常識と信頼
あんたは知らないことってあるかい?
まあ、「俺には知らないことなど無い!」って断言するやつがいたら、バッチリ距離を取りたくなると思うんだけれど、「こいつ、なんも知らねぇな」って思われたくないってのも同時に思うのがヒトってやつだと思うんだ。
実際のところ、俺には知らないことが山程あって、仕事でもプライベートでも普通に初めて知ったって出来事が日常的にある。
オッサンになってもそうなんだから、若者もそうなんだろうし、きっと御老体もみんなそうなんだろう。
ところが誰かが自分の知っていることを「知らない」って状態はなぜだか嫌悪感を生み出すってことも普通にある。
今回は情報を得ているかどうかに対する俺たちの感情について考えてみる回だ。
ちっと俺らの感情の沸き起こる原因について考えてみようぜ。
サンデーモーニングでの「知らない」発言
今回、「知っている」ことを共有していないことへの嫌悪感ってことを考える切っ掛けはちっと前に話題になったこのニュースだった。
何やら、高校野球で起きている問題について関口宏さんが知らなかったことにネット上で批判が起きているってニュースらしい。
俺個人としては、サンデーモーニングは結構問題を感じていて、視聴することはあまりないんだけれども、それでもこのニュースには違和感を感じた。
マスメディアで活動しているヒトは何でも知ってないといけないんだっけ?
そんなこと言ったら、SNSが生活の一部になっている現代では誰しもが何らかの発信をしている世界観なんだから、その発信の中で「知らない」ことを吐露したら、それだけで批判の対象になっちゃうんだっけ?
それが偽らざる感想だったんだ。
知識と村意識
とか言って、この「知らないことを批判するヒト」を悪く言っても仕方がないので、なんでこう言う批判が出てくるのかって事を考えたくなるじゃんか。
確かに俺たちを取り巻く世界では、常識とされることを知らないヒトへの批判ってのは普通に起きていると思う。
織田信長を知らないってヒトがいたら、普通に「え、このヒトまともに付き合えるんだっけ?」って思ったりするのは想像に難くない。
織田信長の知識は仕事でもプライベートでも直接は大きな影響を与えないにも関わらずだ。
この感情が何処から来るのかって考えると、共同体ってキーワードにたどり着く気がするんだ。
村意識ってやつだな。
つまり、同じ常識を共有できていることで、自分の想定外の行動を相手が取らないことへの保険とするって感覚。
それは俺たちの中にも普通にある感覚だと思うんだよね。
約束と信頼
じゃあ、なんでそう言う想定外ってやつを俺らは嫌悪しているんだろうか?
多分、計画が出来ないからなんだろうな。
俺たちはほぼ例外なく、誰かと協力しながら日々を過ごしていると思う。
仕事では成果を上げるためにチームとして取り組むだろうし、プライベートでも日々起きる課題に家族や仲間と取り組んでいると思う。
その協力をするために必要なもの。
それが信頼だよな。
このヒトならこれが出来る。
このヒトならこれをわかってくれる。
細かな信頼の積み上げによって、俺たちは協力することが出来ているんだと思うんだよ。
で、その信頼によって、俺たちは誰かとの約束を守ることが出来る。
約束を守り続けることで新たな信頼を得ることが出来る。
俺たちの生活は約束と信頼の輪で出来上がっているってわけだ。
で、その肝心要の信頼はどうやって最初に作られるのか?
それが「常識の共有」ってことなんだろう。
さっきの織田信長を知っていることも、高校野球で起きている問題について知っていることも、「常識」を共有できているヒトかってことの踏み絵になっているってことだ。
「常識」の難しさ
ところがだ。
この「常識」ってのが実に難しい。
だってネットが個人の興味を細分化してしまっているので、知っていて当然って情報が細かくなりすぎていると思うからだ。
例えばPythonってプログラム言語があるよ~ってのは俺の中では常識だけれども、そんなコトたぶん俺の家族は誰一人知らない気がする。
聞いたトキないけど。
逆に家族の誰かが常識と思うことで俺の知らないことも山ほどあると思う。
そう考えると、常識を共有できているかどうかで協力できるのかどうかってのを区分けしてしまうのって実は相当もったいないのかもしれないな。
だって、家族ですら「常識」を共有できていないことがあるのに、それでも協力して生活出来ているんだから。
共有できている常識と共有できていない常識は必ず両方存在する。
だからこそ俺たちは共有できている常識ってにすがって協力関係を作り出しているって思うんだよね。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは「非常識」という色眼鏡を外してヒトを見ることが出来るんだろうか?
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