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「嫌われ者」が物語に必要な理由

あんたは物語における「嫌われ者」ってキャラクターについて思うところがあったりするかい?

1stガンダムならマ・クベだったり、銀河英雄伝説ならオーベルシュタイン。
宇宙戦艦ヤマトなら藪助治あたりか?
※藪については2205で大活躍だからだいぶ印象が違うかもしれないけれど

進撃の巨人なら文句無しでフロックだろうな。

この「敵」じゃなくて「嫌われ者」って立ち位置ってなんで物語に求められているんだろうな?

今回はこの「嫌われ者」ってキャラクターの必要性について考えてみる回だ。

ちっと物語が存在する意味を含めて考えてみようぜ。

嫌われ者の主張する内容の共通点

マ・クベにしろ、オーベルシュタインにしろ、フロックにしろ、藪にしろ共通しているのは、主人公たちが聞きたくないことを言うってのがある気がするんだよな。

マ・クベはオデッサの戦いで核ミサイルを撃つって言う暴挙に出ているわけだけれども、地下資源を連邦に取られるくらいなら、不毛の土地にしてしまうくらいしないと、ジオンが戦いに勝利することは出来ないって判断のもとの行動だ。

まあ、マ・クベの場合は完全に敵なので、主人公が嫌がるとか言うレベルじゃないかもしれないけれど、ジオンの側の人間としても、マ・クベの行動は素直に受け入れるのは難しい気がする。

銀河英雄伝説のオーベルシュタインは、明らかに身内に仲間はいなかったよな。
政争を勝ち抜くために星ひとつの住民の虐殺を「止めさせなかった」ってのが俺の印象の中で強い。

進撃の巨人のフロックはエルヴィンとアルミンの命の選択で一貫してエルヴィンを選択して、その選択をしなかったリヴァイの判断を「私情」だと切り捨てていた。

藪はオリジナルの宇宙戦艦ヤマトでイスカンダルを乗っ取ってでも地球人は生き残るべきだと主張した。

この共通点ってなんなんだろう?

きっとだけれど、「合理性」なんだろうな。

「合理性」に対する嫌悪感

マ・クベの核ミサイルも、オーベルシュタインの虐殺黙殺も、フロックのアルミン切り捨ても、藪の利己的な生き残り作戦も、実はその状況だけを切り取ると実に合理的な判断だと思える部分がある。

合理的という言葉以外の言葉を使うとすれば「リスクを最小化する」行動って言っても良いかもしれない。

色んなケースがあるとは思うけれど、場合によってはその行動は「正義」とされることも普通にあると思う。

その「正義」に俺たち視聴者は嫌悪感を感じる。
これはどういうことなんだ?

進撃の巨人のフロックを例にとって見る。
フロックのエルヴィンを選択するって主張は、おそらくあの場にいたエレン、ミカサ以外のすべてのヒトの合意を得られたと思う。

ってか、あの場でアルミンを選択するってのはバクチ以外の何物でもないって思うしね。

「合理性」を嫌悪させる必要性

それでもその合理的な判断を「嫌悪感」をもって俺たちは捉えたし、その主張が「嫌悪するべきもの」って表現も盛り込まれていた。
※「悪魔を殺せるのは悪魔だ」ってセリフとか

なぜ物語において、合理性ってのは否定される必要があるんだろう?

おそらくはその合理性がもたらすものにポイントがある気がするんだよね。
つまりは「無難」な選択ってやつだ。

いや、マ・クベの核ミサイルやオーベルシュタインの星ひとつ壊滅させるのを黙殺するとかは全然「無難」じゃないよ?
ただ、その行動をしなかったときに比べると「無難」な選択に見えるってだけだ。

で、その「無難」ってのは物語そのものが否定しないとイケナイものだ。
だってそれを肯定したら物語自体が「無難」になっちまう。

物語がエンタメである以上は、物語自体が「無難」になることは絶対に避けなければイケナイ。
それ故に、物語は全力で「無難」を「嫌悪感」をもって表現する必要があるってわけだ。

そう考えるとさ。
「嫌われ者」のキャラクターって物語にとっての人身御供だよな。

なあ、あんたはどう思う?

「嫌われ者」によって俺たちは物語をエンタメとして楽しめていると思うかい?

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