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【翻訳】ファンタジー作家ロード・ダンセイニ インド紀行 その2

皆様、ごきげんよう。弾青娥だん せいがです。

このたびの記事は、東洋にも強い関心を持つファンタジー作家ロード・ダンセイニ(1878年~1957年)のインドにおける旅にまつわる、以下の記事の後編になります。

註:〔〕の追記は和訳者によるものです。ほとんどの詳細は今回の翻訳の後に記しています。




第27章 ジャングルと宮殿にて

ある晩に私たちは、ボーパールの総督代理であるオズワルド・ボザンケット卿〔1〕とその姪に、この湖を見渡せる彼の邸宅で食事をとりました。他に賓客として招かれていたのはインド出身の詩人とインド音楽の演奏家でした。この演奏家は太鼓の演奏者を連れて来ており、ディナーの後に不思議な楽器でインド音楽を私たちに披露してくれました。同行していた太鼓奏者は床に座って優しく楽器をたたいて伴奏をしていました。この演奏家は最初は私たちと同様に椅子またはソファのようなものに腰を下ろしていましたが、しばらくすると、こうした西洋の事物は奏でる調べによって演奏家のもとから運び去され、太鼓奏者のそばで床に座るに至ったのです。

ボーパールから私たちは道中アーグラに寄り、デリーに向かった。よしんば動物虐待防止協会〔2〕が事務所をロンドンから移転させてインドに設立させれば、ここロンドンよりもはるかに多い仕事が舞い込んでくることでしょう。同協会の職員たちが手始めに、小鳥に残虐行為をして毎朝観光客を楽しませる男たちを取り締まるところを見たいところですが、どのホテルから出ても、そのような人たちと多分出くわすことでしょう。

私の生涯で、娯楽と芸術は同じくらいに強い魅力を有しています。アーグラにおいては双方の魅力がはっきりと現れました。月光に照らされるタージ・マハルを目にしましたし、街の通りで老齢の狩猟案内人に会ってブラックバック〔3〕狩りに連れていくように手配もしました。このブラックバックのことは散文で語ることができますが、タージ・マハルと比べると見劣りするばかりですので、この建築に対する二種類の短い韻文体の印象記をここに添えておきましょう。そのうちの一つ目は、12月14日のシカンドラ〔4〕にてアクバルの墓から、夕暮れの地平線に浮かび上がるように存在感を示すタージ・マハルを見たときのことを詠ったものです。

夢から夢へ

タージ・マハルのはじまりは、
(かつて夢に、空想に生きながら全てを為した)皇帝の悲哀。
三百年前に皇帝シャー・ジャハーンを襲った苦痛を
行き交う何千もの民が知らぬまま眺める。

紺碧の夕にアクバル廟の上から目をやると、
落暉の空をこえて、地平線に見える淡い桃色。
片側に宙に浮く影を、もう片側に幽けき光を映す。
再び夢へと帰る、黄昏のタージ・マハル。

注釈を加えておきますと、この詩の最後の単語〔5〕は名詞であり動詞ではありません。それをお伝えしなければ、詩の全体が完全に明瞭になるまいと懸念しております。もう一方は3日後のデリーにて書いたものです。

アーグラ

薔薇色の壁は護られずとも、かつてのように強固で、
今や宙にただよう塵となりし諸王朝を護った。
インドの入日が、薄紫、緑、黄金の色を湛えるなか、
笛の音色がどこからともなく、かすかに聞こえる。

この瞬間に記さなければ、我が記憶から消えゆくものたち。
突如として曇天の夜に、淡い月光を浴びるタージ・マハルの
丸天井ドームが少しきらめけば、
思わせるのは、枯れゆく川のそばの郷里ふるさとから

刹那ばかり奪われた、深みに再び沈みそうな真珠。
やがてこの見えざるモスクは急に視界に入り、
一度ほほえみ、ねむりに戻る。
こうした光景ながめを記憶にとどめよ、この目が光を灯しているうちに。

アーグラ城塞とジャスミン塔は他の書籍でも語られていますが、本書では、ヒトラーが爆破したくなるような場所であると言うにとどめましょう。私は妻といっしょに、アクバルの建てた赤砂岩の都市であるファテープル・シークリー〔6〕も目にしましたが、今やヒョウだけが棲む地です。

インドでは人に関わらない動物と、人に飼いならされた動物とが暮らす距離が、私の知るいかなる国よりも近いです。先述の狩猟案内人と出掛けた日、忍び猟ストーキングは人間に出くわすことで中断されることが多かったです。スコットランドやアフリカではあまりないことでした。どの地域でのことかは知りませんでしたが、インドでは地域によってクジャクが神聖な存在であると知っていました。しかし、初めて出くわしたクジャクを見て、この地域では聖なる動物であるに違いないと分かりました。自信に満ち溢れているという雰囲気を漂わせていたのです。そのため、私は撃ちませんでした。その日はなかなか上等な角をしたブラックバックを2頭しとめ、十分に満足して帰途につきました。

