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読み手としての自分の意味

あんたもいろいろな情報を日々インプットしていっているかい?

実に多くの情報が飛び交い続けている今という時代では、どの情報を自分の中に取り込むのかってのは、自分の意思の外にあることが増えてきていると思うんだよな。

まあ、そもそも俺たちヒトという生き物には自由意志は無いってのが現実だとしても、俺たちを形作っているのは間違いなくそのインプットされた情報だってのは揺るがし難い事実だ。

だとすれば、俺たちはできるだけ理想の自分を手に入れるための情報に近づくための工夫が必要だと感じたりもする。

今回は情報に触れるってことについて考えてみる回だ。

俺たちが何気なく読んでいる情報の意味ってやつについて思いを巡らしてみようぜ。

タイムラインという情報源

あんたもnote以外を含めて様々なタイムラインってやつを見ていると思うんだよな。

俺の場合はほんの10年前にはこんなにSNSのタイムラインの情報を読み漁ることなんてなかったような気がするわけだ。

あんたはどうだった?
何?10年前にはどっぷりTwitterを眺めてたって?
うん、その意味では俺は結構後発組ってことなのかもな。

で、俺はそんなふうにnoteのタイムラインもタイトルを眺めていっているわけだけだ。
そんな中でちょっと目に止まったnoteがあったんだよ。

あぷりこっとさんは俺と比べて遥かに「ちゃんと」noteを読んでいるらしい。
俺はタイムラインに出てくる記事のタイトルと冒頭部分を読んで何かを感じたものだけ読んでいる感じなんだけれども、あぷりこっとさんはできるだけフォローした方のnoteを読んでいるってことみたいだ。
とは言え、フォローしたヒトのすべてのnoteを読むなんてのは可処分時間が限られている以上は現実的じゃない。

それでもできるだけ読みたいって思うってあぷりこっとさんの人柄は「丁寧に生きているヒトなんだなぁ」って印象が強かった。

さらにちょっと驚いたのが、あぷりこっとさんと同じく「noteを読み逃す」ことに罪悪感を感じているってヒトがいるってことだった。

いやいや、無理っしょ。
フォローしているヒトが500人だとしても、その10分の1のヒトが何らかのnoteを1日に書いていたとして、50のnoteを読むって結構な時間がかかるぜよ?

そこでふと考える。

あれ?俺は読み手として劣化してないか?ってさ。

読み手としての自分

実際、noteのようなある程度の思いをぶつけるのが普通になっているメディアで、その記事を読むってのは結構な才能がいるもんだと思うんだ。

実際、本当に多種多様な立場や意見がこのnoteでは表現されていると思う。

その意見を解釈するために、読み手にはその意見のバックボーンにあるものをある程度は想像することが求められているじゃんか。

自分がしたこともないような挑戦をしている若者の感覚や、シングルマザーでの子育てっていう想像を絶する大変さが日常になっている生活や、農作物が育っていくことの楽しさや、ダンスを通じてヒトがつながる感動や。

実に俺の人生の中には無い事柄がそこには描かれている。
つまり、自分の経験の外の事柄ってわけだ。

自分の経験には無いわけだから、その状態を思い描くためには多少なりとも想像を巡らせるってことが求められる。

この想像ってのがまた厄介だ。
なにしろ想像なので、自分の経験に照らして自分の経験の外の出来事を考える事になる。
当然、その想像によって出来上がった情報は実際に書き手が伝えようとしている情報とは異なる姿になるのは必然ってやつだよな。

なら、俺たちは読み手であることに意味は無いのか?

否。断じて否だ。

noteを始めとする数々のSNSは情報の双方向性を担保する仕組が用意されている。
自らが読み手として想像を巡らせた結果をどこかに表現することで、新たな読み手が何かを想像する。

これって何気に素敵なことじゃないか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの想像は誰かの想像を作る無限装置の一部になれると思うかい?

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