過去と今と未来と

あんたはあんたの記憶について考えたことがあるかい?

俺たちは過去の経験によって形作られているよな。

それこそガキンチョの頃の原体験から最近の仕事でのやっちまった体験まで、俺たちは隅から隅まできっちりと記憶によって出来上がっている。

それは俺たち誰でも同じことが言えると思うんだよな。

ところが、この記憶ってやつは結構危ういものでもあると思うんだ。

今回はこの記憶ってやつについて考えてみる回だ。

ちっと俺たちの地面について一緒に考えてみようぜ。

過去は変えられないって言葉

一般的に聞く言葉の一つに「過去は変えられない」って言葉があるじゃんか?

過去に起きた事実は時間の不可逆性に伴って、変えることは出来ないっていう至極物理的な制約事項だ。

ところが、この過去に起きた事実ってやつについて、俺たちはびっくりするくらいにあやふやな記憶ってものに頼って認識をしている。

ぶっちゃけ、今年の1月1日に何を考えていたかとか覚えちゃないだろ?

俺たちはそんなあやふやな情報で俺たちを形作っている。
こいつが現実ってやつなんだよな。

つまりは、俺たちは過去によって形作られていながら、その情報は非常に曖昧で、真剣に過去を記録して置かなければ、俺たちは俺たちを形作っているものが何かってことも明確にできないってわけだ。

だとすればだよ?
実際に起こったことは変えられない。
でも、その起こったことの解釈は変えられるし、なんなら変えないでいることのほうが難しいってことになるんだよな。

過去の解釈を決めるための今

過去の解釈はいくらでも変えようがあるってのが現実だとして、その「変える」って動機はどこから生まれれるんだろう?

例えば、小学生のときに感じたことを記憶していたとして、その記憶の解釈を俺たちは何をきっかけに変えようって思うんだろう?

本質的には俺たちに自由意志はないのだから、記憶の解釈の変更ってのも反応でしかないんだけれども、過去の解釈の変更があれば、今この瞬間に俺たちが感じ続けていることが少しはましになるってのがあるとすれば、その可能性を高めていきたいって思うのは自然なことだよな。

では俺たちは今という瞬間になにを感じて「今を変えたい」とか「これからを変えたい」って思うんだ?

色んなパターンがあるとは思うけれども、間違いなく「今」に不満を持っている時だよな。
もうちょっと言えば、不満を持っている「今」に対して過去が影響しているって確信しているって時だ。

今に対する不満

で、そこで考えてみる。
俺たちは今に不満を持っているのか?
そして、その今は過去の自分の経験によって作り上げられているのか?

まず「今」に対する不満を考えてみるわけだけれども、満足もしていないが、不満にも思っていないってのが実態だと思う。
正確に言えば不満を感じるようなきっかけを持てないってのが良いのかも知れない。

例えば給料少ないなぁ~とか、もっと友だちほしいなぁ~とか不満を持っていたとする。
でも給料が少ないのは自分の働きを誰にでもわかるように説明できていないって「今」の問題だし、友だちとやり取りできていないってのはやり取りするための時間をうまく調整できていないっていう「今」の問題だ。

そうなんだよ。
俺たちは「今」の問題と「過去」の問題を直接的に関連付けることが出来るほど、「過去」を正確に把握しているわけじゃないんだよな。

常に俺たちは「今」の問題と対峙し続けているってことなんだろう。

「今」「ここ」。

それに意識を向けて行くってのが俺たちが出来ることなのかもしれないな。
「過去」と「今」の関連性をうまく解釈できないのが現実だとすればさ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは、過去と今と未来を過ごすにあたって、「今」だけにしか価値を見いだせないんだろうか?

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