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びっくりしタン!カザフスタン!      #2 ちょっぴりヒストリー 

”カザフスタン”、どんなところ?

カザフスタン人と日本人によく似ていると言われ、親近感を感じる人も多い。文化的にもカザフ模様は、アイヌ民族の模様にも似ているところがあtたりと、人類学的なつながりを示唆する意見もある。一方で、日本にはカザフスタンの情報が少なく、日本人の観光先として選ばれることはまだ少ない。かくいう私もほとんど知識がないままに、アスタナで暮らし始める事になった。
 ここでは世界で9番目に大きな国であるカザフスタンの土地や文化、歴史、食べ物、観光のリアルな情報をお伝えしたい。カザフスタンの歴史や文化について知ることは、まさに「一粒で2度美味しい」、広くこの地域を知ることにつながる。なぜなら、カザフスタンの情報は、1900年代にカザフスタンと同じく旧ソ連に統治された中央アジア・東側ヨーロッパ周辺諸国の歴史と重なる。カザフスタンの人々の歴史感情をちょっぴり想像できると、周辺諸国の人々の感情もちょっぴり理解できるようになると思う。もちろん、ちょっと聞きかじったとして、全てを理解できるわけではない。でも、この地域の歴史を学校で勉強する機会のない日本人にとっては興味深く、中央アジアの距離が少し近く感じられるのではないだろうか。


9月アスタナ郊外の乗馬クラブの伝統イベント。カザフ模様のドレスで疾走。流鏑馬も行われた


ドローンで撮影。カザフスタンはIT浸透率は高い。現金は持たずキャッシュレス決済の利用が多い


「スタン」がつく国だから・・?

 カザフスタンと聞くと、多くの人は「スタン」という名前に、危険な印象を抱くかもしれない。正直なところ、2021年に仕事で赴任するまで、私もぼんやりとした印象しか持っていなかった。ちなみに「スタン」は、ペルシャ語由来の言葉で「〇〇が多いところ」という意味で「国」を示す言葉である。私の住んだ首都アスタナの治安はというと、夜21時でも小学生が遊んでいるところに遭遇するのは日常のことで、女性が夜道を一人歩きをしていても危険を感じることは、ほとんどなかった。(*首都の治安はおおかた悪くないです。しかし、都心を離れた場所や地方、暗い道の一人歩きは、どんな国やどんな時も避けましょう。治安は場所や情勢で簡単に変化するので、読者の皆さんは慣れない場所では油断しないように心がけましょう。)確かにこれは都市部であるせいで、東京のど真ん中を歩いているようなものだからかもしれない。でも、アスタナの都心部に限って言えば、夜も飲食店で楽しく食事をしたりお酒を飲んだりすることはできる。ただ、土地が広いのに首都でも短距離通勤用の電車や地下鉄がないので、バスやタクシーを利用する必要がある。

あるある1:都市部に便利なタクシー                2024年の時点では、特に便利なのはタクシーだ。Yandex(ヤンデックス:ロシア製サーチエンジン・情報プラットフォーム)のタクシーアプリを使えば、タクシーを携帯で呼ぶことができる。タクシー料金は、時間帯や交通事情によって変化する。例えば3kmなら、600テンゲ(2024年3月約200円)から混雑時には2400テンゲ(2024年3月約800円)になる。アスタナの寒い冬にはタクシーは本当に便利な乗り物だ。

カザフスタンの文化・地政学

 カザフスタンは、ユーラシア大陸の東西のちょうど真ん中に位置する。シルクロードの中継点でもあり、ヨーロッパやアジアの文化、ひいてはテュルク民族の文化などの影響を受け、交易の盛んな場所であった。また、カザフ人は遊牧民族であったため、遊牧民族の文化や食生活もユニークである。
地理的には、四方を他の国に囲まれた内陸国であり、面積は世界九番目に大きい。石油や石炭、天然ガス、レアメタルなど豊かな天然資源を有することもあり、国家としては貧困国ではないが、国民の貧富の差は大きい。1991年に旧ソ連から独立してから国民の自由度はますます拡大する一方で、地政学的には、隣接するロシアや中国との間で緊張感が消えることはない。


黄金人間のレプリカ(アルマティの博物館)。アスタナの国立博物館には当時の高い技術を物語る金細工の装飾品が多数陳列されている。紀元前5世紀の豊かな文化に”びっくりしタン”する

カザフの歴史の流れ


 歴史としては、古くは紀元前5世紀ごろのサカ族(スキタイ)のゴールデンマンと呼ばれる豪華な金の鎧の装飾品と一緒に埋葬されたイシク・クルガンの遺跡が、カザフスタンの豊かな文化・高い技術を物語る。サカ族はモンゴロイドの特徴を持ったヨーロッパ風の外見をしていたと言われる。その後、ユーラシア大陸の中央からトルコへ斜めに流れ広がっていったテュルク民族(匈奴フン族がその先祖とも言われる)が大きく影響を及ぼしたことは、カザフ語が、トルコ語に言語的に似ていることからも明らかである。カザフスタンとトルコの間にあるウズベキスタンのウズベク語やタジキスタンのタジク語、キルギス語なども、テュルクの言語の流れの中にあると考えられる。

カザフ語とロシア語をミックスしておしゃべり。 普通にみんながバイリンガル!


