いものとなった。祖母からは「あなたのお父さんだった人はあなたを棄てた悪い人だから、迎えに来てもついて行ってはいけない。大人になっても探してはいけない。あなたを一人で育ててくれるお母さんに親孝行をしなければいけない」と幼い時から繰り返し聞かされてきた。この祖母の言葉は呪文のように私の心に刻まれ、つい最近まで疑うことなく信じ切っていた。又、祖母からは「あなたが今生父親のいない家に生まれてきたのは因縁によるもので、前生の行いが関わっているから、今生は精一杯人を助け信仰をしていると来生は父親のある家に生まれてくることができる」とも言い聞かされてきた。私はこの「因縁」の教えを真剣に信じ、祖母のような人を導き助ける布教師になって、社会の弱者のために貢献できるような人となろうと考えるようになっていった。
   祖父母は私を父親のいない可哀想な子であるとして大変甘やかし溺愛した。そのため、私は未だにマッチの火がつけられない等子供のような部分があり、高齢者に育てられたことがよく分かると、夫には笑われながら随分助けられている。私には祖父という父の代わりがおり、祖母と母(母は怖い思い出しかなくあまり好きではなかったが)という二人の母もおり、「親神様」という神様もついているから幸せであると思っていた。しかし、幼少の頃から暗闇が怖かったり、よく泣いたり、悪夢を見たり、夢遊病の症状があったのは、父を突如失うというトラウマがあったためだと思う。いつもなんとなく心の真ん中に穴が開いているような気持ちでいた。祖父が私の父親代わりと思っていても、少しだけ記憶にある父は優しい人であったし、どこかで生きていると聞かされていたので、父に会いたいという気持ちはあり、小学校低学年の時は、父に宛てて書いた手紙を庭の土の中に埋めたこともある。良い子にしていれば、一生懸命生きていれば、きっといつか父は私を迎えに来てくれるだろうと心の片隅で思っていた。
  家で父の話題を出すことはタブーであったので、父に会いたいとか父がどんな人だったのか知りたいなどど口が裂けても言えず、その思いを一生懸命殺しながら明るく無邪気な子供のふりをして生きてきた。父という人間は、この世に存在すべきでない「悪者」や「魔物」として徹底的に頭の中に叩き込まれ、自分が受け継いだはずの父の良い部分も、他の人のものであるように聞かされた。例えば、私は小さい頃から、人前で話をしたり、文章を書くのが上手だと褒められ、弁論大会や作文コンテストなどで表彰されることがよくあったが、「母親は勉強が全く好きでない非行少女のようだったのに、誰に似たのだろう。きっと文章が上手なのは祖母似で、人前で話をするのが好きなのは叔父に似たのだろう」と親戚たちは話していた。私は、大衆の前で話をしたり舞台で発表したりするのが好きだから、アナウンサーや舞台女優になりたいということを小学生高学年の時に家族に話した。すると祖母が、「あまり有名になって父親に見つかると大変だから、その夢は諦めて欲しい」と私に伝え、寂しい思いをしたのを覚えている。
  私は幼少の頃から祖父母との関係が良かったが、母と姉とは上手くいっていなかった。姉は私よりかなり年上で、母は二人の子供を育てる自信がないと姉が小学生高学年の頃養女に出したが、姉は耐えきれず一年で戻ってきた。姉が戻ってきてからテレビ番組の取り合いをしていると祖母が姉に言った。「あなたは戻るべきじゃないのに戻ってきたのだから妹にテレビ番組を譲りなさい」と。その祖母の言葉は大変姉にはきつかったと思う。その時からのように思う。姉が私と遊んでくれなくなったのは。又、私は姉と違って祖父母の信仰する新宗教に非常に熱心になっていったので、祖父母からは私の方が可愛がられていたことが憎かったことも、姉に冷たくされてきた理由であると思う。今思えば、姉は私より父の思い出が鮮明にあり、父との生き別れは大変辛かったであろうから、その苦しみの反動が私への八つ当たりになっていたことも原因だったと思う。姉と母は仲のいい姉妹のような関係を築き、その二人の中に私の入る居場所はなかった。
