見出し画像

食事の意味を変える必要性

あんたの中にも、あんた自身が「こんなことを感じているってことを世の中に知られたらマズイんじゃないか?」って感覚ってあったりするかい?

多分、俺の中にもそれはたしかにあって、でも世の中に晒すものでもないって言うんで、自分の中で改めて言語化するってことはしてきていない。

今でも言語化するつもりはあんまり無いんだけども、もしかしたらその「認められない感情」ってやつについて、価値を生み出すことがあるのかも知れないって思わせてもらったんだよね。

今回は、とあるnoteについて感じたことをつらつらと書いてみる回だ。

ちっとばかり俺の感覚旅行に付き合ってくれよな。

食事の持つ意味のギャップ

今回、こんなことを考える切っ掛けをくれたnoteがある。

なかくきゆかさんのこのnoteだ。

読ませてもらったんだけれども、なんつーんだ?
スーッと入ってくる文章をお書きになる方のようだ。

そんな素敵文章の中でもちょっと俺の中で発見があったのがこの文章だ。

ある時、わたしの帰宅が早くて、夫の帰りが遅くて、「ごはんは?」と聞かれ、わたしはその時わたしができることとして、レトルト加工品をあたためた。そこで夫からひと言。
これって、“エサ”だよね?
ショックだった。おっしゃる通りなんだけど、ショックだった。
出典:なかくきゆかさんの上記note

まず、食事の用意をしてくれるヒトに対して「エサ」という言葉のチョイスがスゴイ。

そんな言葉を使ったら絶対にケンカになることは容易に想像がつきそうなもんだけれども、それでもその言葉をチョイスした旦那さん。

おそらくは食に対するこだわりが強い方なんだろうね。

その点、俺は食事は生命維持のための手段だってのはなかくきゆかさんと全く同感なので、その生命維持という一大目的に対して労働力を提供してくれたヒトには無条件で感謝を感じるんだよな。

でもこの旦那さんにとっては食事は生命維持のためのものではなくて、コミュニケーションのきっかけとか、文化的な生活だとか、より自らを高みに導いてくれるって要素があったのかもしれない。

でもなぁ、「エサ」って言葉を使った先に、旦那さんはどんな風景を期待していたんだろう?
奥さんが色んな料理を出してくれるようになること?
食事ってものに対して生命維持以外の目的があるって共有したいってこと?

そのいずれも素晴らしいことかも知れないけれども、コミュニケーションの方法としては「エサ」は悪手だよなぁ。

ということで、この「エサ」という言葉は旦那さんの戦略に基づく言葉のチョイスではなくて、旦那さんの価値観と日頃の生活のギャップによって生まれた単なる反応だってことだったんだろうね。

女性が料理をするものっていう固定観念

そもそも、料理って近い将来、家庭でするってことがものすごくレアになっていくんじゃないかって思うんだよな。

コンビニやらスーパーのお惣菜コーナーは充実の一途をたどっているし、デリバリーでは健康志向に根ざしたサービスもたくさん出てきているよな。

こんなんとか。糖質制限の食事を定期的にお弁当として宅配してくれるらしい。
コスパもそれなりだし、健康に気をつけて毎食を作り上げるよりはよっぽど現実的ってやつだ。

それでも、「家庭料理って大事だよ」って意見があるのもなんとなく想像できる。食事がその家の文化を少なからず表現してきた世界観で俺たちオッサンは育ってきているからな。

でも、その文化を女性だけが継承すべきってのには時代の変化が起きすぎているってのが現実なんだと思う。

だってよ?俺たちの実質賃金は良くて横ばい。現実的に共働きでもしなければ生活をすることもままならない。
そんな状況で女性は料理するべきってのはちっと実現出来ない状況だよな。

かと言って、俺の場合はびっくりするくらいに料理に手を出さずに暮らしてきたので、家族の健康面からも料理を積極的にやっていくことにはためらいがある。

だから、せめて料理をしてくれている妻には感謝を伝えながらいきたいところだよな。

なあ、あんたはどう思う?

これからの世界観での食事はどんな意味を持ってくると思う?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?