カザフスタンの人のおしゃべりを聞いていると、全く文法の違う二つの言語を両方使いながら、普通に話している。彼らの言葉が話せない私でも、発音の仕方が全く違うので、「あぁ、今カザフ語で話してるな。あ、ロシア語になった」ということぐらいはわかる。暮らしの中で、普通にバイリンガルに育っているカザフスタンの人々の言語能力は大したものである。
 現在のカザフスタンでは、国民は2つの言語を話す。一つはテュルク語族の一つであり、昔からカザフ人が親しんできたカザフ語である。しかし、1930年~1991年の旧ソ連政府の統治の時代は、ロシア語が公用語として使われ、カザフ語の使用が禁止された。現在では公用語はカザフ語となったが、統治時代の教育の影響により、一般の生活では現在でも主にロシア語が使われる。一方で、近年はカザフ語で教育する学校が急増している。失われたカザフ言語・カザフ文化を取り戻したいという考え方が広がっていることの表れでもある。
実際、特に高齢者にはロシア語しか話せない人が多かったり、教育環境や親の教育方針によってカザフ語しか話せない人もいる。しかし、ほとんどがはカザフ語とロシア語のバイリンガルである。さらに最近は若い人を中心に英語教育の必要性が認識されてきており、トリリンガルの人も少なくないのだ。


各国それぞれの旧ソ連抑留犠牲者の慰霊碑(カラガンダ郊外。広大な草原の中、真冬は-40度の地。アスタナ~カラガンダは220km車か列車で3時間。墓地まではカラガンダ中心地から車30分)ここには墓地以外何もなく、草原が広がる。なお、抑留施設の博物館Karlagはカラガンダ中心から50km離れた場所にあり車で50分。実際に使われた抑留施設の博物館として一見の価値がある。


日本人抑留者の慰霊碑。2023年8月、日本人会の有志でお墓参りに。縁あってこの地で働く日本人の若者も年配者も、みんなで一緒に唱歌「ふるさと」を歌った。

「シベリア抑留」とは過去のもの?ラーゲリはカザフにも

「何も知らなかった私が、Karlag(カラガンダのソ連強制労働収容所)を訪問して思ったこと」
カザフスタンに行く前まで、私はシベリア抑留者を知っているつもりになっていたかもしれない。博物館を入ってすぐから、自分が何も知らなかったことに気づき、恥ずかしくなってきた。そして頭にこんな考えが浮かんだ。
→「シベリアだけじゃなかったんだ」
→「日本人だけじゃなかったんだ」
→「”一国の労働力”のために収容されたんだ」
→「この歴史は、過去のものなのか?」
→「未来のいつか、世界のどこかで、ある我がままな政府が、自国の労働力のために、人々を無理やり逮捕して収容することがあったら、また罪のない人々が飢餓や自由を失うことがあるんじゃないかな」
Karlag博物館は、人の自由が制限されるような政治状況において、虐待や飢餓状態、想像を絶する理不尽が、老若男女に行われていたかを教えてくれる。同時にこれが過去のものではなく、政治環境によっては、将来にも起こりうる可能性がないとは言いきれないと感じさせ、現代に生きる人々に考えるの機会を与えてくれているように思う。