  私は幼少の頃から母を大変恐れていた。私にとって母は、お母さんというよりは、時々家に帰ってくる怖くて美人なおばさんという印象の方が強かった。それでも母をもちろん恋しいと思ってはいたので、母との関係は複雑なもので、それは年を重ねるごとに一層厄介になっていった。母は若い時は髪を金髪に染め、ミニスカートを履き、親を困らせるほどの当時には珍しい常識を逸脱した人であったようで、性格も大胆で愉快な人である反面、言動がきつく、周囲が傷つけられることが多々あった。祖父母にしてみれば、非行少女のような母が結婚し無事に家庭を築くことができてほっとしていたのに夫との不運により皆が苦労する羽目になってしまったというようなどんなにか遺憾な思いであっただろう。
  私が小学生に上がる頃、女手一つで二人の子供たちを育てるには水商売しかないと考えた母は事務職を辞めてスナック経営を始めた。不眠症も伴い、イライラすることが多く、私は八つ当たりをされ、それを見て祖母や姉が私を母から庇ってくれるようなことがよくあった。母は市内中心部のアパートに住み、水商売に勤しんだため、1週間に一回しか家に戻らず、母が帰ってくるのを待ち望み、色々私なりにお持て成しをしたつもりが逆に怒られてしまうようなことが多々あった。小学校高学年の頃のことである。ある日、今日は母が帰ってくる日だと思い、朝から外に出て野花を摘んできて小さい花瓶に入れサイドボードの上に置いて待っていたが、母が戻り、その花を見た瞬間、「なんだ、こんな汚い邪魔なもの置いて!」といって私が置いた花であることを知りながら、ゴミ箱に捨てられた。それを見ていた祖母は「あなたが帰ってくるのを1週間も待ち望み、この子は、このお花を飾ったんだよ」と言い、母を叱ってくれた。母の誕生日の日に母が仕事で会えなかったから、誕生日のプレゼントをお小遣いを貯めて、日曜日に帰った時に渡したが「こんなものくれて。要らないのに」と言った。そんなやり取りを見て、姉が私をいつになく庇い、母の言動を正してくれた。
  そんな風な仕打ちを受けながらも、やはり肉親である母が恋しく、月曜日の午後叔母が母を近くのバス停まで車で送っていった際、ついて来なくて良いと言われたけれど、バス停まで見送りたいとついて行き、車の中で母の手を握ると、「触るな!」と言われ、手を避けられた。涙を流し始めても慰めの言葉もなかった。当時11歳だった私は、あまりにも悲しすぎて、その瞬間、車から飛び降り、路上に走り出ていっそのこと自殺してしまおうと心の中で考えた。しかし、「全ては因縁の成せる業」という祖母の言葉が思い出され、こんな母親の下に生まれ苦しんでいるのも自分が犯した前生の悪い行いのためなのだと自分の心の底で反省するよう試み、「神様、助けてください!」と心の中で叫ぶしかなかった。
   私は今でも暗闇が怖く一人で寝ることに苦労する。夫がいない日は飲酒や睡眠薬に頼り部屋の灯りやテレビをつけたままでないと眠ることができない。自分の睡眠に最善な環境が整わなければ、金縛りにもよく遇う。恐らくそれは父親を突如失ったトラウマや母からの心理的虐待による精神的苦痛によるものではないかと思っているが、母と祖母は一人で寝なければいけないと幼い頃私を無理やり一人で布団に寝させた。9歳の時、ある日怖くてシクシク泣きながら眠りにつく努力をしていたら、母がやってきて「袋に入れて外に出すぞ!」と私の身体を揺すりながら私を叱った。私は「お願いです、助けてください」と言いながらも心の中では、袋に入れて外に出してもらった方が街灯の灯りで安心して眠れるだろうし、袋に入れられたまま泣いていたら、きっと見知らぬ優しいおじさんやおばさんがやって来て私を助けてくれるかもしれないからその方が良いのにと思っていた。
   他にも思い出したら、きりがないほど母から受けた心理的虐待のエピソードは数々ある。自分が口が立つようになってからは、母親に言い返したり、彼女を傷つけたこともあったので反省はしているし、彼女との関係はお互い様の部分も多少あるとは思う。しかし、私が幼少の時受けた心理的虐待は見逃すことができるレベルの問題ではない。自分が悪くないのに叱られ泣かされたことは、一生の傷となって残っている。そのエピソードの一つ一つを私は生涯忘れることはできないし、彼女を赦し、過去を手放すこともできない。母も家族の誰も今でも気づいていないであろうが、私は、母のために、何度もこれまで自殺未遂を繰り返してきた。しかし彼女から受けた心の傷の意味を追求するうち、私は人の傷を癒すお手伝いができる心理士になりたいと思うようになった。その意味で私は心の傷に感謝をしている。なのでこれからもこの傷が無駄にならないように、精一杯カウンセラーとして生き続けたいと思っている。あんなに苦しくても、スクールカウンセラーなどいなかった時代なので、祖父母から教わった新宗教の信仰を頼りに一人で悩みを抱えるしかなかった。
