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ど素人、哲学的なるもの、ベンヤミン・アーレント

アーレントとベンヤミン

ハンナ・アーレントによる『暗い時代の人々』のなかで、ヴァルター・ベンヤミンは次のように評されている。長くなるが、引用したい。

・・・ ・・・カフカ流に書こうとした無数の企てがすべて惨憺たる失敗に終わったことは、ただカフカの独自性、どの先人にも帰することができず、またいかなる追随者をも許さない絶対的な独創性を強調するのに役立つだけであった。こうした独自性は社会にとってもっとも妥協し難いものであり、また社会はそれに是認の確証を与えることを常にためらうであろう。率直にいえば、今日ヴァルター・ベンヤミンを文芸評論家およびエッセイイストとして推奨することは、一九二四年にカフカを短篇作家および小説家として推奨するのと同様に、誤解をまねくこととなろう。かれの仕事を正しく記述し、われわれの通常の思考の枠組のなかでの著述家としてかれを描こうとするなら、われわれはきわめて多くの否定的な叙述をこころみなければなるまい。たとえば、かれの学識は偉大であったが、しかしかれは学者ではなかった。かれの論題には原典とその解釈に関するものが含まれていたが、言語学者ではなかった。かれは宗教ではなく神学に、また原典自身を神聖なものとみなす神学的な型の解釈に強くひきつけられていたが、神学者ではなかったし、またとくに聖書に関心を寄せてもいなかった。生まれながらの文章家であったが、一番やりたがっていたことは完全に引用文だけから成る作品を作ることであった。かれはプルースト(フランツ・ヘッセル)とサン=ジョン・ペルスを翻訳した最初のドイツ人であり、またそれ以前にボードレールの『パリ風景』を翻訳していたが、翻訳家ではなかった。書評を行い、また存命中の作家についても死亡した作家についても数多くのエッセイを書いたが、文芸評論家ではなかった。ドイツ・バロックに関する書物を著わし、また十九世紀フランスについての膨大な未完の研究を遺したが、文学史家でも、あるいは何か他の分野に関する歴史家でもなかった。私はかれが詩的に思考していたことを明らかにつもりであるが、しかし彼は詩人でも哲学者でもなかった。・・・ ・・・
Arendt,Hannah,1968,Men in Dark Times, New York:Harcourt,Bruce & World,Inc.
(=2005,阿部齊訳『暗い時代の人々』筑摩書房,242-243.)

アーレントとベンヤミン

仮借のない批判である。
それこそ、ぐうの音も出ないとはこのことだ。
テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーが「米国映画という近代の啓蒙の野蛮」を完膚なきまでに批判した『啓蒙の弁証法』を思い起こさせる。ここまで徹底して批判したら、焼いて骨の灰すら残らないのではないかというほどの、いまどきのコトバで表現するならば「忖度ゼロ」の批判ではある。

アーレントの視座

「冷静な観察眼」と「ここで扱われる人たちに寄せる共感」あるいは「現代に生きる人々に寄せる共感」と訳者の阿部齊が寄せたように、アーレントはアイヒマンもユダヤ人もドイツ人も公的領域も人間の条件も全体主義も独裁国家も、制度のなかに内在しながら、きわめてクールに批判した。

ハイデガーとの不倫関係などからアーレントを生理的に受け付けない人たちもいるようではあるが、アイヒマンを「凡庸な悪」と表現したことに端を発してユダヤ人の「同胞」から批判を浴びたりと、彼女は賑やかさも孕んだ人ではある。

アーレントは古代ギリシャをモチーフとして、公的領域について公開性publicityと共通性commonnessをその特性として挙げながら、次のように述べている。

公的領域において現れるあらゆるものが、あらゆる人々に見られ、かつ聞かれうること、可能なかぎり広い公開性を持つことを意味する。われわれにとっては、現象―われわれ自身によってと同様に他人によっても見られ、かつ聞かれるもの―は、現実を構成する。
『人間の条件』

訳者の阿部は、「したがって、主観的には如何に強烈な経験であっても、それが他人に見られ、かつ聞かれうる形に変形されないかぎり、公的なものにはなりえない」(p.432)と言い換えている。

現代への示唆(徒然草)~新しい学校のリーダーズ

このことは、私的領域と公的領域が溶解し、とりわけ後者の公共圏public sphereと呼ばれる領域が縮減した今日の社会空間において、ほとんど意味すら理解されないか、あるいは、新自由主義に基づく経済施策に拠った価値観があらゆる領域に広がり、浸透する過程を通じて、ひとびとのまるで社会的皮膚のように「その存在を意識したりすることもない」ほど「当たり前」となった。
いやむしろ、SNSが浸透したこの情報空間では、その「当たり前さ」は先鋭化しつつあるのかもしれない。

(《新しい学校のリーダーズ - オトナブルー / THE FIRST TAKE》は、もっともわかりやすい今日の「公的領域に関する公開性publicityと共通性commonness」を理解する手立てとなり得るだろう)

わたしは、これまで何十年と惰眠を貪り、制度のなかに内在しながらステータス・クオを否定し、例外状況を好む従属変数として生きてきた。
清水の舞台から飛び降りたことも、急峻な崖を登り、谷底へ転落したこともある。ハードな交渉や登攀を人並み以上に行ってきたようにも思う。

そのなかで「主観的には強烈な体験」を複数、経験してきた。
そのすべてを「他人に見られ、かつ聞かれうる形に変形」してきたわけでは、もちろんない。

他者に曝することによって差異differenceを調達することとは縁遠かった。

しかし一方で、雑誌などで執筆していた期間も長くあるし、メディア機関で就業した期間も長くあるので、公開することには関心があったし、いまでもあるから、何者でもなかったベンヤミンがごとく、こうして誰に読まれるともわからないブログを書いている。

おそらくベンヤミンの思索は、「われわれの通常の思考の枠組のなか」では捉えきれない領野を射程範囲として照射していると思われるものの、それこそわたしのようなド素人にそんなことがわかるはずもない。

ただ惰眠を貪り、何者でもない誰かとして、駄文を書き連ねるのみである。

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