ど素人、哲学的なるもの、ベンヤミン・アーレント
アーレントとベンヤミン
ハンナ・アーレントによる『暗い時代の人々』のなかで、ヴァルター・ベンヤミンは次のように評されている。長くなるが、引用したい。
仮借のない批判である。
それこそ、ぐうの音も出ないとはこのことだ。
テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーが「米国映画という近代の啓蒙の野蛮」を完膚なきまでに批判した『啓蒙の弁証法』を思い起こさせる。ここまで徹底して批判したら、焼いて骨の灰すら残らないのではないかというほどの、いまどきのコトバで表現するならば「忖度ゼロ」の批判ではある。
アーレントの視座
「冷静な観察眼」と「ここで扱われる人たちに寄せる共感」あるいは「現代に生きる人々に寄せる共感」と訳者の阿部齊が寄せたように、アーレントはアイヒマンもユダヤ人もドイツ人も公的領域も人間の条件も全体主義も独裁国家も、制度のなかに内在しながら、きわめてクールに批判した。
ハイデガーとの不倫関係などからアーレントを生理的に受け付けない人たちもいるようではあるが、アイヒマンを「凡庸な悪」と表現したことに端を発してユダヤ人の「同胞」から批判を浴びたりと、彼女は賑やかさも孕んだ人ではある。
アーレントは古代ギリシャをモチーフとして、公的領域について公開性publicityと共通性commonnessをその特性として挙げながら、次のように述べている。
訳者の阿部は、「したがって、主観的には如何に強烈な経験であっても、それが他人に見られ、かつ聞かれうる形に変形されないかぎり、公的なものにはなりえない」(p.432)と言い換えている。
現代への示唆(徒然草)~新しい学校のリーダーズ
このことは、私的領域と公的領域が溶解し、とりわけ後者の公共圏public sphereと呼ばれる領域が縮減した今日の社会空間において、ほとんど意味すら理解されないか、あるいは、新自由主義に基づく経済施策に拠った価値観があらゆる領域に広がり、浸透する過程を通じて、ひとびとのまるで社会的皮膚のように「その存在を意識したりすることもない」ほど「当たり前」となった。
いやむしろ、SNSが浸透したこの情報空間では、その「当たり前さ」は先鋭化しつつあるのかもしれない。
(《新しい学校のリーダーズ - オトナブルー / THE FIRST TAKE》は、もっともわかりやすい今日の「公的領域に関する公開性publicityと共通性commonness」を理解する手立てとなり得るだろう)
わたしは、これまで何十年と惰眠を貪り、制度のなかに内在しながらステータス・クオを否定し、例外状況を好む従属変数として生きてきた。
清水の舞台から飛び降りたことも、急峻な崖を登り、谷底へ転落したこともある。ハードな交渉や登攀を人並み以上に行ってきたようにも思う。
そのなかで「主観的には強烈な体験」を複数、経験してきた。
そのすべてを「他人に見られ、かつ聞かれうる形に変形」してきたわけでは、もちろんない。
他者に曝することによって差異differenceを調達することとは縁遠かった。
しかし一方で、雑誌などで執筆していた期間も長くあるし、メディア機関で就業した期間も長くあるので、公開することには関心があったし、いまでもあるから、何者でもなかったベンヤミンがごとく、こうして誰に読まれるともわからないブログを書いている。
おそらくベンヤミンの思索は、「われわれの通常の思考の枠組のなか」では捉えきれない領野を射程範囲として照射していると思われるものの、それこそわたしのようなド素人にそんなことがわかるはずもない。
ただ惰眠を貪り、何者でもない誰かとして、駄文を書き連ねるのみである。
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