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子どもの泣き言と大人の迷い

あんたも子育てなんて無理難題に取り組んでいたりするかい?

子どもって言う一個人に対してたかだか20年だか30年だかの経験値を持って大人が何かを伝えるってコト自体がなかなかな無理ゲーだとは思うんだけれども、それでも子どもに何かを伝えなきゃ子どもが大地に立つための靴すら用意しない事になっちまうので、正解もわからないまま何かを伝え続けている毎日だ。

そんな毎日を過ごす中で、我が家の息子が最近特に「泣き言」を言う様になってきている。

今回は子どもが漏らす「泣き言」について考えてみる回だ。

ちっといつもどおり解決方法にまではたどり着かない話だけれども、付き合ってくれよな。

子どもの泣き言を嫌う大人

ぶっちゃけて言えば、息子の泣き言を聞くたびに感情が揺さぶられているって現実がある。
聞きたくないじゃん。ヒトの泣き言なんてさ。

特に子どもの泣き言なんて、大抵は「やれば良い」って結論が見えちまうような泣き言ばっかりだ。
そらそうだ。子どもたちの世界はまだほんの僅かな広がりしか感じられていなくって、自分たちが出来るコトを徐々に広げていっている段階なんだからね。

ところが子どもたちはその「やる」ということに対する抵抗感をどストレートに感じているんだろうって思える。

多分だけれども、俺たち大人は無意識のうちに最低限やらなければならないことを見極めて、そこに注力することで「面倒くさい」に対抗しているんだと思う。
ところが子どもたちにとっては、その最低限やらなければならないことを見抜くスキルを十分に育てられていないので、茫漠たる「やらなければならないこと」に押しつぶされてしまって一歩も進めなくなっているってのがあるんだろうって想像をするんだよね。

でもそのコトを大人の俺たちは共感できない。
だって、そこに共感できるようなら大人の社会で立ち回っていくことなんてデキッコナイスじゃんか。

結果として、子どもたちの「泣き言」に俺たち大人は不快感を感じてしまう。

ちっと良くないサイクルだよな。

子どもの泣き言をどうするべきか

そこで、考えてみる。

子どもが泣き言を言うのは、多分自然な流れなんだと思う。
だって、子どもにはまだ出来ないことが山程あって、その山の大きさすらわからないまま「やれ」と言われている状況なんだからね。
泣き言の一つも言いたくなるってもんだ。

でも、息子のケースではその泣き言を放つたびに周りの大人が不快感を示しているのも感じ取っていると思う。
それでも泣き言をやめないのは「やめられない」からなんだよな。

なぜやめられないのか?

きっとだけれども、「正解」にたどり着くことが自分の存在意義だって感じているからなんだろうな。

義務教育の現場では、なかなか正解の無い問題ってものを子どもたちが考える機会ってのは少ない気がする。
教科書ってのは正解が連なっている本だし、テストは正解を導き出すことで評価するって仕組みだもんね。

当たり前だけれども教育って正解を教える場所なんだから、それが生活のメインになっていれば「正解」を求められることってのが基本になるって感覚はスゲーわかる。

そして、そもそも教育機関に「正解のない問題」を提供しなさいよってのには無理がある。

だって、そんなん提供することがルールになったら、どんな問題を出すのが「正解」なのかわからないから、教育現場での成果を測る指標が無くなっちまうしね。

子どもたちを完璧主義から救う

でも、正解だけを求められ続けることが人生だって子どもたちが感じちまうのも、ちと違和感がある。

そうなると、正解のない問題をどうやって子どもたちに体験させるかって話なんだよな。

ところが実にこれが難しい。
俺たちが直に感じている「正解のない問題」ってのを子どもたちと共有するためには実に多くの前提を共有する必要が出てきてしまう。

例えばキリスト教とイスラム教と仏教とで教える「正しさ」の中でどれを選ぶのが良いのかとかさ。

そんなん、俺が知りたいわって話になっちまうもんね。

思うに、そう言う問題に対して考える大人の姿ってのを子どもたちに見せることから始めるしかないんだろうな。

迷っている大人。
それが子どもたちにとっての最大の教材ってことなのかもしれない。

なあ、あんたはどう思う?

俺たち大人の迷いをどうやれば子どもが受け止める事ができると思う?

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