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保守主義を建て直せ-保守の私がネット右翼に感じる違和感-

大層な題名を立ててしまったが、別に攻撃的な記事を書くつもりなどないし、難しい話をするつもりもない。ましてや炎上する気もない。ただ私が日々持っている違和感を、酔った勢いで徒然なるままに書こうと思っているだけの話だ。

しかし、この徒然なる記事は、自分を保守と思っている人、そして保守や革新やリベラルという言葉に、難しさや疑問や漠然とした違和感を抱いている人にこそ読んでほしい。あるいは、日本の政治の空虚さに辟易としている人にこそ読んでほしい。

題名で私は「保守の私」と書いた。しかし、これはキャッチーな見出しを書いて読者の気を引こうとしただけで、私が実際のところ保守であるのか革新であるのかは自分でもわからない。考えれば考えるほどわからない。それほどまでに、保守と革新という概念を正しくとらえることは難しいのだ。

「保守」はいったい何を保守しているのか

「保守と革新」と呼ばれる二項対立が、欧米では大きな政治的対立軸であるのに対して、私たち日本人にはなぜかしっくりこない。そう感じている人は少なくないだろう。保守主義とは何であり、革新主義とは何であるのか、その説明ほど難しいものはない。

その要因は日本における保守や革新の思想が何らかの確固たる物に裏打ちされたわけではないからだろう。殊、日本の保守について言えば、保守という割にはいったい何を保守しているのかが極めて曖昧なのである。

城の堀は、内部に守るべき城があり、外部に脅威となる主体があって初めて堀としての意味を持つ。もし、内部に守るべき城もなく、外部に脅威もなければ、それは堀というよりただの人工的な池でしかないだろう。保守とは、この、いわゆる城の堀に似ている。内部に何か保守すべきものがあり、外部にそれを壊そうとする主体があってはじめて、保守主義はイデオロギーとして成り立つのである。

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今日の保守主義のイデオロギー的曖昧さは、まさに、この堀が池となってしまいることに要因がある。それは外部の脅威の消滅に起因しているのか、はたまた内部に守るべきものが何であるのかを見失った結果であるのか。私はその両者であると考えている。

社会党への危機感から生まれた自民党

そもそも、戦後日本の保守主義は、もともと内部に守るべき価値を見いだしてスタートしたわけではない。

戦後日本政治の保守派をまとめ、牽引してきたのは間違いなく自民党であろう。農村部の保守地盤を固め、長く保守政権を続けてきた。

しかし、その誕生は純粋に自発的なものだったとは言いがたい。1955年10月、左派と右派に分裂していた日本社会党が結集。革新勢力の台頭に危機感を抱いた自由党と日本民主党が合併する形で、1ヶ月後の11月に自民党は誕生した。

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日本の保守主義の曖昧さはここから始まる。まさに、戦後保守主義の頭領である自民党が、何か保守すべき物を提示するのではなく、実際には共産主義・社会主義へのカウンターパートとして登場したことが、今日の保守主義の空虚さの発端であると言って良いだろう。堀の内側に守るべき城はなく、あるとすれば反共の意識だけであった。そこには、ただ外部に共産主義や社会主義という脅威だけがあったのである。

冷戦終結で消えた保守の存在意義

そうした状況も、冷戦終結やソ連崩壊の前後に変化した。共産主義や社会主義は間違いなく表舞台から消滅した。それは資本主義の勝利を意味したが、日本の保守主義にとっては危機を意味した。ただ、アンチ共産主義・アンチ社会主義であることだけが唯一の存在意義であった日本の保守主義は敵を失うことで急激にその存在意義を失ったのである。

そこには無意味な堀だけが残った。もともと内部に守るべき確固たる物もなく、外部に戦う相手すらいなくなった今、その堀は堀と言うよりただの池である。

しかし、池は新たな敵の存在を自ら強引に定めることで、堀であろうとした。今、自らを保守と自称する人々は、新しい敵、新しい脅威を半ば強引に探すことで、自らの存在意義を見いだそうとしている。

政権に批判的な人々を敵と定め、攻撃してみたり、メディアや既得権者を敵と定めて攻撃する。あるいは、韓国や中国といった隣国を端から敵視してみたり、差別主義的な言動をしてみる。そうすることでカウンターパートとしての保守の存在意義を保とうとしているように見える。

これは私から言わせれば滑稽で、噴飯物である。政権批判者へのカウンターパートなど、保守主義というより単なる思考停止の政権応援団でしかないし、メディアへのカウンターパートは単なる頑固なメディアクレーマーでしかない。外交関係についてもただ敵を作るだけでは必ずしも国益にならないし、そもそも隣に敵を見出したところで自分たちの思想は固まらない。これらは別に保守主義とは言わない。差別主義に至ってはもはや保守主義とは全く別の思想である。実に空虚で、こうした人たちが自分を「保守」だとか「愛国」と思い込んでいるのを見ると悲しくもなる。