「シベリア」という中には、カザフスタンにもモンゴルにもウズベキスタンにも、1930年ごろから1991年まで続いたソ連統治時代の影響で国民は飢餓と抑圧に苦しんだ歴史があり、その苦しかった記憶は、今も人々の中に残る。皆さんは「日本人のシベリア抑留者」の話を聞いたことがあるだろうか。シベリアの極寒の抑留施設に戦後も抑留され続け、十分な食料や服のない環境でソ連の労働力として働かされた兵士や一般の日本人が60万人以上いた。カザフスタンに抑留された日本人は、5万9千人という。私がカザフスタンに来て最も驚いたことは、日本人抑留者というのは、旧ソ連に抑留されていたほんの一部の方々のことであったことを、初めて知ったことである。恥ずかしながら、私は、歴史を全然知らなかった。
旧ソ連の抑留施設Gulagでは、中央アジアを含む当時ソ連であった国に数多くあり、1930-1953年の期間だけでも1400万人が抑留されていた。ここにはたくさんのカザフ人や中央アジアの国々、ドイツ、韓国、チェチェン、リトアニア、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、トルコ、イラン、イタリア、スペイン、もちろん日本人も含めてたくさんの人々が強制労働をさせられていた。アスタナから3時間ほど車でドライブするとカラガンダという都市があるが、その郊外にKarlag(カーラグ)という有名な旧ソ連抑留施設がある。冬はマイナス40度になるこの施設に、男性も女性も、子供も赤ちゃんも家族と引き離されて抑留された。このKarlagでの死者数は、旧ソ連のデータは公表されておらず、150万人から2000万人と言われる。旧ソ連の情報非開示の徹底により、数字に幅はあるものの、少なくとも150万人亡くなったと考えるだけで、とてつもなくたくさんの方が亡くなったことがわかる。この歴史の記憶を、カザフスタン人を含む中央アジアの国々など、旧ソ連に統治されてきた国々の人々は、歴史的だけでなく感情的に抑留時代の記憶に残していることは、このKarlag博物館を訪れてみて実感した。カザフスタンや他の旧ソ連国の国々は、ロシアや中国に地理的に近く、政治的、経済的に関係性が切り離せない。旅行でカザフスタンを訪れる際には、表に活字として出てこない深い感情が人々の心にあることを想像して、現地の人の話を聞くとより深くカザフスタンを理解できるのではないだろうか。


Karlagカーラグ博物館


強制連行されたカザフ遊牧民の絵(博物館内)。旧ソ連の農業政策で、遊牧生活しか知らない人々に強制的にこの地で農業に従事させようとした。反対した人々は、財産を没収され、男女子供別々に強制労働収容所へ入れられた。過酷な環境下で、多くの人々が飢餓で亡くなられた。


カラガンダのカーラグ収容所には、日本人の抑留者もいた。「阿彦哲郎物語」として映画化された阿彦哲郎氏もその一人である。想像を超えた飢餓の中で拷問なども行われていた強制労働政策のなかで、たくさんのカザフスタン人及び各国の犠牲者が出たことは1930-91年の史実である


収容所の様子。子供もたくさんいた

あるある2:KARLAG 博物館
カラガンダ中心から50km離れた場所にあり車で50分。実際に使われた強制労働収容所の博物館として、歴史を知る上で一見の価値がある。

“セミパラチンスク核実験場” 〜旧ソ連がカザフスタン国内に核実験場を建設・被爆者150万人〜

 1945年8月にアメリカは核爆弾を日本の広島と長崎に投下し、1945年だけでも22万人以上の死者を出した。この出来事は、旧ソ連の政権を握っていたスターリンに大きく影響した。スターリンは、ソ連国内ではなく、カザフスタンに6か所の核実験場を作った。この中の最大の核実験場であったセミパラチンスク核実験場では、少なくとも456回の核実験が行われた。周辺住民には核実験や放射線への知識が与えられたことはなく、被爆者の観察を含めた核実験が約40年間行われた。被爆者は少なくとも150万人以上と言われる。1991年に核実験場が閉鎖された時でさえ、それまで旧ソ連政権下の情報コントロールにより、被曝の人体への影響については住民は知識を得ることができなかった。専門家もほとんどいなかった。被爆者の救済は一向に進まない中、この土地を訪れ、地元の方の救済に務めた日本人がいる。これについては、次回お伝えしよう。


 

あるある3:アルマアタ→アルマティ→アスタナ→ヌルスルタン→アスタナコロコロ変わってきた首都の名前                       カザフスタンの長い歴史の中で中心的役割を果たしてきた都市は、アルマティだろう。現在の首都アスタナから1200km南、飛行機で1時間少々の場所にある。シルクロードの時代から栄えてきた場所だ。りんごの表すアルマというカザフ語から、かつてはアルマ・アタと呼ばれ、アルマティと名前を変え首都の役割を果たしてきた。アルマティの気候を個人主観的なイメージで例えるなら、長野のような感じだろうか。旧ソ連の統治が終わった後、1997年に初代大統領ヌルスルタン・ナザルバエフが、首都をアルマティから極寒の地と言われるアスタナに遷都した。アスタナは、冬にはマイナス30度や40度になるほど、寒い地域である。ここに、近代的な都市を築き、首都とした。その後、アスタナという名前は、2019年に初代大統領の名前であるヌルスルタンへと改名させられたが、その後、長きに渡った初代大統領一家の権力が失墜した流れの中で、2022年、国民に慣れ親しんだかつての首都名アスタナに戻った。名前の変更はトップダウンで比較的急に行われたのだが、元々の名前に戻り、国民の反応は歓迎ムードであった。

#カザフスタン #歴史 #言語 #日本との繋がり  




 


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