   子供の頃からたくさんの夢を見てきたが、母に関する恐ろしく印象的な夢が二つある。8歳の頃の夢。川の激流の中で溺れかけている。溺れることも怖かったが、背後から追いかけてくる母に捕まることも同じくらい恐ろしく、一生懸命母から逃げようと泳いでいた。5歳の頃の夢。母と遊園地に来て、私はコーヒーカップに一人乗せられ楽しく遊んでいた。コーヒーカップが止まり降りた時に、待っていると思った母親がおらず、私は1人激しく泣き続けた。少女だった私は、このように夢という無意識の世界の中で懸命に心の葛藤の解決を模索していたのだ。
  祖母からは、「あなたのお母さんはあなたを一人で育ててくれるのだから、大人になったら親孝行をしなければいけない。けれどお母さんの素行は悪いからお母さんのような人になってはいけない」とよく言い聞かされた。これは子供にとっては難しい注文だったと思う。親戚のおじさんやおばさんたちも、私のことを不憫だと思いながらも「かわいそうにね、でも我慢してね。お母さん、お父さんいない分、人の二倍苦労して働き、あなたを育てているから、あんなきついお母さんだけど、わかってあげてね」と優しい言葉をかけられ慰められた。母には兄弟姉妹がたくさんいたが、何故か母だけ非行少女のように育ってしまい、他のおじさんやおばさんたちは、祖父母に似て上品で常識的な人たちばかりだったので、父に棄てられ、母に虐待される運命を抱えて生まれてきた私はただただ前生の因縁の行いを神様にお詫びしなければいけないのだと思っていた。そうは思いつつも思春期の頃はそんなおじさんやおばさんたちに従姉妹が反抗的な態度を取るのを見て羨ましくなり、私も一度やってみようと思い試してみたこともある。すると母は咄嗟に「こんなに女手一つで懸命に育てているのに何様だ!」と私を怒鳴った。その時、シングルマザーの娘には反抗期の健全な反抗も許されないのだと思い知り、母に心を開いて語り合う関係になることは私には無理なのだと実感した。
  私が高校生の頃、母の水商売が成功し始め、親戚のおじさんたちよりも稼ぎが安定し始め、おじさんやおばさんたちは、母を一層庇い褒め始め、何か私が良いことをしても、私が直接褒められず、一生懸命一人で育てた母のおかげだと言われることが多くなっていった。そのため、私は自分の存在価値がわからなくなってしまった。又、母は、生計を立てる道は水商売しかなく、二人の子供がいなければとっくに死んで楽になっていたのにこんなに苦しく働き続けなければいけないとよく口にしていた。(しかし店に立ち、お客さんと一緒にタバコを吹かし大声で笑いながら会話をする母は決して苦しみの只中にいるだけのようには見えなかった。)母からこの言葉を聞く度、私は「生きていて御免なさい。私さえ死ねばお母さんは楽になるのに」といつも思っていた。新宗教の信仰が支えになりながらも希死念慮の思いは心の中にいつもあった。
  姉はこうした母にうまく対応し、仲良くベストフレンドのように生きているので羨ましく不思議に思っていた。母はよく「お姉ちゃんは足で蹴飛ばしても平気な子だったのに、あなたは扱いが面倒な子だ。それにいつもあなたは何か考えている。お姉ちゃんのように何も考えずに楽しく生きれないのはおかしい」とよく話していた。私はどうしても母や姉と馬が合わず、もうこれには対処方法がなく、自分の世界を作り上げていくしかないと思い始めた。そして、この人格形成の過程で、新宗教の「因縁」という教えによる洗脳、「悪い父の娘」という人格の半分の否定、全てが母のおかげというシングルマザーへの親孝行という美徳への服従を強いられる娘の苦しみと踠きが私の心の中で渦を巻き続け、その渦が段々大きくなり、少しずつ私のアイデンティティ形成を狂わせ、自分の存在意義を不確かなものにさせていったのだと思う。そんな心の混乱に蓋をして「親神様」と祖父母と母という「親達」に守られている私は幸せだと思うように自分の心を無理に仕向けながらも、心の真ん中の空洞は真に埋まることがない不安定な日々を送らざるを得ない少女時代を過ごさなければならなかったのだ。(続く)
  

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