ヒトの自然 世界の自然
あんたもなんの気なしに世の中を眺めて「そんなもんだ」と気にもとめないことについてふと考えて「あれ?」って思ったりすることあるかい?
フォローさせてもらっている伊藤ぱこさんがこんな記事を書いてくれていた。
いわく、洗濯洗剤で「消臭」しているのに、柔軟剤で「香りをつける」って行為は矛盾しとらんか?って話。
そして、その矛盾している行為に対してある種の愛着を持っているって話。
似たようなことを俺も電車の中で感じたことがあるんだよね。
中吊り広告ってあるじゃん。
結構な頻度で脱毛の広告と育毛の広告が近所に掲示されているんだよね。
生やしちゃー抜いてと忙しいこったと思いつつ、ヒトが持っている美意識ってのはこういう風に少なからず「自然のまま」ってのに抵抗を見せる事によって成立している面があるようにも見えるわけだ。
今回は俺たちの矛盾と自然について考えてみる回だ。
まあ、デッカイテーマに挑む矮小な俺を眺めてみてくれよな。
自然のままのヒト
ぶっちゃけて言うと、ヒトと言う生き物が生き物としてどのような生活に最適化されているのか?って考えると、サピエンス全史で言うところの農業革命以前の生活ってことになるんだよな。
いわゆる狩猟採集によって生活するスタイル。
ヒトってのは本来雑食を前提に体の構造は出来ていて、今みたいにお米だとか小麦だとか牛肉、豚肉、鶏肉みたいにごく一部の食料だけを食べて生きているってのは実に生き物としては不自然なんだそうだ。
もちろん、狩猟採集生活では土地に定住するってことが出来ないので、技術の発展や継承と言う事ができにくいので、今のような発展もなかっただろうし、定住していないから、乳幼児に対するケアもできにくい。
ヒトと言うのは脳を大きくするために出産という行為に対して結構デカイリスクを抱えている。
赤ん坊を他の動物のように生まれた直後にある程度行動ができる状態まで母親の胎内で育ててしまうと、赤ん坊の体が大きくなりすぎてヒトの産道を通り抜けることが出来ない。
それ故に、ヒトは未熟児の状態で出産すると言う荒業を生き物として選択したわけだけれども、当然未熟児単体ではこの世界で生き残ることが出来ない。
で、集団で赤ん坊を維持すると言う「社会」が必要になってくるわけだけれども、ヒト本来の体の構造が狩猟採集を前提になっているので、安定した育児環境の確立ってのは非常に難しい。
な?ヒトってその成り立ちから矛盾にまみれた存在なわけだ。
一言で自然のままでありたいと言葉にしてみても、その自然の姿そのものがある種の歪みを持っているってわけだ。
自然に抗い続けたヒト
で、そんな歪を抱えた俺たちヒトは何をしてきたのか。
田畑を開拓し、家畜を飼い、産業を勃興させ、情報と言う形なき価値を創造し、来るべきシンギュラリティの先にはある意味でヒトそのものを超えた不自然な存在を生み出しつつある。
iPS細胞の発展によって、ヒトはヒトの体すら自ら作り出していくことで自らの存在の不自然さに拍車をかける事になっていくだろう。
そこまでだいそれたことじゃないにしても、伊藤ぱこさんの言う洗濯洗剤による脱臭と柔軟剤による香り付けのようなちょっとした矛盾をあわせて考えてみると一つの言葉が思い浮かぶわけだ。
ヒトは不自然であることが自然なんじゃないか。
ってね。
ヒトが認知革命を経て、「誰かと協力する能力」でこの世界に生き残る事が出来ているってのは紛れもない事実だと思う。
ところが、この能力はヒト以外には持っていない能力なんだよな。
他の動物はせいぜい100体くらいが協力し合うことはあっても、ヒトの様に億単位のヒトがある目的のために共通して行動することは出来ない。
こっからも感じ取れるじゃんか。
俺たちヒトがどんだけこの世界にとって「不自然」な存在なのかってのがさ。
そう考えると、洗濯洗剤で脱臭した後に香り付けするのも、脱毛した後に育毛するのも、俺たちヒトにとっちゃ極自然な行為ってことになるのかもな。
なあ、あんたはどう思う?
不自然であることが俺たちが抱えているテーマだとして、そのことは俺たちにどんな福音を与えてくれるんだろうな?
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