「不幸」を諦めた俺たちに残る「怒り」
あんたにも何か大切にしているセリフってのがあるかい?
俺たちは数多くのコンテンツを味わいながら生きている。
ドラマだったり映画だったり、小説だったりマンガだったり。
コンテンツはありとあらゆるメディアを通じて俺たちに言葉を届けてくれているよな。
そんな多くのコンテンツの中で紡がれているセリフの中には、結構心の底の方にとどまっているようなものも少なくない。
今回は、そんなセリフの一つを取り上げて考えを巡らせてみようって回だ。
ちっと俺の思考実験に付き合ってくれよな。
「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」
俺の大好きなマンガの一つにHUNTER×HUNTERがある。
言わずもがなの冨樫義博さんによる傑作マンガだ。
まあ、あまりの休載の多さで冨樫義博さんがご存命の内に完結してもらえるのかが不安な作品の一つでもある。
その作品の記念すべき第1巻で紡がれたのがこの
「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」
というセリフだ。
これって、感覚的に真理をついているって思うヒトは結構いるんじゃないかな?
俺たちの人生経験を振り返ってみると、たしかにヒトが団結するときって「何かを好き」って感情よりも「何かが嫌い」って感情の方が遥かに強いって思うんだよな。
これってなんでなんだろうな?
俺たちは「幸福な状態」にも「不幸な状態」にも慣れる。
それは俺たちが「前と比べてどうか」って言う状況の変化でしか物事を感じることが出来ないように出来ているからだ。
ところが、自分の感覚では幸福はまるで空気のように「それが当たり前」って感覚になっていくのに対して、不幸は「諦められた不満」として自分の中に言葉としてこびりつくような感じがある。
どちらも慣れによって生活の一部になるんだけれども、存在を認識し続けることが出来るのは不幸な状態だけな気がするって感じかな。
それだけ、不幸とか怒りとかは存在を留めやすいってことなのかもしれない。
変化を促す「不幸」
なんでこの「不幸」ってのは自分の中に留まりやすいのか?
おそらくはヒトという生き物が状況に対応していくための最も根源的な虚構として「不幸」って状態を作り上げたってことなのかもしれない。
自分や自分の仲間にとってよろしくない状況を総称した「不幸」という言葉によって作り上げられる虚構が、俺たちに現状の打開をするという強烈なモチベーションをもたらすってのは、なんとなく本当っぽい気がするしね。
その仮定が正しいとすれば、俺たちは「不幸」を感じ続けることで、世界の変化へ対応し続ける事が出来るって話になる。
いやはや、一体何のために生きているんだって思わせる話だよな。
諦めること無く変化し続けるために必要なもの
ところが、この「不幸」って感覚が自分自身を変化させないようになることもある。
諦めたときだ。
「しょうがないじゃん」
「そんなもんだろ」
「大人になれよ」
実に多くの諦めるための言葉ってのが世の中には存在している。
そして、俺たちは実際に多くの事柄について諦めている。
まあ、そりゃそうだ。
世の中は尋常じゃないほどの情報量が流通していて、その多くは俺たちに「不幸」を感じさせる情報だ。
ニュースを眺めてみていても、あんたに「不幸」を感じさせる情報がいくらでも出てくるよな?
インターネットの出現により、俺たちが触れる情報は指数関数的に増えている。
それは俺たちが「不幸」を感じる瞬間が指数関数的に増えるってことを意味する。
そんな情報の渦に取り囲まれて、「不幸」にまみれる生活を続けていたら俺たちはどうなってしまうのか?
感覚を麻痺させるしかないんだよな。
ネットによって顕在化された「不幸」を「そんなもんだろ」と諦めるしかできなくなってしまう。
だって、そのすべての「不幸」を改善することはデキッコナイスなんだから。
そうして「諦める」が日常的な決断になるってのが通常運転になっていく。
でも、それでも諦められないこと。
それが「怒り」になっていくんだと思うんだ。
「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」
このセリフは、そんな俺たちの諦めの中でどうしてもそのヒトが諦められなかったことを知れって意味だと思うんだよね。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは一体何を諦められないんだろうか?
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