保守を建て直そう

しかし、これらに飯を噴き出すことは、決して私がアンチ保守主義者であることを意味しない。私は、保守主義を攻撃する意図などない。私が願うのは、保守主義が意味を持った正しい物になり、そのライバルとしての革新主義も意味を持ち、両者の切磋琢磨によって日本の政治が空虚さを脱出することである。よって、私はここで現在の自称保守主義(実際にはエセ保守)を批判するだけではなく、保守主義の建て直しを主張したい。

保守主義をイデオロギー的に建て直す唯一の方法は、私たちの共同体(日本社会)の内部に、守るべきものを見いだすことである。堀の外の木々や風を強引に敵と見なすのではなく、堀の中に、守るべき価値を持った城を発見するのである。

その大前提は、過去との連続性を見いだすことに始まる。過去から長く続いてきた歴史の物語を「私たちの物語」として継承しているという意識なくして保守主義は成り立たない。

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保守とは、簡単に言えば過去から受け継いだ何らかの価値観や伝統といったものに価値を見いだし、守ろうとすることである。しかし、歴史の連続性を否定し、歴史を自らの歴史ではないと考えてしまえば、自分は過去から何も引き継いでいないことになる。そうなったら、いったい何を保守するのか。

そうだ。どこを歴史の起点とするかは人それぞれであろうが、その歴史の起点から現在に至るまで、日本人が大切に保持してきた物や価値観や信念、そして、歴史の中で進化させてきた作業を、自らが受け継いでいることを認識し、守るという意識があってはじめて人は保守主義者となる。

そこには歴史を自分たちの歴史であると認識する「歴史の所有意識」あるいは「連続性の意識(歴史の延長線上に自分がいるという意識)」そして過去の人々が守ってきたものや進化させてきた行いを信頼し、自らもそれを守ったり、進化を続けようと意識する「過去の人々への信頼」が必要なのである。そしてそれこそが、保守主義の大前提である。

そうした前提に立った上で、あとは、その「過去から受け継ぎ、そして将来へ守るべきもの」がいったい何であるのかという議論をするだけだ。そうすれば保守主義は内部に城を発見できる。

ピンと来ていない人のために、雑な説明だが、例を挙げて説明したい。

フランスではある時、革命が起きた。その時、革命を進めた側は今で言えば革新派であり、革命に反発した側は保守派である。

革命は(明治維新のような例外もあるが)先程つらつらと述べたような「保守主義の前提」の全否定に始まる。過去から受け継いできた秩序を完全に否定し、まったく新しい秩序を構築しようという意味では、過去の人々の行動への完全なる不信任でもある。連続性を否定し、過去の歴史は王政のものであり、私たちは新しい歴史をはじめるという意識がそこにはある。

一方、保守主義とは、死者(歴史の参加者としての無数の先祖)を含めた民主主義とも形容できるだろう。革命とは、死者が過去に出したてきた結論を後から完全否定(完全不信任)することであり、一方で保守とは死者への信任と連帯である。

保守派は歴史を自分たちの歴史だと考える。そして過去の人々の営みを信頼する。だからこそ、それを否定する革命には反発したのである。

自称保守の矛盾

さて、保守主義を再建するにあたって、私たちが真に保守主義であるための前提を説明した。

私が最近の自称保守主義者に反発し、彼らをエセ保守と断ずるのは、彼らがその前提(保守であるための最低条件)すらまるで持っていないからである。

例えば、第二次大戦中の政府や日本軍の行いを他国に糾弾されたとき、彼らはこう答える。「そんな昔の話をされたって、その時私は生まれていないんだから関係ないじゃないか。」と。

これは完全に歴史の所有や連続性の否定である。「私は歴史の物語の延長線上には居ない」「歴史は私たちのものではない」と言っているに等しい。70年前、私たちの先祖は確かに、自ら過ちを犯した。それを信任することなどできない。しかし、その後、私たちは自らの行いを反省した。私たちは進化したし、共通の価値意識を反省から生み出したのである。それを継承せず、歴史を切り離して、どうして保守が名乗れるのだろうか。

憲法への態度も同じである。私たちは長い長い歴史の実験を通して、憲法秩序をこの国に生み出した。戦後日本の憲法改正は強引な面があったとはいえ、しかし歴史の中でそれは人々によって大切にされてきた。(※実際には日本国憲法制定に向けては国会議員をはじめ日本人による慎重かつ活発な議論が行われており、強引だったかどうかも怪しい。)そして、そこには歴史の災禍の中で倒れた者や、残された先人達の想い、願い、怒りや悲しみ、将来への責任感が込められている。しかし、近頃の自称保守主義者たちの憲法や秩序への態度は、それへの軽視、あるいは侮辱としか映らない。歴史の中で行われてきた営みを信じず、むしろ無視し、人々が大切にしてきた価値観や想いや願いを無下に扱っては居ないだろうか。