アーグラから移動し、私はジョージ・シュスター卿〔7〕夫婦にもう一度会いました。シュスター卿はスーダンでの財務大臣の座を譲ってからインドの財務省関係者たちに応対しているところでした。二人が暮らしていたのは、総督府議会の議員向けにニューデリーに、庭に囲まれるように建てられた住宅群のうちの一軒でした。この住宅群は華やかではあります。とはいえ、こうした高官たちの妻のなかには、習慣的に芝生の前庭を綺麗にしていっしょに時を過ごす者もいて、唯一の暗い影というべきものが垣間見えます。親切なシュスター卿夫人は、夫が当時不在だったにもかかわらず、私たちがデリーを経由する際に数日にわたって自宅に泊めてくださりました。デリーのことを語るのであれば、歴史家にお任せして別の書籍で説明するのが相応しいでしょうし、宝石商にお任せして別の書籍でチャンダー・チョーク〔8〕について語ってもらうのが望ましいでしょう。チャンダー・チョークとボンド・ストリートには重大な違いが一つあります。それは、前者では舗装路を遮るように牛が横になっていて、牛は自分たちが神聖視されているのを知っているゆえに人々が牛を避けて歩かなければならないということです。もう一つの違いは、ニューデリーの陥落した回数が6回であるのに対してボンド・ストリートは1回だけであるということです。とはいえ、それはオールド・デリーでのことです。さて、ニュー・デリーにおいて印象的だったのは、偉大な建築家二人が夜になると丘のまわりをぶらついて奪い合おうとしている様子です。そのことから誤った情報が旅人にもたらされているのが分かります。しかしながら、国会議事堂と総督官邸は双方、丘の上に建つように意図されていますが、ニュー・デリーに丘は一つしかありません。丘の上に建っているのは国会議事堂であり、一方で総督官邸にいたる道は入り口に近付くにつれて大きな曲線を描くように上がっていきます。ですが、そうなるためには谷を掘削する必要があり、その作業のおかげで上り坂ができました。ニュー・デリーのいたるところには人工の川が一本流れていて、それが功を奏して大きな建造物の美しさに磨きがかかっているのは間違いありません。けれども、この世に影を伴わない光も、デメリットの伴わないメリットもないと言うべきでしょう。それゆえ、あの流れのよどんだ川は蚊が詩歌をもって称える理想の生息地なのでしょう。私たちは壮麗なモスクであるジャーマー・マスジド〔9〕と、要塞〔10〕のなかにある宮殿内部の〈地上の楽園〉とを目にしました。宝石を散りばめた首飾りをまとったこの要塞内では、大理石製の小さな水路という水路がのびていて、金魚がその中を、王の玉座を通りすぎるように泳いでいました。ところで、かつての民には地上の楽園に対する信仰がありました。というのも、壁面の一つに、ペルシャ語でこのような文言が記されているからです――「地上に楽園があるならば、それはこの地なり、この地なり、この地なり」と。


〔1〕オズワルド・ボザンケット
1866年生まれ。ボーパール藩王国の近くに位置するインドール藩王国の総督代理を務めた人物(1903年~1907年、1916年~1919年)。1933年没。

〔2〕動物虐待防止協会
英国動物虐待防止協会。動物福祉を目的にした慈善団体。1824年に創設。

〔3〕ブラックバック
インド産の羚羊。

〔4〕シカンドラ
タージ・マハルが建つ都市アーグラの一地区。ムガル帝国の偉大な君主のアクバルの廟と、妻のマリヤム・ウッザマーニー・ベーグムの墓があることで有名。

〔5〕詩の最後の単語
原文における表記はdream。

〔6〕ファテープル・シークリー
ダンセイニが記した通り、アクバルの建てた都市である。アーグラから遷都される形で新首都となったが、首都としては1571年から1585年という短命だった。

〔7〕ジョージ・シュスター卿
1881年生まれ。法廷弁護士、資本家、植民地の行政官、政治家として幅広く活躍。1982年に没し、101歳で大往生を遂げた。

〔8〕チャンダー・チョーク
ロード・ダンセイニはChunder Chokと綴っているが、実際は、オールドデリーで最大の繁華街であるチャンドニー・チョーク(Chandni Chowk)だと考えられる。

〔9〕ジャーマー・マスジド
上述の繁華街チャンドニー・チョークの東端あたりに位置するモスク。

〔10〕要塞
デリーに位置する赤い城のことと思われる。


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