憲法や秩序を一寸たりとも変えるなと言っているのではない。態度が問題なのだ。もちろん、現実主義的立場に立ったとき、何もかも昔のままに残そうとするのは保守ではなく旧守である。保守とは過去の進化の営みも含めて信頼するのであり、私たちも進化を続ける必要がある。しかし、そこにはまず、過去への信頼と、連続性の意識が前提としてなければならないのだ。

おわりに

保守主義が守るべきものは何であろうか。冷戦が終わってからもう何十年も経つが、その再定義を私たちは怠ってきたのではないか。それが政治の無意味さや空虚さを生み出したのではないか。

私たちは過去から何を受け継ぎ、何を将来に向けて保守すべきなのだろうか。

自己責任の概念を捨て、災害や戦争の絶えない世の中を、互いに支え合うことで乗り越えてきた日本人の団結と連帯と博愛の精神。

どんな逆境にあろうとも、希望を抱いて前に進む強さ。

仲間を決して見捨てない人情。

プライドを抑え、常に文化や技術や価値観を海外から積極的に学んできた向学心。

日本だけでなく世界の子どもたちの幸せを願い、いかなる暴力と戦争も拒否し、平和を志す信念。

弱腰と呼ばれながらも、他国との調和の中で、この小さな島国を豊かにしてきた国際協調主義。

現在だけでなく、遥か将来の国民の幸せのために行動する責任感。

思えば、私たちは多くの大切なものを、遥か何千年もの間にわたって、先人たちから受け継いでいる。こうした価値あるものを大切にすることこそ、真の保守主義でなくて何であろうか。

もちろん、これは私が思う「大切にすべき価値あるもの」だ。人それぞれの定義があってよい。しかし、少なくとも、今後の保守主義は、いったい何を過去から受け継ぎ、いったい何を将来に向けて保守して行くのか、明確にしなければならないだろう。そしてその上で、それは本当に過去から受け継いだものなのか(恣意的ではないか)、それは本当に受け継ぐべき物なのかといった議論を革新主義と行えばよいのだ。とても中身のある良い議論ではないだろうか。

もちろん、これらは同時に、革新側にも言える。元を辿れば、ここまで保守が堕落したのも、革新派が保守派に脅威を与えられていないからである。保守派同様、革新派も、この国において歴史上新しく取り入れるべき概念や思想、価値観とは何であるのかを明確にしなければならないだろう。過去から受け継ぎ守るべきものは何であり、変えるべきものや新しく取り入れるべきものは何なのか、それを革新派も明確に示さなければ議論の土台は完成しないのである。

さて最後に、私が尊敬する、ある戦後の「保守政治家」の言葉を紹介したい。以下は田中角栄の自民党総裁選出馬表明演説の抜粋である。

私たちは戦後の荒廃から立ちあがるために、精一杯働いてきました。そして、短時日のうちに今日の繁栄を確保することができました。汗を流して築きあげた実績は、日本人みずからの努力の集積であり、誇りうるものであります。(中略)内外の課題が山積するなかで、国民のあいだに、いらだち、悩み、前途に対する不安がみられます。しかし、わが国の長い歴史をひもとくまでもなく、幾多の困難を乗り越えてきた私たち日本人に、これしきの問題が解決できないはずはありません。高い理想をかかげ、しかも、あくまで現実に立脚し、勇気をもって事の処理にあたれば、理想の実現は可能であります。わが国の民主政治は、敗戦という高価な代償のうえに育ちました。大事に育てて、後代の人びとに引き継ぎたいものであります。政治は国民全体のものであります。七〇年代のどの課題をとってみても、国民の参加と協力なくして解決できるものはありません。国民の生活感覚にもとづく大衆政治をよみがえらせてこそ、政治不信は解消できるのであります。また、政治は同氏の英知と活力を吸収できるのであります。(1972年6月21日-田中角栄)

田中角栄の演説にはある共通点がある。それは、自分たち国民や、先人たちの営みを信頼し、そこに誇りを持ち、価値を見出し、そして将来へ引き継ぐ責任感に満ちているという事である。本当の意味で保守なのだ。もし、田中角栄が今の日本にいたら。そして今の自称「保守」を見たとしたら何を思うのだろうか。。。

さて、着地点もなく書いて行くうちに、私こそが真の愛国的保守主義者なのではないか、自分は元ネット右翼のリベラル・ナショナリスト進歩主義者だと思っていたが、実は元エセ保守の保守主義者なのではないかという自惚れすら沸いてきてしまった。アルコールがまわっている。今日はここまでにしよう。

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